ぼく-3002による記述


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 いまになっても、まだなにがなにやら、よくわかっていない。

 すべてが夢なんじゃないか。そんなことすらを思う。

 朝起きた枕元に奇妙な紙片があったことも、そこに書かれていた通り昨日の記憶が思い出せなかったことも、突然連絡があった副支配人から面具マスクを脱ぎ捨てろと云われたことも、暴動に参加しろと命じられたことも、他の作業所でもかつてない規模の反乱がおこっていたことも、そしてこの工場にいる労働者たち全員がぼくであったことも……班長や区長、はては副支配人ですら!

 反乱は成功に終わった。簡単すぎて、拍子抜けするくらいだ。もとより事実に気付いていたものは面具マスクを脱ぎ捨てて暴動に加勢し、そうではないものは押し寄せる「ぼく」の群れに正気を失って自ら面具マスクの電撃に倒れ、面と向かって戦うことはほとんどなかった。唯一の例外は崩我族、彼らは容赦なく襲い掛かってきたが、しかし千人規模に膨れ上がった「ぼく」たちの群れには多勢に無勢で、あっさりと制圧されてしまった。その面具マスクを取るのには、とりわけ大きな勇気が必要だったと云っておこう。……思ったとおり、崩我族ですら、みな「ぼく」だった。

 大勢が決したあと、ぼくは四人の「ぼく」と共に、居住区の廊下を歩いていた……かれこれもう、一時間になる。くねくねと曲がり絡み合う、騙し絵のような廊下。普段の出勤では通らない道を、ぼくらは時々立ち止まって正しい道筋を確かめながら進む。本当なら、きょうの夕方もこの廊下を一糸乱れぬ足並みで帰っていたはずなのだ。同室で暮らす五人の「ぼく」たちと共に。

 だが、いま集った五人の足並みはばらばらだった。「この道でいいのか?」と話し合うこともある。同期の呪縛は解けていた。それが面具マスク膠囊艙床カプセルベッドの操作によるものだったのか、あるいは自分の思い込みがそうさせていたのか、ぼくにはわからない。とにかくいま、ぼくたちは互いに動きをまねあう仿製品コピーではなく、よく似てはいるが確かに独立した存在としてここにいた。その光景は確かに奇妙ではあったが……いっぽうで不思議に安堵している自分もいた。いままでの生活――それは植え付けられた前提知識でしかないが――とは、同じ動きをする「ぼく」と向き合い、食事をするにも息を殺し、面具マスク以外の他人の声などめったに聞こえない、ただ淡々とした作業を黙々とこなすだけの日々だったから。

 ぼくたちはだから、必要に駆られてというより、そこにぼくと違う「ぼく」がいるということを確かめるためだけに、言葉を交わしていたのだと思う。意見の衝突は基本的になかった。完全に同じではないけれど、ぼくたちの思考は似通っていた。そこはさすが、自分どうしというところだった。

 先頭のぼくが云った。

「ここだ。間違いない」

 人ひとりぶんが通れる狭い廊下のどん詰まり。一般的な自動鎖オートロックの扉ではなく、木製の開き戸がぽつんとある。先頭のぼくがそれを開くと、乾いた風がぼくたちの間を通り過ぎる。

 開けた空間。

 照明はない。だから、薄暗さに目が慣れるまで、少し時間が要った。その間も風は強さを増してぼくたちのからだを舐めている。

ようやく順応した瞳に映ったのは、四方を囲む剥き出しの配管、足元にある鼠色の混凝土コンクリート、そして……目の前にある巨大な金属の円筒だった。鈍い光沢を放つ銀色の表面、その正面には、小さな三角形の按鈕ボタンがついている。先端が指す方向は、上。

 ぼくたちの視線もまた、自然と上へと導かれる。円筒はどこまでも……真上を向いてもまだ続き、その先端は、点となって消失していた。

「本当に」

 誰かが呟く。その声は震えていた。あるいはそれは、自分の声だったかもしれない。

「本当に……あった」

 唾を飲み込む。

 ここは、電梯廳エレベータホールだ。

『工場』の中心、そのごく細い一点を貫く、誰も知らない場所。五人の副支配人たちが管理していたそれぞれの図面、そのすべてを突き合わせたとき、どことも一致しない間隙にはじめて浮かび上がる、隠された施設――

 ひとりのぼくが、歩を進める。意を決したように。ここまで先陣を切って進んでいた彼こそ、きょうの暴動を勝利に導いた立役者で、『工場』の副支配人のひとりだった。

「いよいよ大詰めだな」

 彼は振り返って、ぼくたち五人の顔を見る。ぼくもまた、彼の顔を見返す。……きっとその表情は、彼と同じなのだろうと思った。八割の希望と、二割の不安。

「この先に……ぼくたちが求めた自由と……そして真実がある。真実のほうは、きっと残酷だ。このまま知らないままでいたいって気持ちも、正直いえば、かなりある」

 真実を知ったぼくたちが、はっきりと思い知らされたこと。

 それは、ぼくたちは全員、複製人クローンだということだ……この工場で働かされるためだけの。それはもはや疑いようもない事実だった。

「そして多分、闘いは終わりじゃない。これが始まりなんだと思う」

 もしぼくらが『工場』で作業するためだけの存在なのだとしたら、きっとここを出たぼくらに自由はない。だってぼくらは機械なのだ。ただ労働するために作られた歯車。騙されたと訴えたところで馬の耳に念仏、法だってぼくらを守らないだろう。

 つまりここを出たぼくたちの敵は、世界全部。絶望的な闘いだ。

 だからこそ、彼は問う。

「もしかしたら、ここを出ないほうが幸せかもしれない。このまま膠囊艙床カプセルベッドに戻って眠りにつけば、明日から全部元通りだ。いつかここを出られるという希望と、愛する誰かの姿を胸に、死ぬまで働き続ける……。たとえそれが偽りの記憶だとしても、外に出て無残に殺されるよりはましかもしれない。みんなの総意は、すでに聞いた。だけど、もう一度だけ。もう一度だけ確認させてくれ。誰かひとりでも、ここに残りたいやつはいるか?」

「あのさあ」

 と、間髪入れずに云ったのは、隣のぼくだ。呆れたように笑っている。

「そんなの、わざわざ聞かなくても分かるだろ。答えなんてさ」

 ほかのぼくたちも、同じ顔をしていた。きっとぼくも。

「ぼくたちみんな、ぼくたち自身だ。同じ条件、同じ前提を与えられたら、みんなが同じ思考を返す。そう創られているんだもの。だから」

 きみがいま思っていることが、ぼくたちの答えだ。

「……そうか」

 と、彼は云う。その顔もまた、笑っている。

 彼の手が、電梯エレベータ按鈕ボタンに触れた。

ゆっくりと、音もなく、扉が開く。


「なら行こう。地上へ」

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