第19話 鳥

 救助されてから二十六日目。いままでスレツは船上作業にかり出され毎日忙しく動き回っていたが、この日は久々にヒロシとゆっくり話す機会を得ることができた。

『スレツの口調、少し柔らかくなってきたね』

『そんなにひでぇかな』

『まだちょっと崩れてるけど、その年齢なら気にならないよ』

 この日、スレツはヒロシを自分たちの部屋に招いた。ライニーカールと一緒に改めてこの世界の話を聞いて、《ジェヌ》の居場所を探すヒントを得るためだ。だがヒロシは部屋に入るなり、ライニーカールが取り組んでいる謎の作業に目を奪われた。ライニーカールは船長室にあるはずの世界地図をこの部屋に持ち込み、コンパスと定規とを合わせて地図に線を引き、その横の紙にかなり細かい数式を羅列していたのだ。

『彼女はなにしてるの?』ヒロシが首を傾げる。

『おれにはわかんない』

 スレツは言語を変えてライニーカールに確認しようとした。何をしているの? と。

 しかしそれよりも早くヒロシが『もしかして』と、地図に描かれた線図と異言語の計算式を見つめた。『――この人は何らかの方法でどこかしらの座標を割り出そうとしているんじゃないか?』

 ライニーカールが苛立って言った。「横でべちゃくちゃ、何の用よ」

「君が今、なにをしてるのかって」

「ああ、これね。ちょっとある座標を割り出してるのよ」

 邪魔者を追い払うかのようなライニーカールの言葉ではあったが、スレツは驚いてヒロシを見た。

『ご名答……』

『線図の描き方とこの模様たち。この模様は君たちの世界の数字と計算記号だろ? そうだとすれば、ここに一定の計算式が展開されているということがわかる。なんかおれもびっくりだ。数学は言語や文明を飛び越えた学問って聞いたことがあるけど、本当だったのか。なぁスレツ、この数字たちの価値を教えてくれよ。そしたらおれも彼女と会話コミュニケイトできるかもしれない』

 スレツは言われた通り、メモの端に数字と計算記号を書いてその意味をヒロシに伝えた。ヒロシはそれをもとに数式を展開し、ライニーカールに突き出して読ませる。ライニーカールは目を丸くして新しいメモを取り出し、新たな計算式を書きはじめた。

『これは?』スレツが二人のやり取りを覗き込む。

『この星について教えてあげてるんだ。僕は高校時代、ちょっと科学的な研究に取り組んでいたことがあってね。この星の別々の地点で恒星が作る影の長さを同時に観測してその差異からこの星の大きさを算出したり、重力や遠心力の正体を探したり、物質の根源を追い求めたり。あの頃は楽しかった』

「ねぇスレツ、この人何者? 航海士かなにか?」

「なんか昔いろいろやってたみたいだよ……。星の大きさを測ったりとか」

「それはこの計算式を見ればわかるわ。どうやらこの人、この星のかなり詳しい部分を理解しているみたい。それにとても柔軟に式を汲み取っているわ――私が独自に作り出した式に一瞬で対応したんですもの。そしてここに書かれた彼の計算式はこう言っている……〝君が探している地点は、x点とy点を直線で結んだ線上のどこかだよ〟って」

「本当に会話してたんだ……」

 ライニーカールはヒロシが出した数式を地図に当てはめてみた。それは現在向かっている港〝オオニシ〟から四十キロほど離れた全長およそ三千キロ、幅十キロ程度に渡る直線だった。

『この場所になにかあるの?』ヒロシが顔を上げる。

「この場所になにかあるのかって」

 スレツの訳にライニーカールは呆れて腰に手を当てた。「あんた、この星に何しに来たわけ? 私はただ単に来ただけよ。でもあなたは違うでしょう? 私と彼が算出したのはその場所」

「それってもしかして……」スレツは胸を震わせる。

「そう。この直線上のどこかに、彼女――《ジェヌ》がいるってことよ」


 翌日、救助されてから二十七日目の朝。ヒロシはあれからさらに熱くライニーカールと数学の会話を繰り広げ、二人は朝方まで、油汗をかきながら無言のやり取りに熱中していた。二人は知的疲労に参ってほぼ同時に倒れるように就寝し、そして昼過ぎ頃ほぼ同時に覚醒して、また会話の続きをはじめた。

 ヒロシにベッドを譲って床で寝ていたスレツは、「盛り上がってるね」と、ライニーカールに声をかけた。

「面白いわよ、この人」ライニーカールは興奮気味だ。「この世界は横軸と縦軸と高さから成り立っているでしょ。だけどこの人が表す世界についての計算式はそこに空間と同列に扱った時間軸と、あとなんて言うべきかしら、〝遠小軸〟みたいなものが深くかかわりをみせているの。つまり通常三次元と考えられていた世界はそこに時間軸と遠小軸を交えた五次元――あるいはそれ以上――の世界があるはずだ、って主張しているのよ。遠小軸ってのは簡単に言えば、遠さと大きさは概念的には同じものって考えのことね。遠くのものは小さく見えるでしょ。同じように、小さいものは遠くにあるのよ――進行軸が違うだけでね。逆に近いものは大きく見えて、大きいものは近くにあるということ。だから彼の式によるとこの宇宙も私たちにとって限りなくゼロに近い距離にあるから計り知れないほどの巨大なものに感じているに過ぎないんだって。こんな斬新な考え、〈ユーリー効果〉以来の驚きよ」

 ライニーカールも数式で持論――おそらくは〈ユーリー効果〉を展開し、今度はヒロシが目を見開いた。『世界の最小単位が虫食い穴ワームホールだって……? だけどそうすると自然界に働く力やなんかは……』とさらに計算式を続ける。

 スレツはそのやりとりを眺めながらヒロシに聞いてみた。『研究はもう続けてないの?』

『もちろん』ケロっとしてヒロシは答える。『卒業後はこの船の乗組員として就職したんだ。やりがいもあるし、我ながら無難に人生をこなせていると思うよ』

『研究を続ける道は? こんなに詳しいんだから』

 ヒロシは謙遜して笑った。『そんな常識ハズレなことできないよ。大人は働かなきゃいけないんだ。君たちの世界でもそうだろう?』

『いや……、そんなことなかったけどな』スレツは思い出しながら言う。『確かにお金を稼がなきゃ生きてはいけないけど、仕事はそのための手段であって人生唯一の生き方ってわけじゃない、そうだろ? 例えば〈イリク〉でお世話になったルダって男がいたんだが、その人は典型だった。彼は自分の好きなことを続けてそれでお金を得ていたんだ。だいぶ自由で子供っぽい大人だったけど、かといってそういう生き方が珍しいってわけでもなかった』

『それは羨ましいね。こっちじゃバカにされる』ヒロシの口調に皮肉が混じっているような気がして、スレツは首を傾げた。ヒロシはその動作に促されて続ける。『大人になるってことは社会に出るってことだろ。社会ってのは大人の世界であって子供の世界とは違う厳しい世界だ。人が厳しい世界で生き抜くためには、他人や自分に甘い生き方をしていたら必ず足元を掬われる。好きなことを続けるなんて甘えた生き方をしてたら、この社会では生き残れないのさ』

 スレツは肩を竦めた。『カナコさんにも同じようなことを聞かされたよ。大人がどうとか……おれやライニーカールは実はまだ学生だからよくわからないんだけど、社会ってのはそんなに厳しい世界なのか?』

 ヒロシは即答した。『厳しいよ。《スィー》と同様、とても残酷で辛いものだ』

「僕はそうは思わないけどなぁ……」スレツはあえてヒロシにはわからない自分の言語でそう呟いた。だって、今だって、楽しく時間を過ごしているんだから。

 その後も計算で会話を続ける二人を置いて、スレツは甲板に上がってみた。外から「ポア、ポア」と鳴っている不思議な音が気になったからだ。

 途中、すれ違ったコウイチがスレツに言った。『〝ウミドリ〟がお迎えに来なすった。あと一日二日で港だぜ』

『〝ウミドリ〟?』はじめて聞く単語の正体を確認しようとスレツは甲板へ上がってみる。次の瞬間にはライニーカールを呼びに部屋に走っていた。

「ライニーカール! すごい生き物がいるよ!」

 ライニーカールは鬱陶しそうに復唱した。「すごい生き物?」

「そう! とにかく外に出てみなよ、今までに見たことのない動物だよ!」

 ライニーカールはスレツに腕を引かれ甲板へと連れだされた。引きこもり状態だったライニーカールは十数日ぶりに甲板に出たことで、恒星の思わぬエネルギーにびっくりする。異様とも思える空の普遍的な青さ。その中に〝ウミドリ〟はいた。

「ポア、ポア」

 海鳥は白い毛が生えた翅状の前足を大きく広げて〈グライダー〉のように風を捉えており、それが十匹ほど、群れとなって船の周囲を旋回していた。

「空を飛んでる……」動きまわる海鳥を見回して言葉を失うライニーカール。

 スレツは頷いた。「すごいよね。こんな生き物がいただなんて」

『鳥が珍しい?』ヒロシが聞く。

『珍しいどころじゃないよ……。空を飛ぶ生き物なんて、〈イリク〉にはマイマイマイしかいない』

『嘘だろ? だったら君たちはどうやって空を飛ぶ手段を思いついたんだ? この世界の空に憧れる子供はみんな鳥の真似をするっていうのに』

『そこがライニーカールのすごいところだよ』スレツは自分のことのように自慢する。

 海鳥を眺め目を輝かせているライニーカールの姿が、目から離れなかった。

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