第12話 谷風

 拍手と共に体育館から紺色の制服が溢れ出てくる。

 ざわざわざわ。

 女の子達の中にはハンカチで目を押さえている者もちらほら伺える。

 風はないが、早春の空気は冷たく、空の色もくすんでいる。


 卒業式。


 体育館から一旦各教室に戻った卒業生達は担任からの祝辞をもらい、残った私物をカバンに詰め、二度とこの教室で集まれない仲間達と最後の名残を惜しんでいた。

「風花! ちょっとどこいくの⁉︎ もうすぐで『追い出し』だよ!」

 追い出しというのはこの学校の伝統で、教師や在校生で卒業生を華やかに校門の外に追い立てる儀式である。

「うん、ともちゃん、わかってる! すぐ戻るよ!」

 風花はごった返す階段を駆け下りた。そのまま正門とは逆の方向に廊下を曲がる。

 長い廊下の突き当りには美術室があった。

 この教室の引き戸だけはなぜか重い木製で、過去の先輩達の様々なラクガキや彫刻が施されている。

 風花は美術部員ではなかったが、ここにはたくさんの思い出が詰まっていた。

 だから最後に見ておきたかったのだ。この中にある様々なものを。

 天上近くで開いたまま錆びついたふるい鉄枠の窓、アングル棚に置かれた埃まみれのモチーフの数々、元の色がわからなくなったコテコテの大きな作業机。壁にくっついた絵の具の汚れさえも。

 高校生でいられるうちに。

 風花はゆっくりと扉を開けた。

 だが、そこには先客がいた。

 ほかの教室より倍は高い大きな壁に、卒業生達の力作が掲げられている。

 その一つを見上げる横顔。長めの髪。

「小川君……」

「この絵を描いた人を目指してたんだ。三年間俺はずっとこの絵を見上げてた……」

 茶色い室内を抽象的に描いた絵を見上げたまま小川は答えた。

 百二十号という、その大きな絵を描いた人は今では有名な画家となって海外で活躍しているという。

 風花も勿論その絵が好きだった。

 しばらく二人は黙ったままその絵を見つめた。

「吉野は来月から大学生だな。がんばれよ」

 急に明るい表情を向けて小川は言った。

「うん……」

「俺も遠慮なんかすんなよ。俺も来年は追いつくから」

 小川は毎年競争率が全国トップレベルの超難関校、T芸大を受験し、失敗した。

「小川君が落ちるなんて……あんなに上手だったのに」

「ああ、確かに少しナメてたよな。いくら芸大とはいえ、受験の段階では基礎的な力も重視するってことをさ。」

「でも……」

「もう、コツはわかったから来年は大丈夫。俺に気をつかわないで盛大に喜べ。祝いにくいじゃないか」

「うん。ありがと」

「卒業おめでとう」

「小川君も」

 美術部員でなかった風花は放課後、いつも外からこの部屋を見ていた。

 キャンバスに向かう小川を。

 いつもいつも。誰にもわからないように。

 ——本当にずっと……ずっと好きだったんだよ。

 この中には風花の三年間の想いが詰まっている。

 それなのに見つめ続けていた背中をいつの間にか追い越してしまった。

「お前、ほんっとに変わんないな、中学の時から」

「え⁉︎ ええ~?」

「みんな変わっていくんだ。俺も。でも吉野だけは変わらない。お前を見ると安心するよ、いつも」

「……」

「背も伸びないしさ、タレ目もおさげもそのまんま」

 ふいに手を伸ばし、小川は長いおさげを軽く引っ張った。

「中学の時、よくこうして引っ張ったよな~」

「あはは。ひどいよねえ」

「俺さ」

 小川は長く、繊細な指先でおさげの先をもてあそんでいる。

「こないだ、環と別れたんだ」

「え⁉︎」

 環というのは、小川が高校三年間付き合っていた恋人の名である。

 相原環。

 美人で頭もよく、誰にでも優しいステキな人。

 風花がとてもかなわないと小川をあきらめる原因となった人。

 その相原と別れたと小川は言う。

「俺は結局環のことをちっともわかってなかったんだと思う。あいつがそうだったように……。俺達はいつも自分のことが一番大事だったんだ……もう、一年ぐらい前からこうなることはわかってた」

 小川はポツリポツリと語る。

「……なんで、そんなこと私に?」

「なんでかなぁ? お前はいつでも俺達のいい友達だったからかな? いや、そうじゃない」

 小川は言いあぐねて視線を逸らし、おさげをぴんぴん引っ張った。

「ちょっと! 痛いってば!」

「ははは! ごめんごめん、つい昔の癖で」

 風花の抗議に小川は笑って手を離した。ほんの少し名残惜しげに。

「話したのは、お前が俺のこと、俺の絵のこと、一番よくわかってくれているからだ。多分」

「え?」

「吉野さ……お前、俺のこと好き?」

「ええ⁉︎」

 思いがけない言葉に風花の心臓が大きく飛び跳ねた。

「あのさ……いや、いいか。ごめん、変なこと聞いて。何でもないよ」

「……小川君?」

「これからも友達でいてくれるよな?」

「勿論だよ!」

 そのとき学校中が大きくざわめいた。

 若い歓声があちこちから響いてくる。追い出しが始まったのだ。

「お? はじまったか? 俺たちも行こうぜ!」

 そういうと、小川は鮮やかに身を翻して美術室から出て行った。

 はじかれたように風花もその後を追う。


「風花ったら、遅いよ! ほれカバン! 行くよ!」

「ごめ~ん!」

 既に廊下や階段は卒業生、在校生、教員入り乱れる大騒ぎになっており、それでもぼちぼちと正門のほうへ流れてゆく。

 正門付近の築山の周りではブラスバンドの大音響が響きわたり、運動部の在校生達は引き継いだユニフォームを身にまとい、今までしごかれた先輩達に思いっきりしがみついていた。

 卒業生達も負けてはおらず、担任を胴上げしたり、応援団の者は最後とばかりに大応援旗を振りまわす。

 最後の追い出しに感極まり、おいおい声を上げて友人達と抱き合う女学生の姿も多く見られた。

 毎年繰り返される卒業の風景。もう二度とない風景。

 制服を着てこの門をくぐることはもうないのだ。

 風花もひとしきり友人達と抱き合い、恩師に挨拶をし、ちょっぴり涙を散らした。

 どんなに名残を惜しんでも別れの時は来る。

 みんなそれをわかっているのか、特に羽目を外す者も出ず、校門前の広場から少しずつ人数が減り始める。三年間の学び舎を後に。

「ばいばい。また会おうね」

 風花も友人達と校門で別れた。その背中を見つめて胸が苦しくなる。

 ——こうやってそれぞれみんな自分の進む道を歩いていくんだね。さびしいけどこれが卒業ってことなんだろうなぁ……。

 風花はもう一度もはや母校となった校舎を見つめた。向こうに美術室賀見える。

 ——小川君……小川君はさっき私になにを言いたかったの?

 若々しい群衆の中に小川の姿を探すことはできなかった。

 ——いいや……今は知らなくてもいいことだと思うし。


「風花」

 顔を上げると見慣れた銀縁眼鏡の制服姿。

「あ、待ってくれてたんだ。部活動とかしてないからさっさと帰ったと思ってた」

「そりゃ待ちますよ。待つでしょ、普通。大事な彼女の卒業式なんだから」

「彼女ですか?」

 胸のドギマギを押さえて、軽く聞いてみる。

「彼女です。もう帰る?」

「うん。でも、ちょっとだけ待って」

 そういうと風花はゆっくりと振り返った。正門付近はまだにぎやかなままだ。

 知ってる顔も知らない顔も、みんな寂しさの混じった晴れやかな表情で大声を上げている。

 大好きだった。ここでの三年間が終わる。

 友達、先生、色々な授業。楽しかったことも、ちょっぴり残念だったことも。

「ありがとうございました!」

 古い学び舎に向かい、風花は深々とお辞儀をした。

 そして思い切りよく回れ右をし、樹に向かって駆け出す。

「お待たせ~! 帰ろ!」

「……風花、ぱんつ見えたんだけど」

「え? ええ~! 馬鹿! 清水君のエッチ!」

 ぼすん、と広い胸を打つ。

「自分で勝手に見せたくせに」

「見えても普通は言わないの! ダッシュ!」

 訳のわからない衝動に駆られて風花は再び駆け出した。

「ほんと、ナチュラルな人だなぁ」

 苦笑を浮かべて樹もその後を追う。


 川沿いの桜並木のつぼみはふくらみ、薄曇りの空の下を歩く若者達の群れを見守っていた。

 それはこれからも続く風景。

 たくさんの歓声が昇華してゆく。





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