第15話 星へ

 身一つの落下がはじまってから、スレツは不思議な解放感を味わっていた。抗いようのない死への一方通行に恐怖がないというわけではない。ただ、雨粒一つ一つがくらげ状の傘となって落下する神秘的な風景はスレツに一種の安心感を与えており、それと同じように、通り過ぎていく大気たちが厚みを増して穏やかに体を包みこんでくれているようで、スレツに向けられた惑星由来の母性的ともいえる感情が、スレツの恐怖心を大幅に和らげてくれていた。

 もしこの落下が無事に着地できるものと約束されていたら、今この瞬間ほど惑星そのものの命を感じる場面もないだろう。しかしその期待はあまりに現実離れしたものだとスレツは受け入れ、観念することにした。

 スレツは最後にライニーカールの〈グライダー〉を探した。うまく機体を操ってくれていなければ、自分が命を投げ出した意味がないからだ。しかし通り過ぎていく空気が景色を誤魔化して、うまく〈グライダー〉を探すことに集中できない。

 スレツは悔しがった。

 もしすべてが順調に進んでいれば、自分たちはなんの問題もなく《惑星ジー》へ行くことができたはずだ――望遠鏡を覗きながら夢に描いていたような《ジェヌ》との出会いの瞬間を実現できたはずだった。しかし唯一最大の誤算だったのは、現実が予想以上にいじわるだったということだ。

 現実は、今度こそ完璧という時に限って準備不足の瞬間を突いて狙い撃ちにしてくる。例えあらゆる選択肢の中から努力や勇気や理解をもって一つの適切な真実を選び出したとしても、空が晴れていなければどうしようもない。

 とはいえ、ライニーカール自身は失敗について準備不足であったという言い訳を嫌うだろう。〝やる〟とはそういうことなのだ。

 スレツはライニーカールの〝今〟が心配で仕方なかった。現実は、お願いだから、きっと今この瞬間も〈グライダー〉の制御と戦っているだろうライニーカールの心をこれ以上折らないでほしい――。

 空の方を見ているから、スレツには地面があとどのくらいかわからなかった。雲が見慣れた高さになってきたから、おそらくはもうすぐそこだろう。スレツは深呼吸を繰り返すことで悲鳴衝動をかきけして、できるだけ最後の瞬間を予期しないよう努力した。しかし思惑とは裏腹に、呼吸をするごとに息は苦しくなり、心にはさらなる悔しさが溢れてくる。

 スレツは目を瞑った。

 背中の方向に、迫る地面を、かすかに感じる気がする。

「スレツ、掴まって!」

 突然聞こえたライニーカールの声。目を開けたスレツは涙が出た。

 見れば彼女も涙を流して顔を皺くちゃにしている。スレツはライニーカールが伸ばした手を掴んで〈グライダー〉に着席した。

「バカなことしないでよ!!」

 ライニーカールはそれだけ言って、すぐに〈グライダー〉の落下角度の調整をはかる。翅と〈ユーリー機関〉が全力で駆動した。後翅の付け根から可視電光が幾筋も撒き散らされる。風が狂暴な叫び声をあげる中、機体は質量を何倍にも重くする落下エネルギーの圧力と戦いながらも、キリキリと重たそうに頭を持ち上げはじめた。そして〈グライダー〉は地面すれすれを撫でるように滑空し、弧を描いて再浮上し空に抜けた。

 スレツは、自分の体にこびりついていた圧力という重りからの解放を感じた。視界が再び空に向き、そして一瞬の静寂。次いで、下界一面からワーッと大きな歓声が響いた。気づけば今やエルラミド街の通りは人で埋め尽くされており、その視線すべてがスレツとライニーカールの挑戦にくぎ付けだ。ジジジクは自動車の上で力強く両手を掲げており、自分たちを追ってきた兵士たちは兜を放り投げて騒いでいる。

 みんな見守ってくれていたんだ。洪水のような感情がスレツの中で溢れる。

 ――この日はなぜか、いつもより少しだけ早く雨が止んだ。


「スレツ、もう一度よ! 手伝って!」

「わかった!」

 まだ挑戦は終わっていない。スレツは急いで涙を拭いて、ライニーカールも、自称雨で濡れた顔を袖でふき取った。

 高速の落下エネルギーを滑空と〈ユーリー機関〉の無重力によってうまく上昇エネルギーに変換することができたため、〈グライダー〉は劇的に高度を回復させた。今度はここからさらに上を目指すための上昇気流を探さないといけない。二人は協力して左右を見渡し、空気が昇っていそうな場所を探した。スレツははじめ、なにを目安に気流を探せばいいかわからなかったが、崩壊をはじめた雲間から青い恒星の陽が射しこんだとき、〝温められた空気は上昇する〟という、ライニーカールの〈気球〉実験を思い出した。

 光の射す場所に向かうようスレツはライニーカールに合図して、「ラストチャンスよ」と言う彼女にすべてを委ねた。光の中に入った〈グライダー〉は旋回を開始する。恒星から放たれる独特の温かい刺激をスレツは肌で感じた。

 この熱が空気を温めてくれれば――。

 しかし〈グライダー〉が数十周ほど回ったところで、その軌道はゆっくりと降下を描きはじめた。大気はまだ少しだけひんやりとしている。

 失敗かな。

 スレツは脱力気味にそう思った。

「私たち、頑張ったわよね」ライニーカールも空虚な表情で笑顔を見せる。

 スレツは同意して、彼女の奮闘を労おうと言葉を探した。命があるだけでも奇跡なんだ。そう納得しようとした。

 そんな時、ふと、ライニーカールの後ろにのっぺりとした大きな生物――マイマイマイが〈グライダー〉の影から顔を覗かせた。ライニーカールもスレツの背後にマイマイマイを発見して指をさし、振り向いたスレツは目の前の巨大なのっぺり顔に驚いた。

 見渡せば、〈グライダー〉はいつの間にか地上から飛び立ったマイマイマイの群れの中に紛れ込んでいて、彼らは〈グライダー〉を仲間だと思ったのか、あるいははじめて見る物への好奇心か、次々と寄って集まりはじめている。

 嵐の後の、マイマイマイの浮上だ。

 雲が晴れ、《惑星ジー》が大半を占める空となった。

 マイマイマイに守られるかのように漂っている〈グライダー〉は、吹き上げる風を掴んで軽やかな螺旋状の上昇へと転じた。突然起こった事態の好転をまだ夢か何かだと思い込み慎重に機体を操るスレツとライニーカールだったが、下からさらなる強力な風の吹上げがあり、頭上に広がる《惑星ジー》の完全に作用した低重力現象の助けもあって、〈グライダー〉はいよいよ、マイマイマイもろとも一気に空を駆け上がった。


 強風で煽られながら、〈グライダー〉はぐんぐんと〈惑星エフ〉から離れていく。大気から飛び出した気体物質がガスとなって虹色の輝きを放ち、それは高速で移動する物質の温度変化によって生じたものであると、スレツは自分の肌にあたる空気の温度を感じて理解した。

 現在〈グライダー〉が漂っている空間は空気が移動するトンネルのちょうど中心に位置していて、その周囲を色づいた大気が陽炎のように揺らめきながら停滞している。この〈エア・トンネル〉内は夏のような暑さだった。周囲に漂うマイマイマイの一匹が〈エア・トンネル〉の経路から逸れておぼろげに発光している大気外部に触れたとき、その個体の背中から伸びた風受けの綿が発火して無残な黒焦げ姿となり、宇宙空間へと排出された。いよいよ《惑星ジー》だと浮かれていたスレツは笑顔を引きつらせる。

「このルートから外れたら終わりだね……」

 だがライニーカールは満面の笑みだ。「風と一緒に移動しているから感じないけど、これは相当な速度が出ているってことね! ねぇスレツ! あなたは今、私たちがとんでもなくすごい場所にいるんだってことを自覚してる!? 私たち、今、すごい場所にいるのよ! これは事件よ、ねぇスレツ!」子供のようにはしゃぐライニーカール。

 スレツは正面から迫る発光体を発見した。「ライニーカール、あれはなに!?」

 スレツが指をさしたのは、《惑星ジー》の側で生まれた〈エア・トンネル〉だった。植物のつるのように伸びてきた光るその茎頂点は、スレツたちが進むトンネルのすぐ横を一瞬にして通り過ぎ、光は共鳴してさらに強く輝いた。トンネル中心部の気温が上がり、ボイラー熱に支配されたライニーカールのガレージのように空気が熱くなる。

 両惑星から生じた〈エア・トンネル〉がもし正面衝突したら大変なことになりそうだ。スレツがそう危惧したとき、〈グライダー〉の機体が徐々に揺れはじめる――まるで何らかの危険を警告するかのように。ライニーカールはハンドルを強く握り、正面を見据え、迫る何らかの自然現象に備えた。

 そして、次の瞬間。

 パッと〈エア・トンネル〉が消滅し、〈グライダー〉は唐突に穏やかな広い空間へと放り出された。

 空気は先ほどとは一転、冷やされていて薄い。焼けた鉄のように赤く光る外殻が空間を球状に取り巻いており、それらが輝いている中で一番初めに目に留まったのは、点々と夜の星のように漂っている無数のマイマイマイたちの姿だ。彼らは各所で二匹がお互いペアとなり、綿をこすり合う、見たことも聞いたこともない行動ダンスを繰り返している。その光景はまるで繁殖活動のように見えた。もしかするとこれはもしかして、ここはライニーカールが予想していたマイマイマイの……。 

 スレツはライニーカールに確認しようとしたが、息が苦しく声を出すことができなかった。スレツはその時初めて、この領域はそれほどまでに空気が薄いということを知った。〈グライダー〉の振動音も鼓膜よりは体全体から伝わるものへと変異している。耳鳴りがひどい。

 ドームの中は無重力で上下がなく、自由な空気は緩やかに渦巻いていた。ライニーカールはハンドルから伝わる振動――〈グライダー〉の機嫌や大気の状態――をインスピレーションによって解読し、直感的に、このドームに取り残されては《惑星ジー》へ行くことができないどころか〈惑星エフ〉にすら帰ることができなくなると悟った。ついで、その直感の根拠が逆算的に脳裏に展開されはじめ、おそらくこのドームは二つの惑星の大気が交わるちょうど中間に位置する共有重心で、それぞれの惑星から生じた〈エア・トンネル〉が反対側から伸びてきたそれとの正面衝突を避けるため迂回して互いをやり過ごし、その時わずかに生じた空間にて取り残された空気が渦を巻いて作り出されている領域なのだと仮説をたてる。

 つまり自分たちの乗る〈グライダー〉は迂回した〈エア・トンネル〉から放り出され、先の燃え尽きたマイマイマイの二の舞は避けられたものの、空気が置き去りにされる異質的な球状領域に閉じ込められてしまったのだ。

 もしそうだとしたら、いつまでもこの領域にいては、互いに楕円軌道を描く惑星の公転に伴ってドームは泡のようにはじけ、〈グライダー〉は宇宙空間に放り出されてしまうだろう。マイマイマイはおそらくその後も軌道を保ち続け次の惑星接近を待つのだろうが、彼らと違って常時呼吸を要する生物の末路は考えるまでもない。ライニーカールもスレツも、すでに息苦しさは限界だった。

 外殻で発光する空気の奥にうっすらと惑星が見える。だが発光の膜は厚く、その惑星が《惑星ジー》なのか〈惑星エフ〉なのか見分けがつかない。どっちに進んだらいいのだろう? 球状領域の内殻側に沿って飛ぶ〈グライダー〉は行き先を見失った。

 そんな時、スレツは突然ライニーカールの手もろともハンドルを握り、〈グライダー〉の軌道を降下させた。無重力下においてその方向は《惑星ジー》と〈惑星エフ〉を直線で結んだ際の直角方向の片側で、上下の区別は〈グライダー〉からの主観に依存している。

 ドームの空気はどうやら上下の極からジェット状に勢いよく放射されているようだった。その現象に対しライニーカールは素朴な疑問――無重力の三次元空間において物理現象は自由に三次元方向に作用できるはずなのに、なぜ気体物質の進行方向はこのような二次元方向軸によって違いがあるのかという素朴な疑問――を抱きながら、極の出口は狭く風の流れは高速と明白であったため、ライニーカールは〈グライダー〉の翅を畳もうとスレツに合図した。このままではあまりのジェット気流にフレームが耐えられず分解されてしまう。だがスレツは合図の意味を中々理解できず、そうしている間にも極の出口は迫ってくる。〈グライダー〉はもはや制御不能寸前だ。ライニーカールは息苦しくも必死でスレツに訴えたが、やがて視界が黒色に塗りつぶされていく。ハンドルは離したらダメだ。〝ヤヤア〟という謎の文字列が目に入り、なぜだかハンドルから最後の力が伝わってくる。スレツが翅を畳んだ。

〈グライダー〉は、狭い空気の通り道に突入した。

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