第36話 誓いの儀式

「えっと、そういえば、なんだけど」

「な、何かしら?」

 急に話を振られ、久遠はびくっとなる。それもそのはずである。二人は手を握り合ってから、もうずっと黙ったままだった。お互い、勢いで、普段は決して語る事のない内面を開陳した。それはいい。

 しかし、そういう物はふと我に返った時、大抵恥ずかしくなるものなのだ。事実、和解出来たはずなのに、ずっと顔を会わせられないでいた。同じ部屋、しかも目の前に居るにも関わらず。

 だから、

「琴音さんと、久遠さんのお母さんって仲悪いの?」

 全く関係の無い話を振る。

「あー……」

 どうやらビンゴらしく、

「そう、ね。仲は、悪いと思うわ」

「それは、どうして?」

「えっと、ね」

 そこで一旦言葉を切り、

「あの子が、漫画を描くって事は言った、わよね?」

「えっと、はい。漫研の部長、なんでしたっけ?」

 やや驚き、

「よく覚えてるわね。そう、漫研の部長、研究会だから会長かしらね。とにかく、あの子は会のトップなの。唯一の三年生だしね」

「そうなの?」

「ええ。研究会なのから分かると思うけど、所属してる人数は少ないわ。予算も厳しい。だから、もし予算を削れなんて言われたら、私が不正にならない範囲で援護するって言う約束をしてるのよ」

「……いいの、それ?」

 久遠は苦笑して、

「ホントは駄目だと思う。でも、まあ私も一応、漫研の一員ではあるから、ぎりぎりセーフかなって」

「え、漫研だったんですか?」

初耳である。いや、あれだけの漫画を描いているのだ。有り得ない話では無いのかもしれない。しかし、そんな事は噂レベルですら聞いた事が無かった。

 久遠はさらりと、

「ええ。まあ表向きには籍を置いているだけって事になってるけどね。大した活動もしてないし。でも、部室に顔を出したりはしてるのよ?」

「な、なるほど……」

 久遠は「それでね」と仕切り直し、

「その漫画なんだけど、琴音が描き始めたのは、私に影響されたから、なのよ」

「え」

 思い出す。琴音と久遠母の会話を。

「でも、久遠さんのお母さんは琴音に引き込まれた、みたいな事を言ってましたよ?」

 あの時は何のことか分からなかった。しかし、今になってみれば分かる。あれは“漫画”。更には“漫画研究会”の事を指していたのだろう。

 久遠はやや視線を俯けて、

「そう……だから、二人は仲が悪いの。お母さんは琴音が私を漫研に引きずり込んだと思ってる。でも、現実は違う。ホントは私が琴音を漫研に引きずり込んだのよ」

「それは」

 完全に勘違いだ。それも久遠母の一方的な。琴音はただ事実を言っているに過ぎない。

「そう。ホントなら久遠は悪くないの。でも、お母さんは『私が琴音を引き込んだ』っていう事実が信じられない……いいえ、有り得ない事だと思ってるの」

「なんで、そんな」

「お母さんは私に漫画とか、そういう娯楽を一切与えなかった。あの人の中ではその手の物は“良くない物”だという扱いになっているから。そして、私はそういった“良くない物”に手を出さない良い娘だって事になってる。だから、私が漫画を読んだり、描いたりしているのは、悪い友人に引き込まれたんだって。本気でそう思って、疑ってない。そういう人なの」

 言葉が無かった。久遠は“良くない物”と言っているが、あの反応を見る限り、恐らくそんな程度ではないだろう。もしかしたら“下賤な物”位には考えているのかもしれない。

 そして、そんな物に手を出すのは、やっぱり“下賤な人間”による悪影響以外有り得ないという考え。琴音はいわば“下賤な人間”の代表だと思われているのだろう。それでは仲良くなんて事は夢のまた夢だろう。

 流石にまずいと思ったのか久遠が、

「あ、でも、優しい所もあるのよ?それに、お父さんとも、凄く仲が良いし」

 久遠の父。その人物像が黎はイマイチ掴めていなかった。

「えっと、お父さんってのは、どういう人なの?」

「ん?えっとね……」

 少し悩み、

「優しい人、かな。仕事が忙しいから、あんまり家には居ないけど、ね」

 なるほど。そう言えば出版社の社長だという事だった。それなら、多忙な身である事は想像に難くない。もしかしたら、教育は母親に一任してしまっているのかもしれない。ただ、黎がいう事では無いかもしれないが、その教育方針は少し、いや、かなり極端だ。彼女の話を信じる限り、優しい性格の様だし、久遠が困っていると言えば、意見位は……ん?

「ど、どうしたの?」

 気が付くと、久遠が黎の事をじっと見つめていた。別に見たらいけないという訳では無いが、気にはなる。久遠ははっとなり、

「あ、ごめん。何だか真剣な顔をしてるから、何を考えてるのかなぁって」

「真剣?」

「うん。気が付いてなかった?」

「全然。なんか、ゴメン。勝手に自分の世界に入りこんじゃってて」

 久遠は首を横に振り、

「ううん。いいの。と、言うか正直その方がまだ、いい、かな」

「と、言うのは?」

「だって、お互いに気を使ったりとか、『次に何をしゃべらなきゃ』とか考えなくても良いって事じゃない?」

「それは……確かに」

 考えてみればそうだ。元々久遠と黎は殆ど言葉を交わした事も無いただの同級生だったのだ。その状態でこうやって向かい合ったなら、お互いがお互いを気づかって空回りしたに違いない。しかし、今、黎はそんな事も無く普通に話せている。それを作ったのは、

「そういえば」

「ん?」

「琴音さんに言われてさ。実はウィッグとか持ってきたんだけど、必要」

「ウィッグあるの!?」

 ずいっ。

「え、ま、まあ、ある、けど」

「カラコンも?」

「う、うん」

「も、もしかして、服も?」

「そ、それは流石に、持ってないよ」

 久遠は乗り出していた身を少し戻し、

「あ、ご、ごめんなさい」

「い、いや、別に大丈夫だけど」

 沈黙。黎は何となく、

「あの、ウィッグとか、付けてみようか?」

 ずずいっ。

「是非!」

 その目は輝きに満ちていた。



          ◇      ◇      ◇



「えっと、どう、でしょう?」

 数分後。黎はウィッグとカラコンだけを付けた擬似的な女装を披露していた。

「…………アリだと思う」

 久遠は黎の全身を舐めるように見回した後にそんな事を呟いた。一体何がアリなのだろうか。

 久遠は身を乗り出して、

「もっと近くで、」

 ベッドの傍に落ちていた掛布団を踏み、

「わっ!」

 バランスを崩す。“遥”はとっさに、

「久遠さん!」

 その肩を支え、

「え」

「あ」

 瞬間。目と目が合う。その距離は恋人の間隔。観覧車での出来事が想起される。

「えっと」

「あ、ご、ごめん……なさい」

 転んでしまう事は避けられたのだ。この至近距離で見つめ合う必要は無い。無いはずなのだ。

それでも、離れられない。いや、離れたくない。そんな魔力が彼女の瞳にはあった。

「そ、そういえば、なんだけど」

「は、はい」

「久遠さんは“遥”の事をどう思ってたのかなって」

「どうって?」

「えっと……もしかして、なんだけど」

「うん」

「……恋愛的な意味があった、の、かなぁ、って」

 尻すぼみに声が小さくなる。最後の方は久遠に聞こえていたのかどうかも分からない。しかし、久遠は明らかに顔を赤らめ、

「そ、それは……」

 視線を逸らして、

「…………ありました」

「は……?」

「恋愛的な意味が、あり、ました」

 最終的には俯いてしまう。その仕草に“遥”も恥ずかしくなり、

「ど、どうも」

 顔をそむける。

 静寂。既に傾き始めた日が部屋の中を彩る。

「……ねえ、遥」

「は、はい」

 遥呼びにに驚いて顔を上げる。再び視線が繋がる。その目はどこか切なくて、

「えっと……キス、していいかな?」

「は」

 停止。久遠は途端に焦りの色を見せて、

「あ、いや、別に、嫌ならいいの。でも、ほら、良いって言うなら。うん良いかなって」

 何が良いのか。完全に支離滅裂である。でも、

「いいよ」

「だよね。やっぱり、そんなの、駄目……え、いい、の?」

 きょとんとする久遠。“遥”は頷いて、

「ええ。“私”でいいなら」

 瞬間。

「わっ」

 久遠から、口づけをする。啄ばむようなそれは、やがて、お互いを求めあうような、濃厚な物へと変わる。

「…………んっ」

 やがて、久遠の手が、包み込むように遥の首筋に回る。遥も、それに応じるように、久遠の背中へと、手を回す。

 抱き合い、求めあい、愛を確かめ合う、そんな行為。やがて、永遠にも思えた時間は久遠の方から終止符が打たれ、

「……っはぁ……遥は、見かけによらず、グイグイくるのね」

「そ、そうかな?」

「そうよ。びっくり」

 そう言って笑う。そこにはもう過去の久遠は居ない。遥もつられて、

「あはは……」

 静寂。やがて久遠が姿勢を正し、

「えっと、」

「は、はい」

「………………私、は、あなたの事が、好き、です」

 途切れ途切れながらも、

「もし、良かったら、お付き合い、して、くれませんか?」

 遂に俯いてしまう。そんな所も久遠らしい。そして、可愛らしい。今ならそう思える。

「――私も」

「え、」

「私も、久遠さんの事が好きです。だから、」

 久遠の手を取り、

「喜んで、お受けします。これからもよろしくお願いしますね」

 微笑みかける。久遠は、幸せさがあふれ出すような笑顔で。

「……はいっ!」

 そう、答えた。

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