電梯エレベータが到着するまでの長い長い時間、ぼくたちは一言も喋らず、ただ肩を寄せ合って、じっとしていた。

 この先にいったい何があるのか。その予想はついている。きっとほかのぼくたちも同じだろう。だが誰ひとりとして、それを口に出すものはいなかった。なぜだろう。自分の目でそれを見るまでは、言葉にして確かめたくないような、そんな気がしたのだ。

 だしぬけに響くベルの音とともに、からだを押さえていた重さが消える。開いた扉の先、差し込んだ眩しい光に、ぼくたちは揃って目を細める。

 踏み出した足が沈み込み、足をとられてよろめいた。深い絨毯がいちめんに敷き詰められている。両脇に天井まで届く窓が並んだ奥行きの広い部屋、窓にはことごとく百頁窗ブラインドが降りていて外の様子は伺えない。天井の水晶吊燈シャンデリアが煌々と輝き、ぼくたちの対面、はるか向こうにあるのは艶めいた桃花心木マホガニーの机。そこには仕立ての良い西装スーツに身を包み、椅子に腰かけてこちらを見る彼の姿があった――かつてのぼくたちと同じく、その顔に面具マスクを被ったままで。

 彼はなにも云わなかった。けれど、ぼくたちはみな硬い表情のまま次の一歩を踏み出せずにいる。その理由は分かっていた。きっと皆同じなのだろうと、ぼくはそんなことを思う。

「ようやく、出会えたな」

 とうとう口火を切ったのは、副支配人のぼくだった。その一言で意を決したように、ぼくたちは揃って歩き出す。彼はそれを見ても微動だにせず、椅子に深く腰掛け、その顔をじっとこちらに向けていた。

「この部屋の可能性に気付いたのは、すべてが終わったあとだ」

 どこかのぼくが云った。

「この工場で働く労働者の数は崩我族をのぞいて四千五百五十人。五人の副支配人がいて、それぞれが九人の区長を管理し、それぞれの区長は五つの作業区を管理する。一つの作業区に割り当てられるのは二十人――班長ひとりと、労働者十九人。その全員が、五人ごとに同じ部屋で暮らしている。だが、この工場にはもうひとりいるはずだな。労働者、班長、区長、そして副支配人……その全員の上に立つ、『工場』の最高責任者が。その人物は、どの部屋にも割り当てられていない。専用の部屋で寝起きし、常に同じ『ぼく』がその役割を担っている。その居場所は誰も知らない。工場の図面にも書かれていない――五人の副支配人が、同時に顔を合わせでもしない限り」

 ぼくたちは彼の前に立っていた。面具マスクをつけていても、直観的に分かる。ぼくと同じ体格、同じ髪型。同じ輪郭。この工場で唯一、誰とも入れ替わることのない、ただひとりの『ぼく』。

 副支配人のぼくが云う。

「初めまして、支配人。そして――お前が、本人オリジナルだ」




 誰も、なにも喋らなかった。

 ぼくたちと支配人は、ともにじっと立ち尽くして、互いの様子を伺っていた。彼はなにを考えているんだろう? ぼくと彼は、同じ人間。だがその立場には大きな開きがある。もしぼくが彼の立場だったら、いったいどうするだろうか――

 静寂を破ったのは、無機質な機械音声だった。

『製造拠点プラント2500‐261/T/S/ASIAの閾値超過を確認。フェーズ001:発火へと移行します』

 それは大音量で、天井の揚聲器スピーカーから響く。うろたえるぼくたちをよそに、支配人の彼だけが、静かにそれを聞いていた。

『自壊程式プログラム作動』

 その一言と同時に彼は立ち上がり、自らの面具マスクを外す。

 それは確かにぼくの顔だった。だが……明らかに正気じゃない。眼球が左右ばらばらに動き回り、半開きの口からは涎が垂れ落ちている。

 そして彼は、自分の頬を両手で挟み込むように持ち――

「止めろ!」

 制止も空しく、自分の首を力づくで一回転させた。

 ごりゅっ。

 耳を塞ぎたくなる音とともに、激しく痙攣しながら倒れるからだ

 駆け寄ったぼくらが再び見下ろしたとき、彼はもう動かなかった。壊れた人形のような、奇妙な姿勢のまま。

 呆けたようになっているぼくたちを、激しい金属質の騒音が襲った。身構えたが、だがそれは、窓の百頁窗ブラインドが上がる音だった。外から差す白い光が、水晶吊燈シャンデリアの灯りを裂いて室内へと流れ込んでゆく。

 ぼくたちの視線もまた、自然その向こうへと吸い寄せられた。

 窓の向こうへ――

「なんだよ、これ」

 なにもなかった。

 期待していた空も、土も、森も、海も、砂漠も、見えなかった。ただ広い空間だけが、どこまでも広がっていた。空は白一色で塗りつぶされ、凹凸のない地面は、『工場』の部屋とまったく同じ、白い磚地タイル。それが延々と地平線も向こうまで続き、空と交わっている。地面のところどころには、箱のような建物があった。直方体をした鼠色の箱。それは等間隔に並んでいた。その大きさも、どの程度離れているのかも、目算では推し量れない。景色が単調過ぎて、比べるための基準がないのだ。

「どういうことだよ……」

 押し出されたぼくの声は、かすかに震えている。

「おかしいだろ!」

 別のぼくが叫んだ。

「なんなんだ! なんなんだよここは! もう終わったんじゃねえのかよ! こんな狂った場所を脱け出せば、外には現実が待っているんじゃなかったのかよ!」

 誰も止めなかった。むしろぼくも彼と同じように叫びたかった。

 だってそうだろう? ぼくたちはみんな、ここを出たらそこには本物の世界があるはずだと、そう思っていたのだ。緑豊かな山、青い空。いやもうこの際、煤煙立ち込める工場地帯でもいい。とにかく、ここから出て、外の空気を少しでも吸いさえできれば、たとえ処分されてもかまわないと、そう覚悟を決めていたのだ。

 それがこんな形で裏切られるなんて……!

 ひとり(あるいはぼく)は涙を流した。

 ひとり(あるいはぼく)はただ放心したまま、立ち尽くしていた。

 ひとり(あるいはぼく)は狂ったように笑った。

 ひとり(あるいはぼく)は怒りに任せ、机の小物を全て床に落とした。

 そして――

「待ってくれ、みんな」

 と、ぼくは云った。

「あれを見てくれ」

 白い世界に無数に並ぶ灰色の箱。どれも同じ見えるそのひとつだけ、周りのものと違っていた。箱の周りから、小さな点が湧き出している。

「あれは……」

「たぶん、労働者だ」

 労働者だって? と、ぼくたちがざわめく。

「あの箱みたいに見える建物、あれはきっとここと同じ、工場の地上部分なんだと思う。ひとつだけじゃなかったんだ。そして多分、ぼくたちの反乱はもうばれてる」

――製造拠点プラント2500‐261/T/S/ASIAの閾値超過を確認。

「このあとぼくたちがどうなるかは分からない。けど普通に考えて、鎮圧しようとするはずだ」

「じゃあ、あいつらがぼくたちの死神、ってわけか」

 誰かが憎々しげな口調で云う。

「うん。だけどみんな、おとなしく処分されるつもりはないだろう? このまま工場にいるのは危険だ。四方を囲まれたら為す術がない」

「ここを棄てて外に逃げる?」

「違う。逃げるんじゃなく、戦うんだ」

「無茶だ」

「外を見てみろよ。敵が多すぎる」

 口々に上がる反対の声。だがぼくは知っている。彼らだってもう気付いているはずだ。

「だけど、戦闘機や兵器が出てきてるわけじゃない。この工場とほかの工場が同じなら、火器もなければ兵器もないはず。戦うのはきっと、ぼくらと同じような境遇の労働者たちだ。そしてぼくたちと同じ境遇の彼らなら、もしかしたら説得できるかもしれない」

「……少なくとも、まったく同じ顔をした人間が迫ってきたら驚くだろうな」

「そうだ。ここでの反乱のとき、ぼくたちはどうなった? 戦った人数より、真実を知って協力したり、精神分數メンタルスコアを落として電撃に斃れた人数のほうがずっと多かった。ぼくがぼくたちであるだけで、それは十分な武器になる――」

 どちらにせよ絶望的な戦いには変わりない。だけど、ここがまだ外でないのなら。この先に現実が待っているのなら。それを見ないまま、座して死ぬわけにはいかない。

「……彼の云うことも、もっともだ」

 副支配人のぼくが云った。

「確かにここは、地上じゃない……悪夢はまだ終わってない。だがそれなら先に進むまでだ。ぼくたちがひとり残らず死んでしまうまで」

 ぼくたちはめいめいに頷く。

 こんなところで諦めてたまるか。

 進むのだ。


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