第35話 ここから始まる“僕”たちの関係

 沈黙。ここに来てから一体何分経っただろうか。黎は一応、謝罪に来た立場である。だから、本来ならばすぐに頭を下げるべきだろう。と、いうかそうするつもりであった。

 しかし、彼女と会う前に起きたひと騒動で、その気勢もすっかりそがれてしまった。正直な所黎は、彼女と対面したらすぐにでも謝るつもりだったのだ。それが何となく顔を会わせ、なんとなく家の中に入り、なんとなく部屋にまで招待されてしまった為、言い出しづらくなってしまっていた。

 とはいえ、このままではいけない。これでは、一体何のためにここに来たのか分からない。自分は謝りに来たのであって、彼女の部屋で正座する為に来たのではない。

 だから黎は思い切って、

「「ごめんなさい!」」

「え……」

「あれ?」

 被った。

「えっと、先、どうぞ?」

 取り敢えず譲る。しかし久遠は、

「いや、お先に、どうぞ?」

 譲り返してくる。さあどうしよう。こうなってしまうと後は譲り合いだ。三人目が出て来るならともかく。二人なら決着はつかない。

 久遠も同じことを思ったのか、

「えっと、じゃあ、私から……」

 おずおずと答える。ちなみに彼女はベッドに座っている。加えて寝間着にセーターを羽織っただけというスタイル。本当はまだ寝ていたほうがいいのではないかと思うのだが、本人が問題ないと言っているのだから、無理強いをしてもいけない。

「色々あるんだけど、取り敢えず、心配かけてごめんなさい」

「心配って……風邪の事?」

 小さく頷く。

「そんな、気にする事ない……ですよ」

「でも、やっぱり心配は掛けてしまったと思うから。あなたにも、琴音にも」

「琴音さん、ですか」

「ええ。あの子にね、怒られちゃった。『どうしてこんな熱があるのに、学校なんて来たんだ』って」

 それは、琴音でなくとも疑問には思うだろう。様々な要因が重なったとはいえ、倒れるほどの高熱だ。朝の時点では何ともなかったというのは考えにくい。

「えっと……ちなみに、どうしてなん……ですか?」

「それは……」

 久遠は逡巡したのち、

「私は、完璧、だから」

「……え?」

 どこか遠くを見据えるように、

「私はね、完璧超人なの。学校も休まない。二年生にして生徒会長を務めあげる。そして、成績優秀、スポーツ万能。それが私……と、いう事になっているわ」

 事実だった。恐らく同級生のみならず、上級生下級生の誰に聞いたとしても、それ以外の解答は返ってこないのではないだろうか。

「だから、休むわけにはいかなかったわ。自分で生徒会の臨時招集まで掛けてるんだから、当然よね」

 確かに、招集は前日の深夜にかかったものだ。その時点ではまだ学校を休むような状態では無かったかもしれない。しかし、

「でも、体調を崩したのならしょうがないんじゃ、」

「駄目なの」

 否定。

「だって、こんな土壇場で体調を崩して、招集を取りやめます、なんて、そんなの雨ノ森久遠がやったら駄目なの」

「そんな事……」

 ない。そう否定しかけて止まる。彼女は、雨ノ森久遠は、ひょっとしたら、自分と同じなのではないか。微かにそんな気がしてくる。黎は“星守黎”として接することを恐れ、結果として“月守遥”としての関係を求めた。久遠は“完璧超人としての雨ノ森久遠”像を忠実になぞろうとした。例え体調が崩れようとも学校を休もうとしなかった。一見ばかげている様に見えるその行為。しかし、それは彼女が“完璧でも何でもない自分”を隠すための、“素の雨ノ森久遠”として表に出ることを恐れた結果ではないか。もしそうなら、彼女は自分と同じだ。自分を出せず、仮初の自分を作ってしまった、臆病な、

「えっと、久遠……さん」

「は、はい?」

「確かに、学校での久遠さんは完璧だと思います。二年生にして生徒会長なんて、聞いた事が無い」

「ど、どうも……」

「でも、」

「?」

「僕……いや、“私”は知ってます。決してそれだけじゃない久遠さんを。だから、えっと、」

 上手く言葉が纏まらない。それでも、

「もっと、頼ってください。大丈夫です。誰かに言ったりはしませんから」

 嘘偽りの無い本心を伝える。久遠は暫くあっけにとられていたが、やがて少し俯いて、

「……ありがとう」

「どう、いたしまして?」

 やがて久遠は顔を上げ、

「……えっと、それから、もう一つ言わなきゃいけない事が有るの」

「もう一つ、ですか?」

 肯定。

「私、オンリーのイベントで……あなたに話しかけたでしょう?」

「は、はい」

 また随分と懐かしい話だ。

「それ、なんだけど……実は私が興味を持って……話しかけた訳じゃなかったの」

「……はい?」

 久遠は少し早口に、

「あ、でも、きっかけが別にあったっていうだけなんだけどね?」

「は、はあ」

「そのきっかけが、私のお姉ちゃんなの」

「え」

「私のお姉ちゃんは漫画家で、本名は奏っていうんだけど、ペンネームは違う。その名前は……星守君も良く知ってる、王天人」

 そこまで言って、黎の顔を伺い、

「……あんまり、驚いてないのね?」

 当然である。既に一度聞いた話なのだ。今更聞かされて、さあ驚けと言われたって困るという物だ。

「えっと……実は奏さんのペンネームは琴音さんに教えてもらった、んですよね……」

 久遠は目を丸くし、

「ひーちゃんに?」

「はい」

 停止。やがて、溜息をついて、

「あの子はホントに……まあいいわ」

 仕切り直して、

「そのお姉ちゃんなんだけど、オンリーの主催に関わってたの。それで、私と、星守君が両方参加する事を知っていた。だから、スペースを隣にした上で、私に頼んだのよ。『“月守遥”っていう人の作品を手に入れてきて欲しい』って」

「あ」

 漸く合点がいく。だからあの時彼女はペンネームの間違いを気にしたのだ。作者を知ってまだ間もなければそういう事も有るかもしれない。しかし、なんてことはない。元から知らなかったのだ。

 と、いう事はもしかして、

「じゃ、じゃあ、僕の同人誌に興味を持ったのって」

「ごめんなさい。最初は『お姉ちゃんが興味を持ったから』だったんです。お姉ちゃんは誰にでも凄く優しいけど、創作の事になると結構淡白だから。そのお姉ちゃんが興味を持ったって、どんなものなのかなって気になって」

「そ、そうだったんですか」

 久遠はぶんぶんと両手を振り、

「あ、でも、読んでみて面白かったのは確かなのよ?ただ、それを言ったら……お姉ちゃんが拗ねちゃって」

「拗ねちゃった……」

「そう。だから、サインも貰えなかったの。ごめんなさい」

 久遠は、もう何度目か分からない謝罪の言葉を口にする。

「いや、それは……」

 そこまで言って思い出し、

「あ、だから、サインは手に入らないって」

「そうなの。そんな理由で貰えなかったっていうのは、言いにくくて……」

「な、なるほど……」

 再び沈黙。どうやら、久遠が謝りたかった事はこれで終わりらしい。ならば、

「えっと、僕も言わなきゃいけない事があるんですけど……良い、ですかね?」

 琴音はふっと微笑んで、

「ええ。聞かせて頂戴」

  許可をする。その姿は見慣れた物だ。

「それじゃあ、」

 黎は頭を下げ、

「ごめんなさい!」

「え、ど、どうしたの?」

「ずっと性別を隠して、久遠さんが女性だと思ってる事も知りながらそのままにしてました!そのせいで、凄く傷つけてしまいました!本当にごめんなさい!」

 今までの事を詫びる。手をつき、頭を下げ、ひたすらに許しを請う。そうしなければ久遠は、

「星守君」

「は、はい」

 頭上から、久遠の声がする。

「あなたは、私に一度でも、女性だと言った事が有った?」

「いいえ、無かったと思います」

「そう……だったら、あなたは私の勘違いをどうして訂正しなかったの?その方が都合がいいから?」

「違います!ただ、僕は、折角仲良くなれたのに、そんな事を言ったら嫌われるんじゃないかって思ったから。だから、」

「……どうして嫌われると思ったの?」

「僕は、怖かったんだと思うんです」

「怖かった?」

「はい。久遠さんが仲良くしてくれたのは遥です。黎じゃない。だから、本当の事を言ったら、また一からになるんじゃないかって。怖かった、んだと思います」

 会話が途切れる。やがて、納得したような、

「そう、そうなのね」

 暖かさを感じる声で、

「顔を上げて」

「は、はい」

 黎は言われるままに、

「え」

 その視界には久遠が映る。黎は頭を下げて謝りながら、ずっと考えていた。一体どんな顔をして話を聞いているのだろう。怒っているのか、それとも悲しんでいるのか、もしかしたら、今更謝られても、大した感情も覚えずに無表情かもしれない。そんな風に思い描いていた。

 しかし、

「良かった……」

 心からの安堵を湛えた笑顔。そして、抑えきれない感情が詰まった涙。どちらも黎の頭には無かったものだった。

「えっと……」

 久遠は顔をぬぐい、

「私もなの」

「え」

「私もね、怖かったの。普段は完璧を装ってるけど、友達と言える相手なんて琴ちゃんくらいしか居なくって。だから、怖かった。ホントはね、同人誌を受け取ったら、それっきりにするつもりだった。でも、遥……星守君は凄く優しくて、フォローもしてくれて。だから、友達になりたいなって思った。でも、どこかでずっと怖かった。何かやらかしてないか。こんな事したら、言ったら嫌われちゃうんじゃないかって」

 少し俯いて、

「男性だって知った時は本当にびっくりした。あなたが私の為に必死になってくれたって琴ちゃんから聞いた時には嬉しかった。でも、何よりも嬉しかったのは、あなたに嫌われてなかった事」

 顔を上げる。そこに涙はもう無い。

「ねえ、星守君」

「は、はい」

 久遠は手を差し伸べて、

「もう一度、私と友達になってくれるかしら?」

「それは――」

 そんなの、答えなんて決まっている。黎も手を差し出し、

「勿論、よろこんで」

 久遠はその手を握り、

「これから、よろしくね」

 その顔は、黎も、遥も、見たことのない明るさに満ちていた。



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