壹章
ぼく-1による記述
①
〈〈
五人のぼくがこの部屋にいる。数にはぼく自身も含まれているから、つまりぼくを除いてほかに四人、余計なぼくがいるということになる。
※
ぼくは十八から
今朝も労働が始まる。
すべてまったくいつも通りに。
それはまず鳥のさえずりと葉擦れの音だった。目覚めた狭い
強情に布団にしがみつくのは自由だ。だがすると次に訪れるのは電流による強制覚醒
すぐ起き上がってもいけない。ぼくは
蓋が滑って視界から消えるとその先にあるのは白一色の潔癖な天井、身を起こせば部屋には均一な光が満ちていて、どこからか吹く優しい風が
快適で完璧な朝だった。
すべてまったくいつも通りに。
思い切り伸びをする。
「「「「うぅ……っ」」」」
口から洩れたうめき声が、幾重にも増幅されて部屋に反響する。
つまり「ぼく」たちはきょうもつつがなく目覚めているわけだ。
右を向く。そこにはふたりの「ぼく」がいる。彼らは
左を向く。鏡のように同じ光景がある。同じ
背後から刺さるちりちりとした視線、それはたぶん右側の「ぼく」たちふたりのものだ。彼らは
気が狂いそうになる、一瞬だけ。だけどそれは本当に一瞬のことで、過大な
どこからか大音量で部屋に響く女性の声。
『おはようございます。社員のみなさま、昨日はよく眠れましたか。本日は紀元三○○年七月七日、
七夕か。
思ったが、声には出さなかった。必要がないからだ。ため息さえ五倍になるこの部屋で、独り言は
声を出さずに苦笑する。
なにを想うっていうんだ? たかが
起床時間は午前六時すこし前、始業は七時四十五分だからのんびりしている暇はない。ぼくは
そこは人ひとり分の幅しかない薄暗い通路で、出口が遠く向こうから白い方形の光を投げかけている。ぼくたちは壁に五つ並んで開いた穴に服を脱いで投げ入れ、裸になって通路をゆっくりと歩く。背後の扉がひとりでに閉まると壁から熱い蒸気が吹き付けられる。それはなにかの薬液を含んでいて、肌の表面が無数の針で撫でられたようにちりちりと痒くなる。
ぼくの前には等間隔を保って歩く「ぼく」の尻があった。洗浄霧の薄膜に浮かぶそれの中ほどに小さな虫刺されを見つけ、思わず自分の尻に手をやると当然のように虫に刺されている。こういうところまで寸分違わず複製されている意味はあるのか疑問に思いつつも、とにかく前のやつの尻を見なければ気付きもしなかったはずのその小さな腫れをぼくは爪を立ててがりがりと掻く。掻きはじめてから思い出したように痒みがやってきて、ならばいっそ最初から気付かなければよかったのにとぼくは思う。もちろん目の前の「ぼく」も同時に同じことをしていて、眼前の尻にいくつもの赤い爪痕が描かれていく。
蒸気を抜け、金網になった床を歩くと温風が吹き出し、ぼくの體から水滴を乱暴に拭い去る。その先にある
六時十二分、定刻より三分早い朝食。食堂の
音を立てないように食べるのは至難のわざだ。特にこういう、熱くて液体状のものを食べる時は。ぼくは粥を一口食べるのにもいちいち米粒を箸で拾うような集中を要するのと、両隣の「ぼく」が
六時四十分。一斉に
六時四十二分。洗面所で歯磨きと
六時五十三分。再び
そして七時。ぼくと「ぼく」たちは完全装備で部屋を出た。
すべてまったくいつも通りに。
ここから工場の入り口までは徒歩でおよそ十五分、長い廊下はくねくねと曲がり階段になり坂になりあるいは騙し絵のように複雑に絡み合い、毎日歩いているはずなのにちっとも道を覚えられない。けれど足だけは不思議に行先を知っていて、前を歩くぼくにならわずとも迷いなくぼくを運んでいく。まるで
七時十六分。工場の入り口に到着。
それは五つの
中は棺桶のように狭かった。扉が閉まるとすみやかに訪れる暗闇と鈍い機械の唸り、そしてわずかな浮遊感。
この時間があまり好きではなかった。
誰もいない、ぼくだけの時間。
だから気晴らしに鼻歌を歌う。
機械の唸りにすぐ呑まれて消える程度の、か細い旋律。それは故郷の民謡だ。誰かに教えてもらったわけじゃない。母が口ずさんでいたのを聞いて覚えたのだった。ぼくが歌うと母はうすく笑って、「むかしはみんな歌ってたのよ」と云った。母以外が歌っているところを聞いたことはなかった。昔は祭りで歌っていたけれど、それもずいぶん前になくなったのだとどこかで知った。
歌は山村の有り様を伝えていた。春の雨のあと、朝露に濡れる竹。その根元を掘り、
甲高い
扉が開くと白い光が
いつもの広間だった。厳密に云えばたどり着く作業区は毎日変わっているはずだが、見える光景はまるきり同じなので区別はつかなかった。ぼくの部屋がゆうに五十は入るだろう空間、痛いほどに白かった世界は明度調整で淀んだ紅茶色に染まり、そこには数えきれないほどの労働者たちがうごめいていた。彼らはみなぼくと同じように
すべてまったくいつも通りに。
ぼくもまた部屋の奥へと進む。履いている安全靴は重いので、自然と脚を引きずるようになる。部屋では「ぼく」たちに真似されているぼくが、ここではひしめくその他大勢たちと同じ動きをしている。なんという皮肉! だがこの動き方が一番楽なのだ。
「……ア。……ぁー……」
隣から声がした。くぐもったか細い声。聞き逃しそうなうめきを、ぼくは
声を出しているのは、ぼくの右隣りを歩いている奴だった。引きずる足はことさら重く、上半身は頼りなくふらふら左右に揺れている。
「ア……ドゥー……、ェ……」
頭は歩みに合わせて上下しまるで綿の詰まった人形のようで、表情は
『
目を開けると、男はぼくのだいぶ前を歩いていた。左右に揺れる上体、ぐらぐらと不安定な頭。広場や出勤途中の廊下で、彼のような労働者に運悪く出くわすことがよくあった。自我を見失って人形となった者たち、あるいはその真似をしている複體。いずれにせよ彼(ら)は『崩我族』と呼ばれていて、不吉の象徴として忌み嫌われていた。彼の後ろ姿を見ていると再び心拍数が上がりそうなので、目線を下に落として歩くことにする。
大丈夫、大丈夫だ。
あれはこの制度が始まって初期のころに起きた事故例にすぎない。欲にかられて、自分を殖やしすぎたのだ。これを境に、複體による短縮労働は上限五人までという規則ができたのだし、いまでは瞑想訓練をはじめとした
問題はない。ちゃんと自己管理さえしていれば。
『
声を無視してぼくは歩く。視線はずっと床に注ぎ、
こんなところで終わるわけにはいかない、やっと半分、ようやく半分のところまで来たのだ、この苦行さえ終わればぼくにはその後死ぬまでの年金が約束され、広々とした公営住宅に住む権利が与えられるのだ、陽光が燦燦と降り注ぐ高原、あるいは青い海と白い砂浜、
ぼくは名前を呟く。
それは故郷の幼馴染。ぼくの心にいつもいる女性の名。
彼女とはここに来る前に将来を誓った。書類も立会人も用意した正式なものだ。立会人はぼくの叔父で、彼こそがこの仕事をぼくに紹介してくれた恩人だった。
彼女はいまも待っているだろうか? それはないだろう。ぼくは愛や恋が永遠だと思うほど馬鹿ではない。八年という歳月はひとりで待つには長すぎる。きっと別の男を見つけて暮らしているに違いなかった。構わない。だって労働期間さえ終われば、契約は厳密に履行されるから。つまり、彼女はぼくのものになるのだ、本人の意思なんて関係なく。婚姻関係の事前占有、それもまた短縮労働契約者の特権だった。
理不尽だと思うか? だがぼくだって相応の代償を払っているのだ。まずこの労働は誰にでもできるものじゃない。
検査を通過したあとには、長年にわたる工場労働が待っている。複製された「ぼく」たちとの生活、寮と職場だけを往復する日々、無限に続く単調労働……。崩我族までいかずとも、脱走をはかったり、心身に異常をきたしたせいで契約を打ち切られる人間は多い。労働を無事に終えられる人間が全体の何割なのかは公表されない(あるいは百%ということになっているのだろう)が、実際の数値をとれば極端に低くなるに違いなかった。
その
いや。
彼女を幸せにするためだ。
単なる
結局のところぼくは信じているのだ――こんなひねくれた想像をしながらなお――彼女がいまでも、ぼくを待ってくれていると。
いずれにせよ、契約を破ったものには厳罰が待っている。
重い靴を引きずり、床を見つめながらぼくは彼女の名前を何度もつぶやいた。
視界に誰かの爪先が映った。顔を上げる。そこには
班長だ。
彼は近づいてぼくを眺めた。深呼吸して気を付けをする。
班長たちはずらっと横一列に並び、前から歩いてくる労働者の群れを手際よく仕分けていく。労働者たちは堰き止められた水が左右に分かれるようにぞろぞろと道を変える。ぼくもまたその流れに沿って歩いた。向かいから来る労働者とすれ違いながら。班長たちの背後の床には、
γー10作業区にはすでに多くの人がいた。枠線の前にはまた警棒を持った班長が立っており、ぼくは再び彼と
『おはようございます!』
同時に始まる
朝礼が始まったのだ。
『本日は紀元三○○年七月七日、
耳から流し込まれる、朝と同じ女性の声。
『本日の作業区分γー10は人形製造
音楽がひときわ盛り上がりを見せ、そして終わる。それからぼくたちは社訓の斉唱をする。それは「きょうの労働、栄光の未来」という理念もなにもないたったそれだけの一節で、ぼくらはそれを耳元の音声に従って二十回も繰り返す、繰り返すうちに声は大きくなる、きょうの労働、栄光の未来、目の前にぶら下げられた人参、遠すぎる目標、空を漂う夢の雲、きょうの労働、栄光の未来、使い切れないほどの金、豪華な部屋、ぼくをうっとりと眺める婚約者、きょうの労働、栄光の未来、叶うのではない、叶えるのだ、きょうの労働、栄光の未来、やっと半分、ついに半分、ようやくぼくはここまで来た、きょうの労働、栄光の未来、どうしようもない過去、覆らない格差、四年先の報酬は唯一の希望、そうだこの日々は無限ではない、約束された幸せをつかんでみせる、なにを犠牲にしても、どんなことがあろうとも、きょうの労働、栄光の未来、きょうの労働、栄光の未来――
朝礼が終わるころ、ぼくの喉は傷みきっている。構いやしない、残り一日どうせ声を出すことなんてほとんどない。口元にある
警告はないが、念のため瞑想
すべてまったくいつも通りに。
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