第3話 “僕”と“私”の境界線で
「……ふぅ」
夜。自室。遥はふと、今日一日の出来事に思いを馳せる。
PN・刹那こと久遠は遥と別れてから殆ど経たないうちに、教えたアドレスにメールを送ってきていた。曰く、
【刹那です】
「早速メールを送らせていただきます。届いていますでしょうか?今日はありがとうございました。頂いた同人誌、ゆっくり読ませて頂きますね」
と、いった按配。ちなみに遥が確認した時点で、届いてからやや時間が経過してしていた事もあり、必ず返事をすると言った手前、何だか申し訳なくてすぐに返信をした。
雨ノ森久遠。彼女に対する遥のイメージは「完璧超人」だった。少なくとも昨日までは。
それが今日、崩れた。それはもう完璧に。音を立ててガラガラと。遥が知っている久遠は同人誌即売会に行ったりしないし、人の書いた同人誌を見ただけで、
「そういえば、何であんまり嬉しそうじゃなかったんだろう……」
自ら描いた同人誌の完売。それは部数に限らず嬉しい事のはずである。遥にはまだその経験が無いが、想像する事は出来る。目の前にある同人誌の山がどんどん小さくなっていき、盆地になり、平野となる。その光景は思い浮かべるだけで夢のようだ。
しかも、久遠は遥と刷っている部数が違う。150部と本人は言っていた。その数が彼女にとって多いのか少ないのかは分からない。しかし、完売したのであれば喜ばしい事。少なくとも遥にはそう思えるのだが、やはり何か理由があるのだろうか。
目標がもっと高い所にある?しかし、それならば、もっと多くの部数を刷ってくればいい。自ら150部という数を設定したのならば、その数を売り切った事はむしろ好ましい事だろう。以前より売れなかった?いや、完売して以前より売れなかったのなら、それもやはり刷った部数の問題だ。完売した事に関しては寧ろ喜ぶべきだろう。
「分かんないなぁ……」
お手上げだった。少なくとも遥には「完売したのに素直に喜べない」という状況が想像出来なかった。真相を知るには直接メールで聞くしかないような気がする。最も、メールしても本当の事を教えてくれるとは思い難いが。
「……メール」
その時、遥はふっと思いつく。何も本人に聞かなくてもいいのではないか。ただ、リアルの友人にはやや相談しにくい。伊織になら聞いても問題は無いが、彼にはオタク系の知識が殆ど無い。余り良い知恵は期待できない。他の人間は論外だ。まず細かな状況説明からしなければいけない上に、伊織以上にオタク系の知識が皆無だ。
オタク系の知識を持ち、出来れば遥の女装を知り、その上で相談に応じてくれる人物。そんな人物が一人だけ居る。調、である。初めて会った時、その姿は場違いに見えた。しかし、後で聞いたところによれば、「あの日は本当にたまたま寄っただけ」であり、普段あの手のイベントに参加する時はきちんと小銭も持っているとの事だった。
彼女が本当の事を言っているかどうかは分からない。でも、そんな所で嘘をつくような人では無いような気がする。
「聞いてみよ……」
善は急げ。遥はパソコンを立ち上げ、インターネットに接続。自らのアカウントにログインして、
「ええっと……」
文面を書いていく。何分相手は「月守遥」というPNからこのマンションまでたどり着いた人間だ。本名である久遠は論外として、PNである刹那も書く訳には行かないだろう。
それに、同人誌即売会の日程もアウトだ。調べないと分からないが、その日に該当しうるイベントが一つしかなければ、彼女の事だ。久遠までたどり着くに違いない。
遥は考えに考え、とある同人誌即売会で出会った女性が居る、という事と、彼女は刷った同人誌が完売したのにも関わらず、そこまで嬉しそうでは無かった、という事を書き、その理由が何故なのかが分からない。何故だか分かりませんか?という趣旨の文を書き上げた。これならば幾ら調でも久遠にたどり着くことは無いだろう。その上で、何らかの意見が得られるかもしれない。
「送信……っと」
二度、三度、内容を精査した後、遥は送信ボタンを押した。これで近いうちに何らかの解答が得られるはずだ。久遠が喜ばなかった理由について。
「……っていうか、まだちゃんと読んでなかった気がするな」
ふっと思い出す。そう言えば遥は久遠の同人誌にしっかりと目を通していなかった。勿論その絵が上手い事は一瞬で分かったし、それが遥以外にも評価されている事は150部の完売という結果が示している。
しかし、久遠は「同人誌そのものを誉めた時」もそこまで嬉しそうにはしていなかった。たかだかスペースが隣だった程度の人間に褒められてもうれしくない、という事なのだろうか。いや、それにしては遥の本には喜んでいた。少なくとも仲間程度には認識されていたはずだ。
「よっ……と」
遥はバッグから貰った本を取り出し、ぱらりと開く。やっぱり絵が上手い。少なくとも遥の何倍も。
取り敢えず、読んでみよう。そこまでページ数の有る物ではないのだから直ぐに詠み終わるだろう。そう考えて最初のページから順にめくっていく。
そして、その枚数がかさんでいくうちに、頭の中に一つの疑問が浮かんできた。
「うーん……」
これは、どういう事だろうか。勿論、絵の方は問題が無い。表紙のクオリティが最後まで維持されている。そこは素晴らしい。
問題は内容だ。はっきり言って、薄い。
いや、構造上問題が有る訳では無い。この手の同人漫画は長い話を作りにくい媒体である事は間違いない。そう考えればこういった話になる事もあるだろう。しかし、余りにも薄い。そして、こういってはなんだがどこにでもあるようなお話だ。
勿論、同人誌に限らず、漫画を買う理由なんて人によって様々だ。中にはストーリーは最低限で、絵を楽しむなんて人もいるだろう。それについて否定をするつもりは全く無い。無いのだが、もし久遠が、次また同じようなものを出したとして、買いたいと思うか、と聞かれれば、遥の答えは正直な所NOである。別に二次創作なのだからこれでもいいような気もするのだが、何か、足りないような気がする。
「うーん……」
遥は改めて、表紙を眺める。本当に良い絵だと感心する。しかし、それだけに内容が余計に気になってしまう。
「もしかして、満足の行く物が出来なかったのに、売れたから複雑……とか?」
ちょっとした思い付きだが、なんとなくあり得そうな気がする。なにせ、あの雨ノ森久遠なのだ。趣味の世界でも完璧を目指していたとして何の不思議もない。むしろその方がしっくりくる。崩れたイメージが少し蘇った気がした。もし、そうならば、絵だけ見て褒められても余り嬉しくは無いのかもしれない。本当の所は分からないが。
しかし、取り敢えずの仮説が立った事ですっきりはした。すっきりついでに風呂に入ろう。時計を見れば結構な時間である。もうそろそろ日を跨ぎそうだ。遥は最後にメールの確認だけして、
「おっ……」
早い。もう調からの返信が来ている。寝る前にチェックでもしたのだろうか。
【無題】
「こんばんは。メールだと大雑把な事しか書いてないから、責任は持てないけど、きっと同人誌とは関係ないんじゃないかな?例えば、その日はたまたま機嫌が悪かったとか。そういう感じじゃないかと思うな」
そして、随分簡潔だ。さらに、殆ど役に立たない。と、いうか、ずっと機嫌が悪かったのなら、遥がメールしたような疑問は出ようがないと思うのだが。
とはいえ、細かい状況を書かなかった遥も悪いと言えば悪い。調は今までずっと相談に乗ってくれていたからつい何でも答えてくれると思っていたが、遥が彼女から聞いたのは殆どが女装に関する事だ。逆に言えばそれ以外に関して、調がどの程度詳しいのかは全くと言っていいほど知らない。少し、期待をしすぎたのかもしれない。
「こんな感じ……かな」
だから遥はお礼のメールだけ送り、電源を落す。そして、洋服ダンスからパジャマと下着を選び取って風呂場へと向かう。その間、PCはずっとキュルキュルと音を立て続けていた。
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