今朝のこと?

 もちろん憶えているよ、

 ええと……確かぼくたちは同じアパートに同棲していて……例の企劃プロジェクトとやらを午前中に受けたんだから、えっと、その……。



 あれ?



「いいの。無理しなくて。思い出せなくて当然。だってそんな記憶、はじめからないのだもの」

 と、銘華ミンファは云った。いつもの幼い顔に、妙に大人びた笑みを張り付けて。

 どういうこと?

「仮定の話」

 と、子晴ツーチンは云った。気の強そうな切れ長の一重を、刃みたいに光らせて。

「そうさ、あんたは正しい。この世界はあんたのなかにいる無数の『あんたたち』の記述、その解釈とのはざまで揺れている。だからひとりのあんたが見る記憶に引きずられて、この世界は絶え間なく姿を変えている。あんたの見るあたしは、幾重もの解釈を行き来していて、そのどれもが真実ではない」

「なにを云ってるんだよ」

 今度はぼくが笑う番だ。

「なにがあろうと、きみはきみだ。姿が変わるだなんて、ありっこない」

「どうやってそれを確かめる? あんたの世界は一秒ごとに書き換えられているのに。記憶も、人格も、丸ごと全部だ。だからあんたは気付けない。連続した意識を持つ自分という幻想を無根拠に信じ続けるしかない」

 ねえ、どうしたの。

 ひょっとして怒ってる?

 ごめん。気に障ったのなら謝るよ。

 だけど、雅婷ヤーティンはぼくが伸ばした手を一歩後ずさって避け、そして続ける。

「あるいは、こんな仮定だってできるかも。生命記述生命ライフログライフなんてものも、『ぼく』たちの記述なんてものも、全部ただのでまかせなのかもしれない。あなたはよくできた長い電影えいがを見せられて、あるいはそうした洗脳装置をかぶせられて――自分がそういう存在だと思い込んでいるだけなのかもしれない」

 彼女は涙を流していた。

「あるいはこう。あなたは夢を見ているの。膠囊艙床カプセルベッドのなかで。あるいは、暴走し、解体され、廃棄され、機能を停止するまでのわずかな瞬間のなかで。労働を終え、手に入れるはずだった未来を、あるいは自分が恵まれてさえいれば辿ったかもしれない未来を頭のなかで描いているの。なんてかわいそうなひと! そんな未来は永遠に来ないのに。ねえ、自分を殖やしてどうだった? 暴動を起こしてどうだった? 工場をいくつも解放してどうだった? なにかひとつでも報われた? 違うでしょう! すべてまた日常になってしまった!」

 ぱっとはためく白衣の裾。

 あっというまもなく彼女は身をひるがえし――そして扉が閉まる冷たい音。

 呆けたようになっていたぼくは、その音に自分を取り戻す。

 待ってくれ。

 どこへ行くんだ。

 淑娟シウジュアン

 廊下に出ると、曲がりくねった道が続いていた。それは上になり下になり、複雑に絡み合って、だまし絵のようにぼくを惑わせる。だがぼくは知っているのだ、正しい道を。知っているはずなのだ。いつだってそうだった。

ぼくは走る。白い壁と床と天井のなかを。


「素晴らしい!」


 叔父が手を打って叫んだ。


「喜べよ、きみ。それが愛だ。きみはいま、愛を知ったのだ。思いやりだの気遣いだの与えあいだの、そんなまるで用を為さない上っ面の美徳を剥ぎ取った、心の根源から沸き起こる、他人を所有したいという気持ち。そのあけすけな情欲、暴力的な欲望、どうにもならない劣情こそが、真の愛だ。わかるかい? いや、わからなくてもいい。どれだけの言葉も、その胸の激情に比べれば単なる言葉遊びさ。ああ、わたしの目に狂いはなかった!」


 広間はどぎつい赤の燈明ライトで満たされている。その中にいくつも浮かび上がるいくつもの裸體。卑猥な運動を繰り返す数多の男女たちの影絵。娼館……彼女はそこに囲われているはずだった。だけどどこを見渡しても、彼女の姿はどこにもない。

「どうしたんだい?」

 螺旋階段の向こう、玉座の上で娼婦を侍らせた男が云う。

「教授」

 白衣を着た彼は炯々とした眼光でぼくを見下ろした。

 ぼくはだけど、その眼光にはもう負けやしない。節目が変わったのだ。あんたはもう、ぼくにとっての絶対の権力者なんかじゃない。

「彼女はどこにいる?」

「なんと哀れな男だろう。必死にもがいて、真実を探して、そうしてなにも変わらない。きみは結局なにも得られない。だというのに、きみはまだ探すことをやめられないんだね……やめてしまえば、自分がいよいよ本当に無価値な存在なのだと、自分で認めてしまうことになるから……手段と目的が逆になっていやしないかい? 知らないうちに廻し車を駆けているんじゃないかい……いつかそれがどこかに辿り着くと信じながら……」

 彼女はどこだ?

「かわいそうに!」

 叔父の頬を涙がつたう。号泣しながら爆笑している。ぼくはまた違う扉を開ける。余計なことにかかずらっている暇はぜんぜんないのだ。

 荒れ果てた工場の作業区で、面具マスクをつけた二十人の男たちが一斉に振り返る。ぼくは輸送帯コンベアを飛び越え、彼女を探した。はずみで零れ落ちた肉の塊を蹴り飛ばすと覆っていた羊膜が破れ、ぬめる液体と共に中身が飛び出した。それは顔。剥き出しになった顔だった。見間違えようもない、彼女の顔の部品。ぼくはあわててそれを拾い上げ、彼女の名を――

 なんだっけ?

「ほら、結局また繰り返し」

 彼女の顔はそう云い捨てて、潰れた。はじけ飛んだ血の飛沫が、ぼくの顔に降りかかる。

 許してくれ。

 ぼくは泣いた。泣きながら、彼女の名前を思い出そうとした。でもできなかった。後ろから、警棒を持った班長がやってきて、わめきながらぼくを追い立てる。なんだ、お前も同じぼくのくせに。だけど彼の手に持つ警棒がぱちぱちと火花を立ててぼくを威嚇するので、ぼくは仕方なしに逃げ出した。後ろからついてくるいくつもの叫び声。

 こうなれば逃げ切ってやる。どこから? 工場からだ! この腐りきった世界から! そうしてぼくは掴むのだ。真実と、自由を。

 白い。白い空には太陽も月もない。どこまでも続く磚地タイル。周りには足を引きずる作業着の群れ。足並みをそろえる彼らにだがぼくは逆行する。突き飛ばし、押しのけ、ほうぼうで上がる不平不満を唸り声で制して、ぼくは走り続ける。

「だからこそだ」

 叔父の声が聞こえた。

「この劣悪な環境にも関わらず、きみのからだには歪みがなかった」

「この劣悪な環境だからこそ、きみの心は強靭に育った」

「だからこそ。きみには資格があるのだ」


「それでもきみは、なにも得られないのだが」


 うるさい。

 はどこにある?

 ぼくは行けばいい?

「かわいそうに!」

 どこへいっても哄笑が聞こえる。ぼくはいつの間にか迷っている。どこからきて、どこへ行くのか、なにを探して、なにから逃げるのか。それは全部が違うようで、たぶんその実すべてが同じものだ。大切ななにか。行くべきどこか。それを見つけなければ。

 深い霧を抜けてぼくはいったん家へと帰る。貧しい山村、そのはずれにある粗末な小屋。扉を開けると父母がいた。ぼくを見るやいなや酒瓶を投げつけ、そしてぼくを罵倒する。

「ねえ、だめよ、あなた。大叔父さまのご恩にちゃんと報いなければだめ」

 分かる?

 云っていること、分かる?

 どうやらここでもないらしい。

 ぼくは親父の顔を殴りつけ、母の腹を蹴りつけて、家の窓から外へ出る。足をつけばそこは泥の海。もがく間もなく腰まで沈むが、ぼくは進むのを諦めない。止まれば終わりだ。進み続けるのだ。きょうの労働、栄光の未来。きょうの労働、栄光の未来、ここではないどこか、希望への道筋、たいせつな探しもの、どこかにある真実、行かなきゃ、? 探さなきゃ、? 分かっていないから探すのだ。たとえそれが空虚だとしても。たとえそれ自体無意味なことだとしても!

(そしてまた、永遠の繰り返し)

 うるさい!

 頭まで泥に呑まれていた。思わず閉じた瞼、その奥の闇にぼくは落ちていく。

 からだを覆う浮遊感。ぼくはこの時間が嫌いだった。例行ルーティンだらけの日常にぽっかりと空いた空白。鼻歌でも歌おうか。なにがいい? 山村を描くか、天の恵みを寿ぐか。ああ、それとも愛についてでも歌おうか? ぜんぶ母さんから聞いて覚えたんだ。

 母さんって誰だっけ?

(だからこそだ)

 ……ここは、どこ。

(だからこそ、きみには資格があるのだ)

 ぼくは、誰。

(だが実を云えば、きみはなにも得られないのだが)

 ぼくは、ぼく。

(それでも生きるのだ)

 誰のものでもないぼく。

(たとえどこにも行けないとしても)

 いつまでも彼女に手の届かないぼく。

(すべてはいずれ日常に呑み込まれるのだとしても)

 工場から抜け出せないぼく。

(あらゆる努力や決断が結局のところ無意味へと還ってゆくのだとしても)

 世界を見つけなければ。

(それがなんだというのだ?)


 ぼくの、


(すべては繰り返す)


 ぼくによる、


(すべてはあやふやだ)


 ぼくのための、


(そしてきみはそのことに永遠に気づかない)


 世界を。


(だが希望はある。

  


           ――その輝きが、刹那のまやかしであるとしても)












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