第29話 青嵐、そして恵風 1

「陶芸講習?」

 樹は伏せていた瞼を上げた。広い肩に似合う真っ白のシャツが日差しをはじいている。

 緑きらめく大学構内のオープンカフェテラス。初夏の風が通っていく。


 ここは去年出来たばかりの人気スポットで、いち早く夏の装束に身を包んだ若者達で賑わっていたが、二人は運良くポプラの木陰に席を占める事ができ、丸い木製テーブルを挟んで向かい合っていた。よくある緑の日よけの傘がテーブルの真ん中からにょっきり生えている。

「うん、夏休みに入ってすぐの一週間、郊外のお山に窯とアトリエを持っている陶芸家の先生がいて、そこに泊り込むの。最終日の土曜日は半日で終って解散になる予定」

 風花は樹の様子を気にしながら丁寧に説明した。

「ふぅん……」

 銀縁眼鏡の奥の涼やかな目元が再び伏せられる。

「行っていい?」

「そんな目をして俺に尋ねないでください。行きたいんでしょ? 俺にあなたを拘束する権利なんてない。尋ねてくれたのは嬉しいけれど」

「うん。アドヴァイザーの先生が推薦してくれて、めったにないチャンスだって思ってね。去年、選択実習で陶芸を選んだ時すっごい面白くて、またやりたいってずっと思ってたんだ」

「そう?」

「うん、ウチの学校からは五人と、他の大学からも数名来るだけの小さな講習なんだけど、毎年競争率がすごくてね。ラッキーだったの」

「他の大学?」

「え? う、うん」

「風花」

「はい」

 萌黄色のシャツに首をすくめながら風花はなんとか笑って見せた。

「はい、じゃないでしょ? まだ全部言ってないことあるよね?」

「……え、えっとぉ〜」

「小川さんも来るんでしょ? その講習会」

「うん……実はそう。おととい連絡があってそう言ってた」

「連絡しょっちゅうしてるの?」

「ううん、たまにだよ。お互い制作で忙しいし。陶芸ね、私すごく興味を持っててね、土と火の芸術を純粋に勉強したいだけ。私のこと信じられない?」

「風花のことは信じてる」

 樹はむっつりと言った。信用ならないのはあの変に魅力的な男である。

「わーい、じゃ、行っていいんだ」

「でも、小川さんとはあんまり親しげにしないでね。俺、心狭いから」

「樹君、気にしすぎだよ~、小川君は今まで私を異性として興味持ったことなんかないよ? 昔からいい友人だけってだけでさ。それに合宿なんだし、お部屋は男女別の大部屋だし。第一、あの小川君が首都圏の大学で大人しくしてる訳ないじゃない。きっとステキな恋人ができたに決まっているよ」

「そうかな?」

「そうだよ!」

 樹の疑わしげな流し目に、風花は勢いづいて同意し、目の前のグラスから思い切りアイスカフェオレを吸い込んだ。

「あ、これおいしいね~。そう言えばここのカフェ、夜にはレストランになるんだってね。こないだTVで紹介されていたよ。すごいね大学なのに」

「そう?」

 それは事実で、ここは国立大学には珍しく、本格的なフレンチを安く一般にも提供する店として隠れた名所になっているらしい。学生協の入っている、ま新しい建物の一階のほとんど全てを占める瀟洒な店は、学問の府の古い学舎が立ち並ぶ構内ではすこぶる違和感がある。

 風花はこの店の紅茶やアイスが好きで、たまに時間が空くと、自転車を飛ばし、二十分かけて自分の学校からお茶をしにやってくる。

 樹が同じK市の大学に通うことで、一緒に過ごせる時間は以前より多くなった。しかし、風花も樹も割合忙しく、週末を除くと通学以外に会う時間といえば、このお茶の時間ぐらいだったのだ。

「ね、今度ここの夜の部に来て見たいな。フレンチおいしいんだってね」

 風花はうまく話題を変えられたと思い込んで提案する。しかしこんな見え透いた手で、ごまかされる樹ではなかった。

「夜の部ねぇ」

 樹は長い腕をずい、と伸ばして風花の髪を掬い取った。最近樹は意識して以前のような敬語を使わなくしている。風花もそれに気がついていたが、もともと先輩という自覚はないのでむしろ嬉しいくらいだった。

「うん!」

「あのさ、風花」

 大きな掌に毛束を乗せ、くるくるもてあそびながら樹は風花の視線を捉える。

「うん」

「夜の部というならね。その合宿が終ったら俺とお泊りしてみない?」

「え!」

 大きな目がさらに見開かれ、向かい合う青年のクールな口調とはうらはらな、真剣な瞳とぶつかる。

「勿論イヤならかまわないけど」

 優しいとも悲しいともいえない、それでいて雄弁な瞳は風花から視線を外さない。

「……え、えと……」

「ごめん。つまらないこと言ったね。忘れていいよ」

 ふいに視線の圧力が軽くなった。それを感じてなぜか風花の胸に微かな痛みが走る。

「……いいよ」

「え? 今なんて言ったの?」

「……聞き返さないでよ」

「風花……ほんとに?」

 珍しく本気で驚いたらしい樹が重ねて問う。

「……うん」

「いいの? 意味わかって言ってる?」

「……」

 風花はもう顔を上げられずに、こっくりとうなづいた。さすがに男性と泊まりの旅行に行けば、何がどうなるかぐらい知っている。

「……じゃあ、二週間後の土曜、陶芸講習が終ったらK駅で待ち合わせで……それでいい?」

「うん……じゃあ講習会別に反対はしてないんだね?」

 風花はぱっと顔を上げた。

「風花の勉強に俺が反対できるわけないでしょ。そんな嬉しそうにしないでよ。喜びの対象はソッチですか?」

「あ、そうか」

 風花は再びしゅんとなった。

 ——思う、仕方がないなぁ……。

 樹は少々がっかりしたが、こんなことで凹んでいたら風花と付き合えない。

「それでね、お隣の場所なんだけど」

「……どこに行くの?」

「そうだね、どこか静かで景色のいいところ探しておきます。お家の人には俺から話そうか?」

 樹はあっさりと、とんでもないことを言い出した。

「え⁉︎ ええーっ! いい! 絶対いい! 家族のことは!」

「そう? でも俺、隠れてコソコソしたくない。俺真剣だから、ちゃんとご両親に話せるよ」

「それはそうだろうけど!」

 樹の真剣な目をまともに見返せなくて、風花は焦った。

 樹が軽い気持ちでこんなことを言う人間ではないことぐらい、風花もよくわかっている。彼はこんなぼんやりした自分のことをすごく認めてくれているのだ。しかし、することも考えることも、のろまな自分には一度に受け止めきれないこともある。ちょうど、今のように。

 ——正直オヤを前に、清水君とお泊まりしてきまーす、なんてとても言えない気がする。うわー、うわー。こう言うとき女子は不利だぁ。

 母はともかく、父がなんて言うか(泣くか)、風花は想像するだに恐ろしかった。

 ——こはとりあえず、友だちと講習会の打ち上げするとかって言っておこう。お父さん、悪いムスメでごめんなさい!

 風花は一生懸命に考えた。そんな風花を樹は黙って眺めている。

「……どこか行きたい所あったら言って。ホテルがいい? それとも旅館?」

 ——ほてる?ホテルですか?

「う〜ううう……ど、どこでも」

「俺が決めていいの?」

「う、うん。うん」

 風花の首から上は真っ赤である。後ろの鉢植えの緑といい対照だ。

「風花、ほんとに大丈夫? 無理しなくていいよ? 俺はこれでも我慢強いし」

 ——何年片思いして来たと思ってんの?

「いい……だって大好きだから。樹君のこと」

「……」

 今度は樹が言葉を失った。風花からこんな風に言ってもらえるのは初めてではないか?

 ——お姉さん、イキナリのカウンターパンチは酷い。

「……そお? 偶然ですね、俺もです」

 声が上ずらないようにするのが精一杯の樹だった。

「あ、もう学校に帰らなくっちゃ。午後の実習ははモデルさんが来るんだった」

 風花はそう言って残りのオーレをじゅるじゅるとストローで吸い込む。食べ残し、飲み残しをしないところがこのムスメのいいところだった。食べ物で直らない機嫌は滅多にない。風花は満足そうな笑顔をまき散らしながら甘ったるいオーレを飲み干した。

「ごちそうさまでした! じゃあ!」

 立ち上がる風花に樹も腰をあげる。

「どういたしまして。門まで行こう」

 青みを増したポプラ並木の下を校門まで二人で歩く。

 日差しは既にかなり眩しいが、木漏れ日の下を吹く風はまだ爽やかだ。風花は簡単なチェックのスカート裾をはためかせながら、ぴょこぴょこ樹の横について来た。

「じゃあね」

「気をつけて。あまり急がないで」

 小さな体を無骨な黒い自転車に乗せ(おそらく友人のものだろう)、よろよろと走り去る姿を見送って、樹は踵を返した。


「お~い、清水ぅ~!」

 しばらく歩いたところで、のんびりした声がかかった。

 中背だが細身の体に、三角リュックを斜めにかけた男子学生が走り寄って来る。同級生の柳素直である。

「柳か、なんだ」

「なんだはないやろ~。相変わらずブアイソなやっちゃなぁ」

 柳は別段気を悪くした風もなく樹の横に並ぶ。

「それより今のコ誰~? 彼女なん?」

 樹は自分より頭半分背が低く、普段から笑っているような童顔の柳を見下ろした。今しがた分かれた身近な人物に似ているようで、彼は決してこの柳が嫌いではない。

「見てたのか」

「うん。ええな~、高校生? かわいいなぁ」

「……年上」

「ええっ、ほんまか⁉︎ ってすまん、つい思ったことが出てまうタチで」

 心底悪いことをしたように柳は細い目を更に引き伸ばした。

「別に」

「でも、ええよなぁ。俺なんか男子校で勉強ばっかりさせられてたし、大学入ったら入ったで、理系やから女の子少ないし、授業は忙しいし~。彼女なんてユメやわ~」

「……そか」

「あ、せやせや。こないだパンキョーの体育で、一回生対象に体力測定あったやろ?」

「ああ。統計を取るとか言ってたやつ」

「せや。んでな、その結果が総合棟の掲示板に張り出してあってん」

「で?」

「でな、お前学部で総合一位! 一位やで~! すごいな!」

 自分のことのように嬉しそうに柳は笑って言った。

「へぇ、そうだったのか」

「……って、それだけかい! まぁええわ。それでな、頼めばもっと詳しいデータもらえるって言うから、それを伝えに来てん」

「別にいらん。たかが学部内の同級生でのことだろ?」

「はぁ。お前きっとそーゆーと思て、俺が変わりに貰っといてやったで。気ぃ効くやろ、ほらこれ」

 柳はぺラリとしたプリントを差し出した。なんでそういう事がすらりとできるんだ? というような顔で樹はプリントを受け取る。

「お前、これすごいで。百メートル走めっちゃ早いやん! 俺これでも、中高と一応陸部やったからわかるねん。なんかスポーツやっとったんか?」

「やってない。運動部は上下関係がウルサイから嫌いだ」

「さもありなん。そんなけブアイソやったらな~」

「わかってたら聞くな」

「きっと運動部から誘い来るで。覚悟しとかんと。特にアメフトだけは強いからな、ウチ」

「興味ない」

 アメフト部なんて考えただけで、男臭くてゾッとする。

「そうやろな~、でも女の子は放っとかんで。こないだもパンキョーで一緒の授業やった女子等が騒いでたもん。かっこええって、お前のこと」

「……ふぅん」

「ええよな~、運動もできて、顔もまぁよくて、アタマもええんや~。よろしな~」

「アタマ?」

「そうや。お前とおったらわかるわ、アタマええの。おまけにカワイイ彼女おるし~。ウラヤマやわ」

「……」

 そのカワイイ彼女は夏休みが始まったとたん、自分を置いて一週間も勉強に行ってしまうのだ。あの油断のできない男と一緒に。

 ちょうど大きな木の下を通りかかり、樹の顔に翳が差した。

  ——だけど。

 いいと言ってくれたのだ。本当は焦って放った自分の誘いを。少し困りながらも。

 自転車を危なっかしげにこいで去っていった恋人の後姿を思い出し、樹の口元が和らぐ。それを見ていた柳の細い目が見開かれた。

 ——うっわ~、コイツ笑ろたらものごっつい男前やん! いや、笑わんでもええオトコやけど。彼女のこと言ったら途端に変化あるな。きっと、よっぽど好きなんやろな。あのコの事。

「もうすぐ夏休みやな」

「そうだな」

「なんか予定あるん? あのコと」

「さぁな……行くぞ。午後の講義が始まる」

 大きくて古い学舎に向かい、樹は急に足を速めた。柳も慌てて後を追う。

「おっ、おい、待ってやぁ~。こちとら短足やねんて!」


 夏休みはもう目の前だった。








              

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