第18話 スィー

 救助されてから七日目の朝。今日もこの時間の見張りはヒロシだった――スレツは昨日は寝坊をして、朝一番に起きることができなかった――。

『おはようヒロシ』

『おはようスレツ』

 簡単な挨拶を交わして、スレツは見張り台に立った。今朝も霧が濃い。だがそれは間違いのない晴天の予兆だった。スレツはヒロシと同じように漠然と霧がかった遥か遠くを望みながら問いかけてみた。

『お前たちはどこから来たんだ?』

 それはトモヨシから問いかけられた文節をそのまま真似したもので、ヒロシはスレツの言葉の間違いに少し含み笑いをした。

『〝トウセイシ〟からだよ。ちょうどこの場所から世界の反対側にある』次いでヒロシは『君はどこから来たの?』と、スレツへわかりやすい口調で聞く。

 スレツはすぐに自分の言葉とヒロシの言葉とにわずかな差異があることに気づき、『君はどこから来たの?』と練習するように復唱した。

『そう。君はどこから来たの?』ヒロシは繰り返す。

 答えようとしてスレツは空を探した。感覚的に、ちょうどそろそろ惑星接近が起こりそうな予感があったからだ。《惑星ジー》の人たちは〈惑星エフ〉にどのような名詞を割り当てているのだろう。そんな疑問を持ちながら、朝霧の隙間にかすかに見えた〈惑星エフ〉の姿を指さす。

「あそこから来たよ。僕とライニーカールはあの星から来たんだ」

 信じてもらえるだろうかと少しだけ不安だったが、スレツは正直に言った。ヒロシならもしかしたら変に疑ったりせず、素直に受け入れてくれるかもしれない。

 しかし〈惑星エフ〉の姿はヒロシにスレツが想像していたよりも目を大きく見開かせ、そして顔面を蒼白にさせた。

『あんなところに〈イリク〉が……』そしてうっすらとしたモヤに目を凝らし、海は一見穏やかだというのになんらかの確信を得て、ヒロシは大声をあげた。

大波だースィー!!』

 同時にヒロシは見張り台から伸びていた一本の縄を引っ張り、それによって船内に強烈な鐘の音が炸裂する。

『スレツは早く船内へ!』ヒロシは早口で発し、手近にあるロープを伝って見張り台からスムーズに甲板に下った。

 船から続々と船員たちが現れる。コウイチとトモヨシの姿もあった。コウイチは船内で一番体が大きく、船長であるトモヨシからかなり高い信頼を得ているようで、大体の場合、二人は一緒にいる。ヒロシはまず、その二人に鐘を鳴らした事情を報告をした。霧に隠れている〈惑星エフ〉を指さし、次いで、まだスレツがいる見張り台を指さす。スレツはまた怒られるのではないかと思い身を隠そうとしたが、『スレツ、おりてこいよ』というヒロシの邪気のない声に少しだけ安心して、ジェスチャーでその意味を理解し、縄はしごっを使い甲板へと下った。

『おめぇやるじゃねぇか』おもむろにトモヨシがスレツの頭に手を乗せる。『お前のおかげでヒロシは《スィー》の予兆をいち早く察知することができた。今まででこんな余裕があったことなんてなかったからな、恩に着るぜ』

『だけどよ船長』コウイチがやや不満そうに口を挟む。『準備万端で《スィー》に挑んだところで沈没の可能性がゼロになるわけじゃねぇんだ。油断はできねぇよ』

『だな』

 トモヨシは短く頷いてスレツを船内へと促し、船員に号令をかけた。

 一人船内に誘導されたスレツは、本当はみんなの中に入って一緒に作業をしたいという欲求を抑えながら、仕方なく、自分の部屋に戻ることにした。部屋では、ライニーカールがタンクトップの薄着でベッドの上で胡坐をかき、なにかの機械のねじを巻いている。

「なにしてるの?」

「ちょっといらなそうな時計を拝借してきて、中を覗いてるの」

「いらなそうな時計って……」少なくとも自分たちの惑星の常識では、時計はどんなものであっても高級品だ。しかし覗き込んでみるに時計はすでに無残な手術の真っ最中で、スレツはこの時計の救済を諦めた。

「なにか発見できた?」

「というより面白いわよ。なにがって、この《惑星ジー》の時計も私たちが知っているねじまき式と全く同じ構造なの。ただし一日が十二時間で、一分は一二〇秒あるけどね。時計の背中を開ける前はこの惑星の歴史をこっそり覗き込むような――禁断の箱を開けるような――ゾクゾク感があったけど、その中には私たちの世界とほとんど同じものがあった。これは私たちを作った神様が同じ神様だからってこと?」

「どういうこと?」

「世の中があまりに合理的すぎると、時々本当にこの世界には神様がいるんじゃないかって思うことがあるのよ。つまり時計を生み出すアイデアは〈惑星エフ〉も《惑星ジー》も同じ発見の下で必然的に人間が生み出した――見出した――真理ということ」

 スレツの頭の上にハテナが浮かんだが、ライニーカールは楽しそうに〝《惑星ジー》の歴史の中身〟を眺めている。

 スレツも自分のベッドの上に座った。《スィー》が近づいているというが、船体はいつも以上に穏やかだ。しかしふと目に留まったコップの中の水が若干斜めであることに気づき、潮位の上昇を視覚で実感した。

「これからあの大波がくるって」

「そう。沈没しなければいいけどね」

 ライニーカールは手早く時計の部品を元に戻しはじめた。


 救助されてから八日目の朝。無事《スィー》を乗り越えたことで開かれた昨晩の宴によってほとんどの船員はまだ酔いつぶれたまま眠っており、船内は静まり返っていた。見張りは今日もヒロシだった。ヒロシは一見して明らかにこの船では最年少であるため、こういったときにはこき使われるのだろう。だがそれは、スレツにとって幸いだった。

 スレツは今日もまた縄はしごをのぼり、ヒロシに話しかけた。

『おはようヒロシ』

『おはようスレツ』

 二人はお馴染みのあいさつを交わす。《惑星ジー》の言葉を徐々に覚えはじめていたスレツは、少しずつ広がっていくヒロシとの会話が何よりの楽しみだった。

 恒星の位置が高くなる。ぽつぽつと船員たちが甲板に出て作業をはじめたころ、コウイチがスレツを呼びだした。

『聞いたぜスレツ。お前、ヒロシと会話をしながら言葉を覚えてるそうじゃないか。だがもしそれが本当ならなんでおれに相談しなかった。あいつは人にモノを教えるのが苦手なんだよ。だから感謝しろよ、今日から特別におれがお前の言語指導をしてやる。みっちり叩き込んでやるからな、覚悟しろよ』

 コウイチは得意げに腕を組んだ。スレツは言葉のほとんどをまだ理解することができなかったから、とりあえずニコニコして頷いておいた。


 救助されてから二十一日目の朝。

『《スィー》!!』

 この日も一番に《スィー》を発見したのはスレツだった。ヒロシが鳴らした鐘の合図で船員たちがすばやく持ち場に立ち、船長がメインマストを畳むよう指示を出す。スレツとヒロシは息を合わせて縄を持って見張り台から飛び降り、勢いよく帆を畳んだ。

『スレツは四番柱の帆についておれの指示を待て!』トモヨシの大声が飛ぶ。

『了解!』スレツは笑顔で答え、船体の最後方にある四番柱のもとへ走った。

『スレツは今日が初仕事か』同じく四番柱を担当する船員たちが言う。『お前は船乗りじゃねぇが、とはいえ人手はありがてぇ。いいかスレツ、今回お前に求められるのは判断じゃねぇ、単純な力仕事だ。言われたことだけこなしてれば、おれたちはいつものように《スィー》をやり過ごすことができる。いいな?』

 スレツはコウイチから教わった言葉で答えた。『んなことわかってるさ。おれの命だってあんたらが握ってんだ、くれぐれも頼むぜ』スレツはそう言って、四番柱班のメンバーひとりひとりと拳を叩いて団結を誓う。

 潮位の変化はあまりに緩やかに時間をかけて発生するため、初期の時点で海の異変を感じ取ることは難しい。ただし船体を注視すれば、例えば柱から垂れている縄が徐々に傾きはじていることに気付くことができる。

 メインマストを畳んだ船、《リュウグウマル》は、来たる《スィー》へ向け直進している。船の両翼にある一番柱と二番柱のマストは半分だけ展開されており、スレツが縄を握る四番柱の帆は全開状態で、およそ八時の方向から吹く横風気味の追い風を掴み、前進の主動力となっていた。

『帆を畳むタイミングは波から下るときだろ?』スレツは尋ねてみる。

 一人の船員が答えた。『お前がそれを知る必要はねぇよ。それは判断する人間が知っていればいいことだ』

 スレツは異論を唱える。『おれは知って損することなんてあんまりねぇと思うんだよ』

『優秀な人材に限って言えばな』コウイチが一段高い場所から話に割り込んできた。『《スィー》への対処は一瞬の判断が生死の分かれ目になんだよ。その中でも特にやっちゃいけねぇのが、判断の遅延だ。たとえ間違っていても何かを決めなきゃいけねぇ中で、もし複数の判断がぶつかって身動きが取れなくなってみろ。それは誰にとっても最悪のシナリオになる』

『そうかもしれねぇけどさ』

『そら、悪魔が来るぞ。おれは船長の指揮に合わせて帆の調整をお前たちに合図する。しくじるなよ。特にスレツ』

 船体が上下に揺れだした。スレツはバランスを取るために、つい縄をひっぱってしまいそうになる。だが他の船員たちはさすがに慣れているようで、みな冷静に自分の重心を操っていた。しかし不意に、グンと船首が極端に持ち上がると、スレツをはじめベテランの船員たちですら何名かがよろめいて膝をつく――山のような大波が到来したのだ。

《リュウグウマル》はメインマストを展開し、巻いて後方から強まった風の力を借りて大波の斜面を駆け上り、まずは難なく一つ目の大波を越えた。

『メイン、四番、帆を畳め!』トモヨシが大声で合図し、『メイン、四番、帆を畳め!』とコウイチが復唱する。

 スレツと船員たちはぐっと縄を引き、帆をまくり上げて折りたたんだ。船体が下降に転じ、速度が上がる。両翼の三角帆が船体の角度を直滑降に保つよう微調整の展開を見せ、《リュウグウマル》はその速度を利用して次の波をのぼりはじめた。のぼり途中で、前方からの風が次第に後方から吹きはじめる。

『一番、メイン、四番、開帆!』

『一番、メイン、四番、開帆!』

 スレツたちはその合図で、今度は帆を広げるための縄を引いた。風は若干斜めから吹いている。一班が帆の向きを調整し縄を船体に固定した。どうやら船員たちは単に波をのぼるだけでなく、できるだけ波に対して船体を横に向けないよう操っているようだった。前方両翼の帆は絶えず閉じたり開いたり微妙な調整を繰り返しており、風と船の向きのバランスを取っている。

 二つ目の波を乗り越えた《リュウグウマル》は、同じ調子で三つ目、四つ目の大波を乗り越えていく。スレツは、この波はいつまで続くんだと苛立ちはじめていた。手は縄を懸命に握りしめた影響で、皮が剥げ、血まみれだ。痛みをこらえて次なるトモヨシとコウイチの指示に従ったが、体の筋肉も悲鳴をあげはじめ、力が入らない。もう限界だった。船体が下降に転じる。『四番、帆を畳め!』これが最後の波であってくれと祈った。

 しかし船の進行方向を望むと、目の前には一際大きな波が迫り、影を落としている。船は波から下りスピードを上げ、次なる波を一気に駆け上がる。『四番、開帆!』みなが一斉に綱を引く。スレツはその動きについていけず尻餅をついたが、帆は見事に開いて風を受けた。船体が極端に傾きスレツは転がりそうになったが――一度でも転がりはじめれば海に放り出されてしまう――その体をコウイチが受け止めてくれた。船が波の頂上に到達する。

『わ、わりぃ。助かった』スレツはコウイチへ言う。

 コウイチはフンとスレツを小ばかにした表情で『おれが掴まえてやらなきゃお前は今頃この波に持っていかれてたぜ。危なかったな』

 そしてコウイチはスレツに周りを見回すよう促した。波はこれが最後だった。〈グライダー〉に乗っていた時ほどではないが遠くまで見渡せる高度に船はあり、マイマイマイの群れが空から降下してくる様子が確認できる。船首がしだいに下を向いて、最後の下降を開始する。軽やかな疾走感と達成感に、船員たちの鬨の声が響く。スレツもコウイチやヒロシに促されて、船から身を乗り出してその風を堪能する。

〈惑星エフ〉は頭上を通り過ぎ、《スィー》を引き連れて遠退ききつつあった。

 船長が両手を掲げた。『おう! お前らお疲れだったな! 今回の《スィー》も無事乗り越えることができた! 加えて今日は素人のスレツが初参戦し見事仕事をやり遂げた記念すべき日だ! お前たちこれがどういうことかわかるか? スレツはお前たち同様、この船にとってかけがえのない船員になったということだ! 命がけの彼の行動に拍手を送ろうじゃないか! よくやり遂げた、スレツ!』

『いや、だけどおれは最後――』

 スレツはコウイチを見て言いかけたが、コウイチは何も言わず真っ先に拍手をはじめた。

『はじめは誰だってこんなもんさ』誰にも聞こえないようにして言うコウイチ。

『スレツ! やったな! 船長に気に入られた!』ヒロシがスレツの背中を叩く。『君はこれで職を得ることができるぞ!』

『職……?』

 スレツは首を傾げヒロシの言葉の真意を訪ねようと思ったが、男たちが放つ拍手の轟音が大きすぎる。しばらくしてようやく収まったかと思えば、船長が大声で言った。

『〝オオニシ〟まで早くてあと十日で到着だ! 《スィー》との遭遇はあと二・三回ってところだが、無敵のおれたちなら必ず乗り越えられる! さぁ、今日はこのあたりで休憩してメシにでもしようや!』

 船長の言葉に歓声が空高く響き、船員たちは騒ぎながら船内へと向かう。

『スレツも行って来いよ。今日の主役はきっと君だぜ』

 ヒロシが背中を押すが、どうやら彼はこのまま見張りにつくようだ。

『いや、ヒロシが行かねぇならおれも遠慮しとく。それよか折角これだけ言葉を覚えたんだ、もっとこの世界の話を聞かせろよ』

『あっはっは、だいぶ荒っぽい言葉を教わったようだけどね。でも――』

 ヒロシはスレツの背後を指さした。その先には大きな女性、カナコがいる。

『スレツ、お前、派手に怪我しやがったな!』

 言われて、スレツは自分の手のひらを思い出した。ジンジンと痛みが伝わってくる。

 カナコは言った。『私が治療してやるから早くこっちに来な! 見張りはヒロシに任せとけ!』

『このくらい平気だから心配すんなよ』

 だがスレツの訴えは虚しく退けられ、手を引っ張られて船内へ連れこまれてしまった。

 船内の食堂は大賑わいだ。糸を張った三弦楽器を弾く人がいる。みな酒を飲み、音楽のリズムに合わせて踊ったり床やテーブルを叩いたりしている。スレツはカナコに続いてその食堂を通り過ぎ、医療用具がそろった部屋へと案内された。

『それにしてもずいぶんしゃべれるようになったな』カナコは愉快そうに笑い、そして両手を出せとスレツに命令した。

 スレツは素直に従いつつ、聞いてみた。『〝オオニシ〟に到着したらおれたちはどうなるんだ?』

『ああ、お前はうまくやったからな』

 カナコはやや薄汚れた布に樽色の液体を含ませてスレツの手に押し付けた。アルコールの匂いだ。時間差があって、スレツの手に強烈な痺れと痛みが生じた。カナコはスレツがなにか言う前に『男ならがまんしな』と牽制する。

 スレツは痛みに身を震わせながら、『うまくやったって? ヒロシが、職がどうのとか言ってたが』

『そうさ。スレツももう子供じゃないんだから、働かなきゃな。大人ってのは働くもんだ。船長に気に入られたお前はこれからこの船で働くんだよ。なに、メンドーな手続きは全部船長がやってくれる』

『いや、ちょっと待って』スレツは慌てて言う。『おれたちはまだこれからの身の振りを考えてないんだ。勝手にここで働くなんて決められても、おれにはこれから目指すべき場所がある』

『目指すべき場所?』

『そう。おれが〈惑星エフ〉――みんなが〈イリク〉と呼んでる世界――で望遠鏡を覗いていた時、偶然目が合って知り合った女の子がいるんだ。おれはその子に会うためにこの星にやってきた。船が港に着いたら、おれはその子を探すための行動を取りたいんだよ』

 スレツの発言を聞いたカナコはひどくつまらなそうな表情で布をスレツの手に巻き付け、ぎゅっと結びつけた。『バカ言ってんじゃないよ』カナコは目つきを少しだけ厳しくして続ける。『あんたの世界はどうなってんだ。夢を追うなんて子供の仕事だろ。大人になったらもうそれはお前の仕事じゃなくなる。〝女の子に会う〟だァ? 港に着いたらお前やライイーカウは仕事を探さなきゃいけないんだよ。社会ってのはそういうもんだ。じゃないと人は生きられない。街も活性化しない。家庭も持てない。大人は働いてこそ人生を得られるんだ』

『おれはそうは思わねぇけどな』

『どう思おうが勝手だが、事実なのさ』

『おれにはカナコが、大人は夢を持っちゃいけないって言ってるように聞こえてならねぇんだが、それが事実だと?』

『治療は終わりだ』カナコは不機嫌になる。『さっさとこの部屋から出てきな。そして港に着くまでに少しでも大人になるんだ。〝オオニシ〟でライイーカウと定職を探すか、船長についていくか。仕事は大人の命、社会の前提だ。人はいつまでも子供でいちゃいけないんだよ』

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