第8話 北風? 2
風花の声にさらりと振り返り、自転車に乗った小さな姿を認めると、樹はかすかな会釈をよこした。
あいかわらずの熱のない態度。金属製の眼鏡のフレームが店内の明かりを反射する。
「今、帰りですか? 遅いですね」
そういいながら買ってきたらしい本を自分のカバンに放り込んだ。
「うん、へとへと」
私服姿は初めて見る。黒いタートルネックと、黒いカジュアルなハーフコート、グレイのマフラー。モノトーンがよく似合っている。
「ひさしぶり!」
「……おひさしぶりです」
——最近顔会わせなかったな。ま、私が受験生してたせいなんだけど、なんかほっとするなぁ、この仏頂面を見ると、最近。
「清水君……は、本買ってたの?」
思いっきり自転車をこいでいたせいでまだ頬は上気し、息が上がってまだうまくしゃべれない。
「ええ、雑誌ですけど」
「そうか〜」
「いつもこんな時間に?」
「うん、予備校行った時だけだけど。あ~、お腹すいたわ~」
急に空腹を思い出し、情けない声を出した風花に清水はにやりと笑った。
「ファーストフードでよかったら俺、おごりますけど」
「えっ⁉︎」
樹は駅前でたった一軒のファーストフード店を指差して言った。またしてもイキナリな展開。このぶっきらぼうな少年といると風花のペースがどうも狂う。
——結局ついてきちゃった……空腹には勝てん。
風花の家は共稼ぎで、最近は両親共に帰宅が遅く八時ごろである。
簡単なものなら風花が作るときもあるが、受験生に夕食を支度させるのは悪いと、母が朝に用意しておいてくれる。
今日はビーフシチューのはずだ。帰って暖め、野菜を切れば簡単な夕食の出来上がりのはずだった。
だったが。
「いただきます!」
ほかほかのチーズバーガーを、あんと口を開けていさぎよく頬張る。
ポテトもはぐはぐ。
アイスティーもごくごく。
「おいひー」
「吉野さんってホントおいしそうに物を食べるなあ。おごりがいがあるっていうか、見てて気持ちい」
「ぐぅ」
流し目をくれてそんなことを言う樹に、頬張っていたバンズが喉に詰まりそうになる。
「そ、そりゃ、おなかっ減ってるから……って、そんなにがつがつしてたかな…」
「してた」
「…」
タレ目をさらに垂れさせ、風花は情けない顔で黙り込む。上級生の威厳など微塵もない。
——仮にも好きだって言ったオンナの前でそーゆーこと言うか?
「ウソ。おいしそうに食べてたのはホント」
「すぐ年上をからかって……悪い趣味だよ、清水君」
「すみません。吉野さんといると楽しいもんだから」
「ぬぬ……! ちっとも楽しそうじゃない顔してるクセして〜」
清水樹。
彼は風花が三年になったばかりの春。突然彼女に好きだと告白し、その後風花がK市にある芸大へ進学すると決めると、自分も近所のK大(難関校)へ行くとあっさりのたまった下級生である。
薄い唇は滅多に微笑まず、口ぶりは愛想がいいわけでもない。好きだと言った割に風花に付き合いを迫るわけでも、連絡先を聞いてくることもない。
大体携帯電話の番号も知らない。持っているところも見たことがない。せいぜい駅や学校であったときに軽く会釈するか、よくて一言二言話をするくらいである。しかも、決して優しく語りかけるでもなく、いつも風花を戸惑わせる言動ばかり。
勿論風花は受験生だし、一番の関心事は志望大学に受かり、好きな絵を勉強することだ。
初恋の小川のことは今でも好きだが、以前のように切なくて胸が痛むということは今はなくなった。今では芸大志望者の同志として、昨日のように絵について話しあったりできる間柄に変化している。
それは芸術家肌の小川は、もはや風花にとって手の届かない存在だが、この生意気で風変わりな下級生の存在が少しずつ大きくなっていたからかもしれない。
最初面食らった風花だがこの半年余り、意識するともなく意識しているうちに人を食ったようなこの少年が案外しっかりしていることもわかったし、口ぶりほど人も悪くないということも知った。
最近は時々無性に話をしたくなったりする。受験勉強で煮詰まった時、課題のデッサンがうまくいかなかった時、小気味いいほどにあっさりとした彼の意見を聞いてみたくなる。
仮面のような怜悧な表情が解け、目元がとてもやわらかくなる瞬間を見たくて。しかし、そんな風花の変化を知ってか知らずか、清水はいつも平常心である。
「今日もデッサンの?」
暖かい紅茶を飲みながら静かに樹が問う。
「うん、そうなんだけど。あんまりうまくいかなかったなぁ。よく手が止まった」
「そう?」
「受験用のデッサンってちっとも面白くないんだ。難しいばっかりで。」
「そりゃ、ほかの科目でも一緒でしょ。受験用の勉強に面白さを求めちゃダメですよ」
「確かに。清水君はいっつも達観してるなぁ」
「達観? 常識でしょ」
情け容赦のない正論が形の良い唇からもたらされる。
——それなのになんだか元気が出てくるのはどうして?
「(くそーまけるもんか)それに芸大受験者は浪人が多いから。浪人ってさすがにうまいし。それにハデだし」
「それもほかの科目と一緒。一年か、それ以上余分に勉強しているんだし。ま、期間がすべてじゃないけど」
「ですよね〜」
情けない自分でさえ快感になってくるこの妙な感覚。もっともっと話を引き出したくてうずうずする。
「センター試験はまあまあだって言ってたでしょ?」
「うん、なんとか合格ラインはあったよ。まぁ、美jつつかはそんなにボーダー高くないけど。だから後は実技。これが全て」
「ほかの人と違って科目が絞られているんだから、いい方ですよ、きっと」
「まぁそう考えたらそうなのかな? 好きな道なんだし。いいんだ……よね?」
「がんばってるんでしょ?」
「うん、そりゃ、がんばってる。そうだ、私けっこうがんばってるよ!」
「自分で気がつかなかったの?」
「つかなかった」
そう、目の前の課題や悩みで頭がいっぱいで、がんばっている自分自身を抹殺してきたような気がする。
「あなたらしくっていいけど、タマには自分を認めてあげなくちゃ」
「そんな気がしてたとこ。あれ? めずらしく慰めてくれてるんだ?」
「慰めてることになるのかな?」
「なったみたい。へへ」
笑うとタレ目がよけい垂れる。どういうわけか清水が慌てて目を逸らした。
「あ~あ、清水君の冷静さにはいっつも負けちゃうなぁ、あ、今日はなんだかすっきりしたから許す! ありがと」
「……」
実はこの時点で風花の逆転勝ちなのだが、気づいている様子はない。
——やれやれ俺をノックアウトしたってわかんないのかね? このおねーさんは。
「ん?」
「い~や何でも。さ、帰りましょうか。送ります」
樹が帰ると言った途端、風花をなぜだかがっかりした気分になった。しかし、甘える訳には行かないとも思う。
「いいよぅ~、寒いし。私自転車だし、方向違うし」
「ダメ。俺、紳士ですから」
そういってレシートを取り上げ、いつきは立ち上がった。
外に出てみると冬の空に星明かりがいくつも点り、空気は一段と冷え込んでいた。
風花は黙ったまま自転車を押して歩いた。樹は危なっかしい斜めのカルトンを支えてくれている。
——不思議。清水君と話すとすごく落ち着く。なんでかな? さっきまで鉛を飲み込んだ心持だったのに。なんだかんだ言っていっつも助けてもらっているなぁ、私。
角を折れると、くすんだ街灯がところどころにあるだけの細い道だ。もう人通りは絶えてない。大きな楠のある家を通り過ぎるとすぐに風花の家になる。
「ねぇ」
「はい?」
「なんで清水君はそんなにいっつも平常心なの?」
何とか話の穂を継ぎたくて風花はどうでもいいことを問うてみた。
「平常心? 俺が?まさか」
「だって怒ったり、げらげら笑ったりしたとこ見たことないよ」
「人をロボットみたいに」
「え? いい意味で言ったんだよ」
「俺が考えていることを知ったら吉野さん、腰を抜かすと思うけどな」
「ええ⁉︎ ひょっとして、か、完全犯罪でも考えてるの⁉︎」
飛躍のしすぎも甚だしいが、冷たい表情が似つかわしいこの少年にありそうに思えてリアクションが大きくなる。
「完全犯罪ってあのねぇ……あ、でも近いかも」
「だ、ダメだよ犯罪は。人生棒に振るよ?」
風花の頭に、どういうわけか優雅な銀色のナイフをもった黒ずくめの樹が浮かび上がる。リアルに。
「ふ……大丈夫です。俺が犯罪を犯すとしたらその相手は吉野さんだから」
「は? ええ⁉︎ 何言ってんの!」
「もの言ってんの」
「もう! びっくりしたぁ。せっかくちょっと好きになったかなって思ったのにすぐからか……へ?」
自転車のハンドルを握っていた腕がいつのまにか強く握られている。
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