第17話 回風(つむじかぜ)1
「ふぅ~」
樹は大きく息を吐き出した。
——五時か。結構集中できたな。
今日は予備校もなく、教員の研修会で午前中授業だったため、昼過ぎに帰宅してから四時間、ひたすら机に向かっていたのだ。制服も脱がないままだったので、いつの間にか背中がじっとり汗で湿っている。五月晴れの今日はもう初夏の日差しだった。
出題を精選した問題集はほぼ完全にやり遂げた。このところ樹は片っ端から受験用の問題集に手をつけている。理数系の一冊やり遂げるのにかける時間は三日というところだ。
何事にも大して熱中しない性分の彼がめずらしく学業に精を出しているのは、目標がはっきり決まったからに他ならない。
「さて」
シャワーを浴びようと、シャツをはだけながら風呂場に向かう。制服はクリーニング用のカゴに放り込み、残りは洗濯機に突っ込んだ。
やがてバスタオルを巻いて部屋に戻ってきた彼は、クロゼットから細身のパンツと新しいシャツを引っ張り出して着込み、いつもの眼鏡をかけた。
鏡の前で無造作にまっすぐな髪を整えると、淡いブルーのコロンをふりかけ、もう一度時計を見上げると針は五時十分を指していた。
——ちょっと早いけど出かけるか。
身支度を整え、ざっとまわりを見渡す。住人の好みで不規則な形のものはほとんど置かれず、部屋は無機的な機能性に満ちていた。
週三日来てくれている家政婦の細川さんが、働き甲斐のないお家だわ~、と嘆くほど物が少ない部屋。
細川さんは祖母に長年仕えてくれている家政婦で、樹のこともよく知っていて、気を使わなくてもいいように彼が学校に行っている間にやってきては掃除や大きなものの洗濯など雑用をしてくれるのだ。
祖父は樹が中学生の時に亡くなった。
母親がいず、父親も留守がちなこの部屋に住む樹を気にかけてくれるものは、祖母と細川さんだけになった。
祖母は前向きな性格で多趣味な人で、ちょっと風花に似ていると樹は思う。
樹も、彼の父も、あまり祖母の血を引かなかったようだが、七十を過ぎた祖母のことを樹なりに大切にしている。
樹は自分でも料理はするが、メニューが限られてしまうので、夕食はほとんど毎日料理自慢の祖母への義理立てに、五分と離れていない祖母の家に行って食べる。ほとんどしゃべらない無愛想な孫だが、祖母はそんなことに頓着しない。自分の言いたい事をしゃべり、笑い、陽気に樹を送り出す。
——おばあさんに夕飯いらないって電話しなきゃな。
ハンカチをポケットにねじ込み、樹は部屋を出た。ぴかぴかのエントランスをすり抜け、駅まで歩いて数分。角を曲がる手前でなんとなく振り返る。
皐月の空はまだ暮れると言うには程遠く、明るい。そこに凝ったデザインのグレーのマンションが周りの低い住宅を見下すかのように澄ましている。
樹は自分の住んでいるマンションとはいえ、この建造物があまり好きではなかった。しかし、あたりを睥睨するこの建物をとてもやさしく絵に描いたひとがいた。
吉野風花。
樹の長い間の想い人であり、現在の恋人だ。
中学になってはじめての文化祭で、樹はその絵を見た。
彼は電車で通っていた私立の小学校から、地域の公立中学校への進学を選んだ。世の中にはそういう生徒を私学脱落組みと言う風潮もあるようだが、樹は気にしなかった。
同じ制服を行儀よく着込み、学力も生活水準もほどほどに粒がそろった、いわゆる、いいところの学校にすっかりうんざりしていたからだ。
しかし、公立の中学校に入学しても、もともと地域に親しい友人もないし、愛想良くして友人を作る努力も特にしなかったから、文化祭などの行事では校内にいる時間をもてあますこともある。
午前中は自由にクラスや、部活動の展示をした校内を見て歩いていいということだったが、どこに行ってもあまり面白くなく、少し一人になりたいと思った。
美術室は三階の隅にあるのであまり人がおらず、そのためにざわつく校内を逃れられると考えたのだ。もちろん、そこでも細々と展示会をやっているが、予想通りほとんど人は入っていなかった。
樹はしばらくイーゼルに架けられた大小様々な作品をぼんやりと眺めていたが、その中のひとつが彼の目を引いた。
「これって……」
それは黄昏時の街を描いた風景画で、画面の中央に近い場所にグレーの建物が立っている。
それはまさしく自分が住んでいるマンションだった。
実際の冷たい無彩色の外観はピンクが混じった暖かな灰色で塗られ、周りの家々ともくすんだ色合いの空模様とも調和している。
技術的に
額の外側にセロテープで止められた名札には 二年 吉野風花『私の住む街』と書かれてあった。
「風花ぁ~、風花の絵ってどれぇ~?」
その時開けっ放しの美術室の扉から、数人の女の子がきゃあきゃあと入ってきた。
——ふうか?
思わず樹は身を引いて女の子の集団に注目する。
「ねぇ、どれなの? ふぅちゃん」
「ええ~、恥ずかしいよヘタクソだし~」
「そんなのわかってるって~。で、どれぇ?」
「……これ」
風花と呼ばれた少女が指差したそれは、まさしく今まで樹が見入っていたキャンバスだった。
その子は小さくって、おさげが二本肩まで垂れている平凡な風采の少女だった。恥ずかしそうに友人たちに自分の絵を示した顔は真っ赤で、大きな目は見事にタレている。
「へぇ~、これかぁ。ワリとうまいじゃん。いい感じがするよ。ねぇ、まっちゃん?」
「ほんと、ほんと。ふうちゃん、いいよ、上手」
「そうかな~、ありがとぉ」
ますます照れながらタレ目の少女は笑った。
樹は大きな作品の陰に隠れて風花と呼ばれた少女を見つめていた。
——この子があの絵を書いた人。
「それで、小川君の絵はどれ?」
「小川君って三組のあのかっこいい人?」
「そう。風花と同じ美術部なんでしょ? いいなぁ」
「ええ〜」
どういうわけか、おさげの少女は顔も上げられないくらいうろたえている。近くで観察している樹にはそれがよくわかった。
「……小川君の絵はこれ」
「うわぁ! すごい!」
「これ先生が描いたんじゃないの?」
「うまー、うますぎ」
「サイノーある人は違うよねえ」
「上手でしょう? 先生もすごい褒めてた」
「だろうね〜」
「すごいね〜」
ひとしきり大騒ぎした後、女の子たちは出て行った。
「……」
樹は黙って、うまいと騒がれていた人物の作品の前に立った。
それは大型テレビくらいの大きさのキャンバスに剥製の雉やランプ、貝殻などを書いた静物画だった。
二年小川徹『静物-Ⅰ-』
確かに、これは樹と一つしか違わない中学生が描いたものだとは思えないくらい、突出した出来栄えの作品だった。
精密な観察眼に樹は自分と似たものを感じ取る。
——だけど好きじゃない。
彼は再びさっきの女の子の作品の前に戻った。
大雑把で大胆すぎて、だけどなんとなくほっととさせる雰囲気の絵。
——さっきの人がこの吉野風花なんだ。
「ふうか……」
やわらかな響きを持つその名をつぶやいてみる。
——変な子。
自分が笑っていることに樹は気がついていなかった。
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