第44話 今手を取り合って

 放課後。既に傾きかけた日で照らされる屋上。本来ならば生徒だけで入る事の許されない禁域に黎達は足を踏み入れていた。

「んー……疲れたー……」

 フェンスの手前。久遠は大きく伸びをする。

「はは、お疲れさま」

 黎も隣に並び、声を掛ける。久遠は後ろ向きに、フェンスに寄りかかって、空を眺めながら、

「そうね……」

 黎の方へと視線を流しながら、

「黎くんも、お疲れさま」

「えっと……ありがとう?」

 何となく疑問形になってしまう。そんな回答が気に入ったのか気に入らなかったのか、久遠はくるっと翻して、フェンス越しに校庭を眺める。

「……こうやって見てると、文化祭、明日なんだなぁって思うわ」

 黎も眺める。授業が終わってからは大分時間が経っているのにも関わらず、校庭には多くの生徒が残っていた。模擬店の設営、ステージの確認、この土壇場になって不足物が出たのか急いで校外へと出ていく影。そんな光景は全て、非日常の物だ。

「……ねえ、黎くん」

「何?」

「私がえっと……怖かったっていう話はしたわよね」

「それは、はい」

 忘れもしない。彼女と仲直りをした日の事だ。彼女は言った、どこかで自分が嫌われてしまわないかという恐怖があったと。

「結局、そういう事だったのかなぁって」

「えっと……それは」

「私ね、お母さんの事は嫌いじゃない。ずっとそう思ってた。だから、お姉ちゃんの所にもいかなかったし、自分が二人の仲を取り持たなきゃって」

「……」

「でも、違った。もちろん、嫌っては無かった。でも、私はあの人と何処か距離を置いていたわ。今思うと怖かったのかもしれない」

「怖かった……」

 それは、彼女が黎に感じたのと同じで、

「でも、黎くんはこんな私とも、その、つ、付き合ってくれた」

 そこで言葉を切り、

「だからね。今度はあの人ともっと向き合ってみようと思うの」

「それは……」

 大丈夫なのか。そんな事を言いかける。しかし、久遠は首を横に振り、

「大丈夫。もしかしたら喧嘩になっちゃうかもしれないけど、その時は、」

 黎の方を見る。視線が合う。

「また、力を貸してちょうだい」

「……よろこんで」

 二人、微笑む。もしかしたら、久遠にはこれから様々な困難が訪れるかもしれない。でも大丈夫だ。彼女は一歩を踏み出したのだから。本当に怖いのは一歩目だけだ。二歩、三歩目は自然と足が動くはずだ。

「えっと……一つ、お願いが有るんだけど。いい、かな?」

「ええ、僕に出来る事なら何でも」

「じゃあ、」

 久遠は目を閉じ、

「キスを、して欲しい、です」

 緊張して、丁寧になる。今はそんな所も愛おしく見える。

「畏まりました」

 そう言って、口を付ける。やがて二人はお互いを抱き合い、求めあう。明日は二人に取っての大事な日。だからこそ、口づけを交わす。相手を愛し、信じる気持ちを確認する。それはきっと、明日に繋がるはずだから。

 どれほどの時間が経っただろうか。名残惜しむように距離を取り、

「……っはあ…………明日」

「うん」

「絶対、成功させよう」

「勿論さ」

 成功を誓い合う。その目にはもう恐怖は無かった。



◇      ◇      ◇



「どう、お客さん、入ってる?」

 黎は幕の間から垣間見る久遠の後ろから訪ねる。

「すっごい入ってる……何でこんなに?」

「な、何でだろうね」

 黎は適当に誤魔化す。実の所その理由は明らかだった。

 文化祭のパンフレットを作る際に、黎達がやる演劇の内容に関しては出来る限り伏せていた。主演は勿論、脚本に奏が関わる事も隠していた。あくまで、「プロに脚本を書いてもらい、生徒も関わって演じる劇をやる」という程度に終始した。

 しかし、人の噂に戸は立てられないというくらいだ。特に、奏自身がリハーサルも含めて何度か学校に出入りしたという事も有る。それに、パンフレットで触れていなかったとしても、公式の資料には流石に名前が載っている。

 加えて、部長。今日知った事だが、青洋学院の演劇部は非常に縦のつながりが強い上に、伝統の有る部活動らしく、その中でも彼女は一つ頭の抜けた存在らしい。

 その上、本人が「祭は盛り上がってなんぼ」という考えの持ち主の為、勝手に(あくまで久遠の両親には伝わらないようにして)宣伝を行っていたらしい。

 そんな事も有って、今年は文化祭そのものの来客が非常に多かった。明確な数字は全てが終わってから集計しなければ分からない事だが、それだけでも成功と言ってもいいくらい。

 そして、その中でも目玉扱いをされている、演劇。それを見る為に多くの人間が集まったのだ。ありがたい事ではあるが、ぶっちゃけやりすぎだと黎は思う。

「あ」 

「ど、どうしたの?」

 久遠は振り向き、ちょいちょいと手招きする。

「何?」

 黎の問いかけにも答えず、自分が会場内を伺っていた場所を開けて、そこから覗くようにというジェスチャーをする。見れば分かる、という事だろうか。

「どれどれ……?」

 黎は観客にバレない様に、慎重に、

「あ」

 分かった。分かってしまった。ここからでもくっきりと見える最前列。忘れもしない。あれは久遠の母親だ。隣に座っている男性と言葉を交わしている。そちらは見たことが無いけど……父親かな?

「まさか最前列に来るとは思わなかったなあ……」

 後ろから悩ましげな声が聞こえる。

「緊張する?」

「まあね。でも、大丈夫」

 久遠は後ろから黎に手を回して、

「私には黎が居るから」

 黎はくすっと笑い、

「あ、やっと『くん』が取れた」

「だ、だって、そこは中々……」

 しどろもどろになる。やっぱり久遠はこっちの顔の方が魅力的だと思う。

「ねえ、黎」

「何?」

「絶対、成功させましょうね」

「ああ」

 二人は暫く視線を交わし、やがて、啄ばむような口づけを交わした。



◇      ◇      ◇



 舞台袖に来てからどれだけの時間が経っただろう。ここは暗い。時折観客から沸き起こる完成や、拍手以外に時間の経過を知る手段は無い。時計はあるのかもしれないが、ざっと確認した限りでは見当たらなかった。

「雨ノ森さん、星守さん」

 やがて、係の生徒が二人を呼ぶ。

「そろそろ出番です。準備は」

「大丈夫です」

「大丈夫よ」

 係の生徒は軽く頷いて、

「それでは、こちらへ」

 先導する。

「いこうか」

「ええ」

 二人は、その後をついて行く。本当は、手なんか綱がない方がいい。でも、今だけは良いんだ。だって、この劇のお姫様は久遠で、王子様は黎なのだから。



◇      ◇      ◇


 舞台が始まると、そこは静寂の世界だった。

 いや、正確には静寂じゃない。演者は声を上げ、演出の音響はそれを後押ししている。

 しかし、観客は皆、壇上に注目している。今まで様々な方向を向いていた興味のベクトルは全て、演者。つまり黎達に向けられている。

 怖い。小さい頃、お遊戯会の様な事をする位は有ったが、それとはレベルも、視線の数も違う。一つの台詞、一つの演技、果ては一つの息遣いまで見逃さんとする視線。それが怖い。いや、怖かった。

「あ、ごめんなさい……あれ、名前を間違えたのかな……」

 恐怖は、彼女と入れ替わりに消えてなくなった。初めは偽り、後に全てを明かし、恋人の契りを結んだ、僕の大切な人。その人は、今、目の前に居る。

 そうだ、僕は一人じゃない。素人なんだ。もしかしたら失敗する事もあるかもしれない。でも、

「……ごめんなさい。それで合ってます」

 きっと、もう大丈夫だ。僕は彼女を、彼女は僕を良く知っている。良く知っているからこそお互いの力になれる。いざという時に頼りになる。そんな関係。

 ふと、気が付く。心の中から沸き起こる力に。そして、今の自分、今の状況を思い切り楽しんでいる自分に。

 ああ、そうか。自分が求めていたのはこれなんだ。本心から、“星守黎”として、必要とされたかったんだ。そんな事にようやっと気が付く。

 ふと、観客席に視線を向ける。そして、気が付く。“彼女”の驚きに。

 当たり前だ。“彼女”の娘は、こんなに立派なのだ。それを知っていれば、誰かにやったりなんかするはずがない。これできっと、考え直してくれるだろう。

 やがて、劇が終わる。役者が横並びになり、礼をする。そんな姿に送られる万雷の拍手は幕が下り切っても暫く途絶えることは無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る