ぼく-2486による記述


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 この事実に気付けたのは、ほとんど奇跡だったように思う。

 きっかけは、ある労働者の暴走だった。大した騒ぎではなかった。作業にあたっていたひとりが突如叫び出し、面具マスクを脱ぎ捨てて逃げ出そうとしたのだ。ぼくがわざわざ指示を出すまでもなく、それは班長と崩我族によってただちに鎮圧された。作業への影響は軽微。だがぼくの気分は落ち込んでいた。暴走した労働者の顔……それはなんと「ぼく」だったからだ。自分自身が処理される様子を見るのは誰だっていやだ。そうだろう?

 だが問題はここからだった。

 一連の処理を終えたぼくは、その内容を念のため日誌に記録しようかどうかを考え――ふと、ひとつの疑問を抱いた。

「以前、日誌を書いたのはいつだったっけ?」

 なんてことのない問題のはずだった。問うた自分自身、そう思っていた。おそらく暴動が起こらなければ考えもしなかったはずだし、すぐにそんなこと忘れて、いつも通り懐かしい想い出の世界に戻ってもよい気がした。

 だがぼくはたまたま、この疑問を手放さなかった。

 そして気づいてしまったのだ。

 記憶が思い出せないことに。

 

 昨日食べた飯はなんだった? 起きた時刻は? 作業区分はいくつで、どんなことをやった? 毎晩楽しみにしている就寝前の娯楽――卡通アニメでも連續劇ドラマでも電玩ゲームでもなんでもいい――その内容は?

 すべて空っぽだ。

 直近の記憶は今朝から始まっている。この工場に来る前の記憶もはっきりと思い出せる。つまり正確に云えば、工場に来たその日から今朝までの記憶が、ごっそり抜け落ちていた。

 ……ぼくが管理者でよかったと思う。もしぼくが労働者だったなら、この大きすぎる感情の揺らぎを感知した面具マスクが警告を発し、ぼくはよくて注意、悪くて別室行き、最悪の場合は電流に焼き殺されてしまったことだろう。……さっき反乱を起こした労働者ぼくのように。幸いにも、区長たるぼくはそうした単純な懲罰を免れている。当然だ。管理者の立場である人間を、そうやすやすと処分するわけにはいかない。しかしだからといって安心もできない。面具(マスク)はぼくたちの精神状態を常に把握している。いつまでも平常時を大きく逸脱した状態でいれば、やはりなんらかの措置がとられるに違いなかった。ぼくにとってとても不都合な措置が。

 瞑想方法メソッドを行う。ゆっくりと息を吸い、少しだけ止めて、そして吐く。それから愛しい彼女の名を呟く。子晴ツーチン。その言葉は水のようにからだへ染みわたり、心臓の律動がすみやかに平静を取り戻す。ひとまずはこれで大丈夫だろう。この事については、きわめて冷静な心で考える必要があった。

 この不自然な記憶の欠落が意味するものはなにか?

 単純に考えて、ぼくはどうやら記憶を消されているとみるべきだ。

 それがきょうだけのことなのか、あるいは毎日のように行われていることなのかは分からない。だがなんとなく、後者であるような予感がした。もし前者であれば、ぼくは次に記憶が消されるのがいつなのか常に怯えながら働くことになる。そんな状態でどうしてまともに働くことができるだろう?

 ぼくはどうやら毎日記憶を消されている……。

 そこから導かれる推論はふたつ。

 ひとつ。ぼくは当初の契約期間を大幅に超えて、なおここで働いているのかもしれない。

 契約期間は四十年、自分を五人にやすから、実質の労働期間は八年。ぼくの記憶ではそういうことになっているはずだった。だがそんなもの、正当に履行されている保証がどこにある? ぼくの記憶には昨日も明日もない、常にきょうだけなのだ! たとえきょうが十年目の労働だったとしても、ぼくにはそれを知る術がない。

 そして、もうひとつ。


――ぼくもまた、本人オリジナルではないのかもしれない。


 いままでこう思っていた。自分のほかにあと四人、ぼくの仿製品コピー(つまり複體)がいる。かれらは膠囊艙床カプセルベッド面具マスクの通信を通じてぼくと同期し、ぼくとまったく同じ動きを取るように設定されているが、彼ら自身は疑似的な人格と記憶により、それが自発的な意思によるものだと辻褄を合わせている。つまり真の本人オリジナルたるぼくを除いて、全員が全員、自分こそがこの生活の主人だと思っているのだ……と。


 なぜいままで思い至らなかったのだろう?


 ぼく自身もまた、疑似人格を与えられた複製人クローンなのではないかという可能性に……。

 いや。

 もしかしたらぼくは、過去にも何度か、同じ気づきをしたことがあるのかもしれないぞ。そして誰にも云えないまま、なにも出来ないまま、なすすべなく再び膠囊艙床カプセルベッドで眠りに落ち……そして忘れたのかもしれない。自分が仿製品コピーではないかと疑問を抱いたことすら!

 もちろんすべては憶測だった。というより、憶測であってほしかった。ぼくはやはり本物のぼくで、記憶を消されているというのはただの妄想で、すべては単なるぼくのど忘れのせいだったと、そういうことにしたかった。だって、工場に来る前の記憶は鮮明すぎるのだ。荒れ果てた砂漠の村で虐げられながら育ったこと、子晴ツーチンという名の唯一ぼくに構ってくれた幼馴染のこと、ぼくを援助してくれた叔父にこの仕事を勧められたこと、長い労働を終えたあとに得られる報酬のこと。なにもかもがはっきりと思い出せる。そうだ。やはりぼくは工場の記憶だけを消された本人オリジナルにちがいない……。

 だがやはりどう頑張っても、工場での記憶は戻らない。思い出す気配もない。その事実が厳然と横たわっている以上、希望的観測も、悲観的観測も、なんの保証も持たない陽炎にすぎない。確認のしようがないのだ。

 なんてひどい話だ!

 ぼくの労働契約は四十年、やした五人で分担しているから実際のところは八年で、それもきょうで半分を折り返しているはずだった。その先には栄光が――愛しい婚約者とともに、使い切れぬほどの年金を貰い、政府管轄の公共住宅での悠々自適の生活――が、待っているはずだったのだ。貧しく、誰からも虐げられたぼく。あの日叔父が自覚させた、烈しい欲望と現状への不満。そして彼がさしだした、一筋の光明。こだが、それすらもまた幻だったのだ! ぼくはまた騙されていたのだ! 偽りの希望を信じたまま、これこそが底辺から抜け出す唯一の道と思い込んだまま、自分でも分からないほどの長い間、盲目的に働かされ続けていたのだ!

 事態の元凶はあの膠囊艙床カプセルベッドのように思われた。ぼくたちは日々あそこで眠り、あそこで目覚める。ぼくの記憶を改ざんしているとすれば、あの装置以外にない。

 ただ、だからといって、部屋に戻らないわけにもいかなかった。管理者とはいえ、明らかに不自然な行動をすればとればたちまち懲罰対象だ。面具マスクを取れば電流は免れるだろうが、その時点でぼくは反乱分子、規則通りの対応が行われるとすれば、ぼくは崩我族や班長らによる追跡を受け、処理されてしまうことだろう。

 記録が必要だった。

 ぼくが記憶を失っても、記憶を消された事実を次のぼくに引き継ぐことができる、そんな記録が。

 そこでぼくは、はたと気づく。


 


 すべての數據データが電子化されているいま、この日誌はすでに形骸化した道具で、つまり単なる自己満足のための備忘録でしかない(という知識はあった)。これを使っていま気づいた事実を残しておけばいいのだ。そうすれば、記憶がなくても明日のぼくに情報を引き継ぐことができる。そうして少しずつ知識を溜め込んでゆけば、いつかこの日々を脱する方法を思いつくかもしれない……。 

 だがひとつ問題がある。この日誌の存在を、どうやって明日のぼくに伝えよう?

 きょうの奇跡がまた起きて、そして同様に日誌の利用を思いつく。その確率はどのくらいだろうか。その間、これが処分されずにいうという可能性は?

 考えるまでもなく、とても低い。なにか手段が必要だ。気づく可能性を少しでも高める手段が。たとえばどこかに文章を書いて残したりとか……自分の體(からだ)に書く? いや、淋浴シャワーで落ちてしまうだろうし、万が一見咎められたりすれば問題になる……。

 そうだ! 

 膠囊艙床カプセルベッドの小物入れに筆記本ノートがあるじゃないか!

 あれを一枚やぶり、枕元にこんな書き置きを残しておこう。



 うん。いいぞ。膠囊艙床カプセルベッドロックが解除されれば、ぼくは労働の準備のため動き出さなくてはならない。膠囊艙床カプセルベッドでの同期がもたらす抗いようのない衝動によって。そのわずかな間で必要な情報を伝えるには、このくらいの長さが限界のはずだ。

 明日のぼくは事実に気付くだろうか?

 ……そう信じたい。

 記憶がなくても、ぼくはぼくだ。

 その思考の道筋は、自身が一番よく把握している。

 きっと明日の彼は、紙片の意味に気付き、この日誌に気付き……そして受け継いでくれるはずだ。

 ぼくの意思を。

 ぼくの記憶を。

 いまやぼくの目的は変わった。

 いつ来るとも知れぬ労働の終わりを信じて働き続けるのはもう終わりだ。

 ここを脱け出してみせる。自分の力で、今度こそつかみ取るのだ。


 真実と、自由とを!

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