壹章

ぼく-1による記述


〈〈

 

 五人のぼくがこの部屋にいる。数にはぼく自身も含まれているから、つまりぼくを除いてほかに四人、余計なぼくがいるということになる。



 ぼくは十八から人形ヒトガタ工場で働いていて契約期間は四十年、五人で分担しているから実際のところは八年で、それもきょうで中間地点を折り返した。昨日の仕事後、面具マスク姿の班長がやってきて、「きみは実によくやっている、ここまでたない者は多いのだ、引き続きこの調子で続けなさい」と噪音ノイズだらけの人工音声で褒めてくれたけれど、それを聞いたぼくの心には特になんの感慨も湧いてこない、だってそうだろう、翌日もその翌日もそのまた翌日も続くのっぺりと継ぎ目のない開け放した蛇口みたいに相似形な日々、そのいちいちの節目に心を動かす必要性がどこにある? 大事なこと、それは一四六○日後に訪れる契約終了の瞬間、つまりそこに至るまでの一日一日はただの無用な石くれで、崩れないよう気を払って積み上げること以外になんの意味もない。石積みの塔の先が天に触れる瞬間こそがこの日々の本質であり希望、ぼくはそれをいつでも忘れずにいる、日常がどれだけぼくを埋め立てようと。


 今朝も労働が始まる。

 すべてまったくいつも通りに。


 それはまず鳥のさえずりと葉擦れの音だった。目覚めた狭い膠囊艙床カプセルベッドのなか警示音アラームはすでに最高潮、人間工学に基づき壓力ストレスなく人を起床させるという森のさざめきも爆音となれば話は別で、ぼくは必死に枕元の按鈕ボタンを探してそれを押す。警示音アラームが止まり、照明がゆっくりと点灯、次いで強い柑橘系の香りがあたりに立ち籠めて、つまり二度寝は封じられていた。

 強情に布団にしがみつくのは自由だ。だがすると次に訪れるのは電流による強制覚醒フェイズ、だから起きておくほうが得策だということをぼくは知っている。


 すぐ起き上がってもいけない。ぼくは警示音アラームを止めたその姿勢のまま、手を横滑りさせて隣の赤い按鈕ボタンを押す。短い確認音のあと、寝床全体が低く唸りはじめる。ぼくは仰向けで気を付けの姿勢になり、じっと息をひそめてそれを聞く。金属質の様々な音が空間内を飛び交ったり、こすった下敷きを近づけたような感覚が遠ざかったり近づいたりする。目に見えない感應器センサが犬のようにからだを嗅ぎまわっているのだ。異常を炙り出す試みに失敗すると出し抜けに明るい効果音と共に天井にあらわれる「OK」の文字、だがそれはすぐに「數據データ送信中…」に置き換わり、進捗を現す後ろの点が数えて九個目に達すると再び「OK」に変わって、それからようやく、寝床のロックが解除された。乾いた音を立てて浮いた蓋、隙間からひやりとした空気が流れ込み、残っていたぼくの眠気を完全に吹き飛ばす。

 蓋が滑って視界から消えるとその先にあるのは白一色の潔癖な天井、身を起こせば部屋には均一な光が満ちていて、どこからか吹く優しい風がからだを撫で、心地よい音楽が耳に忍び入る。軽快な速度テンポの、鼻にかかったような女の声。


 快適で完璧な朝だった。

 すべてまったくいつも通りに。


 思い切り伸びをする。

「「「「うぅ……っ」」」」

 口から洩れたうめき声が、幾重にも増幅されて部屋に反響する。

 つまり「ぼく」たちはきょうもつつがなく目覚めているわけだ。

 右を向く。そこにはふたりの「ぼく」がいる。彼らは膠囊艙床カプセルベッドから身を起こしている。ぼくのと同じ、まゆみたいな形をしたやつだ。手前にひとつ、奥にひとつ、等間隔に並んでいて、それぞれにひとりの「ぼく」が収まっている。彼らは着ている服も体格もぼくとまったく同じ、たぶん顔もそっくりなんだろうと思う。けれどもそれを確かめることはできないのだ。なぜなら彼らは右を、つまりぼくと同じ方向を向いていて、視界にあるのは彼らの後頭部だけだから。

 左を向く。鏡のように同じ光景がある。同じ膠囊艙床カプセルベッドが手前にひとつ、奥にひとつ。そのそれぞれから「ぼく」が身を起こしており、ただ今度はふたりとも左を向いていて、やはりぼくは彼らの後頭部しか見ることができない。

 背後から刺さるちりちりとした視線、それはたぶん右側の「ぼく」たちふたりのものだ。彼らは本人オリジナルたるぼくに合わせて左を向き、いまぼくの後頭部を見ているのだ。実際に見たことはないけれど、そのはずだ、たぶん。またすばやく右を向く。だがあるのはやはり「ぼく」たちの後頭部、そして自分の後頭部に注がれる、逆方向からの視線。

 気が狂いそうになる、一瞬だけ。だけどそれは本当に一瞬のことで、過大な壓力ストレスを感じた脳が反射的にぼくの感情を關閉カットオフ、跳ね上がった心臓がたちまちいつもの律動を取り戻した。それはぼくの子供のころからの特質だった。いや……もしかしたら毎日昼食後の瞑想訓練のおかげか、あるいは毎食後に服用する薬のせいか、あるいはそれら全てか、またはそれ以外の要因なのかもしれないが。ともかく自分をやした日の朝というのは常にこんな調子で、要するに刻々と襲い来る不条理や非現実感との闘いだった。

 どこからか大音量で部屋に響く女性の声。

『おはようございます。社員のみなさま、昨日はよく眠れましたか。本日は紀元三○○年七月七日、星期四もくようびです。休日まであと二日、きょうも一日元気にがんばりましょう』

 七夕か。

 思ったが、声には出さなかった。必要がないからだ。ため息さえ五倍になるこの部屋で、独り言は精神分數メンタルスコアを無意味に下げる行為でしかない。だがぼくの頭には反射的にひとりの女性の姿が思い浮かぶ。ほかの「ぼく」たちも、いま同じことを想ったのだろうか。

 声を出さずに苦笑する。

 なにを想うっていうんだ? たかが仿製品コピーにすぎないやつらが。

 起床時間は午前六時すこし前、始業は七時四十五分だからのんびりしている暇はない。ぼくは膠囊艙床カプセルベッドからぎくしゃくと立ち上がり、冷たい床に足を下ろす。左右の「ぼく」たちもそっくり同じに動き、ぼくと「ぼく」たちは列になって部屋を出る。

 そこは人ひとり分の幅しかない薄暗い通路で、出口が遠く向こうから白い方形の光を投げかけている。ぼくたちは壁に五つ並んで開いた穴に服を脱いで投げ入れ、裸になって通路をゆっくりと歩く。背後の扉がひとりでに閉まると壁から熱い蒸気が吹き付けられる。それはなにかの薬液を含んでいて、肌の表面が無数の針で撫でられたようにちりちりと痒くなる。

 ぼくの前には等間隔を保って歩く「ぼく」の尻があった。洗浄霧の薄膜に浮かぶそれの中ほどに小さな虫刺されを見つけ、思わず自分の尻に手をやると当然のように虫に刺されている。こういうところまで寸分違わず複製されている意味はあるのか疑問に思いつつも、とにかく前のやつの尻を見なければ気付きもしなかったはずのその小さな腫れをぼくは爪を立ててがりがりと掻く。掻きはじめてから思い出したように痒みがやってきて、ならばいっそ最初から気付かなければよかったのにとぼくは思う。もちろん目の前の「ぼく」も同時に同じことをしていて、眼前の尻にいくつもの赤い爪痕が描かれていく。

 蒸気を抜け、金網になった床を歩くと温風が吹き出し、ぼくの體から水滴を乱暴に拭い去る。その先にある毛巾タオルで残った水滴を拭き、逆立った髪を直せばわずか五分の淋浴シャワーが終了、終点の扉はまた自動で開き、ぼくたちは五つ並んだ置物櫃ロッカーで洗い立ての衣服をまったく同時に身にまとう。

 六時十二分、定刻より三分早い朝食。食堂の長机子テーブルには空の椀と皿と小鉢が並んでおり、ぼくと「ぼく」たちは等間隔を保ったままそれぞれの膳の前に同時に座る。向かい側で全自動の機器手臂ロボットアームが滑らかに動き、「ぼく」たちに同時に給仕をしていく。空の椀に注がれるどろりとした液体、湯気を上げる椀をのぞき込むとそれは粥だった。溶けた米の表面がぷつぷつと音を立てて泡立ち、散らばったちりめんが小さな黒い目でぼくを見つめていて、黒い皮蛋ピータンがそこかしこから顔を出している。皿には揚げ麺包パンが、小鉢には滷竹筍メンマ花豆ピーナッツや青菜の漬物がてきぱきと並べられ、最後に大ぶりの湯呑み茶碗に熱い烏龍ウーロン茶が注がれた。

 音を立てないように食べるのは至難のわざだ。特にこういう、熱くて液体状のものを食べる時は。ぼくは粥を一口食べるのにもいちいち米粒を箸で拾うような集中を要するのと、両隣の「ぼく」がさじを椀にぶつける音や、熱い粥を用心しいしい唇を震わせて飲む音や、湯気にあてられて鼻水をすする音や、お茶を飲むときに喉を鳴らす音を我慢するのと、どちらの方が精神衛生上よりよいかを計算し、そしていつもだいたい同じ結論に達する。自分もやっていることなのだと思えばまだ諦めもつく。粥は薄い塩と生姜の味で、腹の中でむやみに膨らんだ。

 六時四十分。一斉に厠所トイレ。大は昼まで我慢するのがぼくなりの決め事。

 六時四十二分。洗面所で歯磨きとうがいをする。本当はそれだけで十分なのだけれど、ぼくはあえて歯の一本一本を丁寧に磨く。寸分違わず重なる歯磨きの音はまるで鍋底を金だわしで磨いているようだ。磨き終わって口をすすぐと、ぼくはそこで初めてちゃんと朝を迎えたような、清々しい気持ちになった。薄紫の嗽薬は、吐き出したあともなお薄い薄荷はっかの香りを口に残す。

 六時五十三分。再び置物櫃ロッカーで着替え。いつの間にか補充されている墨緑色モスグリーンの作業着と、顔全体を覆う面具マスクを身につける。螢幕バイザー越しの視界に浮かび上がる「早安おはようございます!」の文字。

 そして七時。ぼくと「ぼく」たちは完全装備で部屋を出た。

 すべてまったくいつも通りに。

 ここから工場の入り口までは徒歩でおよそ十五分、長い廊下はくねくねと曲がり階段になり坂になりあるいは騙し絵のように複雑に絡み合い、毎日歩いているはずなのにちっとも道を覚えられない。けれど足だけは不思議に行先を知っていて、前を歩くぼくにならわずとも迷いなくぼくを運んでいく。まるで輸送帯コンベアにでも乗っているようだなとぼくは思う。まるでひとごとのように。

 七時十六分。工場の入り口に到着。

 それは五つの電梯エレベータで、廊下のどん詰まりの横、左手側の壁に並んでいる。ぶ厚い金属製の扉は油をひいたように滑らかな光沢を放ち、それぞれに塗料で「いち」「」「さん」「」「」の番號が振られていて、ぼくが前を歩く「ぼく」と同時に立ちどまって左を向くと、そこはちょうど「叄」の電梯エレベータの目の前なのだった。床にはひとりが立ってぴったり収まるくらいの枠が白く描かれ、ぼくは一歩踏み出してその中に入る。視線は前を向いたまま、だが等間隔を保ってついてきたほかの「ぼく」たちもまた同時に各々の番號の前に立っているはずだった。

 電梯エレベータの扉が開き、ぼくは進み入る。ほかの「ぼく」たちと同じように。

 中は棺桶のように狭かった。扉が閉まるとすみやかに訪れる暗闇と鈍い機械の唸り、そしてわずかな浮遊感。


 この時間があまり好きではなかった。

 誰もいない、ぼくだけの時間。


 例行ルーティンだらけの毎日に唯一ぽっかり開いた空白は、いやが応でもぼくの意識をうちに向けさせる。なぜだかたまらなく不安になるのだ。

 だから気晴らしに鼻歌を歌う。

 機械の唸りにすぐ呑まれて消える程度の、か細い旋律。それは故郷の民謡だ。誰かに教えてもらったわけじゃない。母が口ずさんでいたのを聞いて覚えたのだった。ぼくが歌うと母はうすく笑って、「むかしはみんな歌ってたのよ」と云った。母以外が歌っているところを聞いたことはなかった。昔は祭りで歌っていたけれど、それもずいぶん前になくなったのだとどこかで知った。

 歌は山村の有り様を伝えていた。春の雨のあと、朝露に濡れる竹。その根元を掘り、かごいっぱいの春筍をかついで山道をゆく男たち。竹林の隙間から彼方にのぞく石積みの家々。女らが草鞋ぞうりを編み、小さな子供が裸足で駆け回っている、鳥がき、かまどの煙は朝かすみに混じる。閉じた目によぎる、ぼくの故郷。父、母、叔父、そして……。

 甲高いベルが鳴った。電梯エレベータの到着を告げる音。ぼくは歌をやめる。脳裏の顔が、故郷の風景が、鳥の啼き声が消える。浮遊感は失われ、重たいからだだけが残った。そのことに少し安堵している自分がいる。

 扉が開くと白い光が面具マスク越しに刺さり、ぼくは目を細める。螢幕バイザーが自動的に視界の明度を落とし、適切な状態に調整する。早く降りろと警告音。ぼくは外へと歩き出す。

 いつもの広間だった。厳密に云えばたどり着く作業区は毎日変わっているはずだが、見える光景はまるきり同じなので区別はつかなかった。ぼくの部屋がゆうに五十は入るだろう空間、痛いほどに白かった世界は明度調整で淀んだ紅茶色に染まり、そこには数えきれないほどの労働者たちがうごめいていた。彼らはみなぼくと同じように墨緑色モスグリーンの作業着を着こみ、黄土色の面具マスクで顔全体を覆っていて、壁にある扉から次々とやってきては、ひとことも発さずのそのそと部屋の奥の方へと進んでいく。


 すべてまったくいつも通りに。


 ぼくもまた部屋の奥へと進む。履いている安全靴は重いので、自然と脚を引きずるようになる。部屋では「ぼく」たちに真似されているぼくが、ここではひしめくその他大勢たちと同じ動きをしている。なんという皮肉! だがこの動き方が一番楽なのだ。

「……ア。……ぁー……」

 隣から声がした。くぐもったか細い声。聞き逃しそうなうめきを、ぼくは面具マスク越しになぜかはっきりと聞いた。電梯エレベータで鼻歌を歌ったせいかもしれない。あの暗闇で聞いた自分の声と、それはなんとなく似ていたのだ。

 声を出しているのは、ぼくの右隣りを歩いている奴だった。引きずる足はことさら重く、上半身は頼りなくふらふら左右に揺れている。

「ア……ドゥー……、ェ……」

 頭は歩みに合わせて上下しまるで綿の詰まった人形のようで、表情は面具マスクに覆われて見えなかった。ぼくはなにも見なかったことにして前を向く。

壓力ストレス値が上がっています』

 耳機イヤホンがぼくの耳小骨を揺らした。同時に視界へ表示される『深呼吸をしましょう』の文字。大丈夫、わかってる。ぼくは目を閉じ、いつもの瞑想方法メソッドを思い出す。鼻から息を吸っていきましょう、ゆっくり、ゆっくり……息がお腹に入るにつれ、あなたの全身はどんどん軽くなっていきます、ふわふわ、ふわふわ……脱力してとても気持ちがいい、そうですね? 吸い込んだ息は血管をめぐり、あなたに熱と活力を届けます。でも無理はしないで! 八割くらいまで吸ったら、少し息を止めて、今度は息を口からゆっくりと吐いていきましょう。さあ……。

 目を開けると、男はぼくのだいぶ前を歩いていた。左右に揺れる上体、ぐらぐらと不安定な頭。広場や出勤途中の廊下で、彼のような労働者に運悪く出くわすことがよくあった。自我を見失って人形となった者たち、あるいはその真似をしている複體。いずれにせよ彼(ら)は『崩我族』と呼ばれていて、不吉の象徴として忌み嫌われていた。彼の後ろ姿を見ていると再び心拍数が上がりそうなので、目線を下に落として歩くことにする。

 大丈夫、大丈夫だ。

 あれはこの制度が始まって初期のころに起きた事故例にすぎない。欲にかられて、自分を殖やしすぎたのだ。これを境に、複體による短縮労働は上限五人までという規則ができたのだし、いまでは瞑想訓練をはじめとした精神關懷メンタルケアの制度も整っている。

 問題はない。ちゃんと自己管理さえしていれば。

壓力ストレス値が上がっています』

 声を無視してぼくは歩く。視線はずっと床に注ぎ、磚地タイルの目地が歩みに沿って手前から奥へと流れるさまをただひたすらに眺め続けている。

 こんなところで終わるわけにはいかない、やっと半分、ようやく半分のところまで来たのだ、この苦行さえ終わればぼくにはその後死ぬまでの年金が約束され、広々とした公営住宅に住む権利が与えられるのだ、陽光が燦燦と降り注ぐ高原、あるいは青い海と白い砂浜、城市シティの摩天楼で都会暮らしを楽しむのもいい、どんなものでも手に入る。叔父は確かにそう云ったのだ。

 ぼくは名前を呟く。

 翠如ツェイルウ

それは故郷の幼馴染。ぼくの心にいつもいる女性の名。

 彼女とはここに来る前に将来を誓った。書類も立会人も用意した正式なものだ。立会人はぼくの叔父で、彼こそがこの仕事をぼくに紹介してくれた恩人だった。

 彼女はいまも待っているだろうか? それはないだろう。ぼくは愛や恋が永遠だと思うほど馬鹿ではない。八年という歳月はひとりで待つには長すぎる。きっと別の男を見つけて暮らしているに違いなかった。構わない。だって労働期間さえ終われば、契約は厳密に履行されるから。つまり、彼女はぼくのものになるのだ、本人の意思なんて関係なく。婚姻関係の事前占有、それもまた短縮労働契約者の特権だった。

 理不尽だと思うか? だがぼくだって相応の代償を払っているのだ。まずこの労働は誰にでもできるものじゃない。人殖科技クローンサイエンスがいかに進もうと、適格条件は依然厳しかった。骨格の歪みは左右で五%以下、骨折・大病歴なし、視力聴力は左右二.○、BMIは高くても低くてもだめ、血液成分に大幅な偏りがあっても弾かれる。そしてなにより重視される精神分數メンタルスコア。『自分を殖やす』という異常な条件を受け入れられる安定した精神、単純労働をこつこつ続けられる粘り強さ、その中で高い能率を保ち続ける強い意志。『徴兵検査の五倍厳しい』と云われる理由の大部分がここにある。ぼくが検査を受けたとき、倍率は三千百八十二倍と発表されていた。

 検査を通過したあとには、長年にわたる工場労働が待っている。複製された「ぼく」たちとの生活、寮と職場だけを往復する日々、無限に続く単調労働……。崩我族までいかずとも、脱走をはかったり、心身に異常をきたしたせいで契約を打ち切られる人間は多い。労働を無事に終えられる人間が全体の何割なのかは公表されない(あるいは百%ということになっているのだろう)が、実際の数値をとれば極端に低くなるに違いなかった。

 その危険リスクを背負うのも、すべては彼女を手に入れるため。


 いや。

 彼女を幸せにするためだ。


 単なる傲慢エゴ? ああ、確かにそうだろう。だが戻ってきたぼくが結婚を迫ったとして、彼女ははたして怒るだろうか? 契約の履行を拒むだろうか? ぼくが一族全員を養えるだけの金と、好きな高級住宅に一生住める権利を持ち帰って来たとしても?  ぼくの覚悟と努力を認めないほど、彼女は愚かだろうか?

 結局のところぼくは信じているのだ――こんなひねくれた想像をしながらなお――彼女がいまでも、ぼくを待ってくれていると。

 いずれにせよ、契約を破ったものには厳罰が待っている。

 重い靴を引きずり、床を見つめながらぼくは彼女の名前を何度もつぶやいた。翠如ツェイルウ翠如ツェイルウ。鼓動が落ち着き、耳元の警示音アラームが止まる。

 視界に誰かの爪先が映った。顔を上げる。そこには面具マスクをつけ、作業服に身を包んで、つまりはぼくと同じ格好をして、だけど胸元にはぼくにはない赤い徽章バッヂを着け、さらに手には警棒を持った男が立っている。

 班長だ。

 彼は近づいてぼくを眺めた。深呼吸して気を付けをする。面具マスクが甲高い電子音を立ててなにかを通信している。ぼくの健康状態を彼に送っているのだ。うつむいていたから、なにか異常があると思われたのだろうか? だが彼は軽くうなずき、ぼくの胸元にある號碼牌ナンバープレートを見てから、警棒で右手のほうを指し示した。同時にぼくの面具マスクに明滅する「γー10」という文字。指示にしたがって右へと歩く。深く安堵の息を吐きながら。

 班長たちはずらっと横一列に並び、前から歩いてくる労働者の群れを手際よく仕分けていく。労働者たちは堰き止められた水が左右に分かれるようにぞろぞろと道を変える。ぼくもまたその流れに沿って歩いた。向かいから来る労働者とすれ違いながら。班長たちの背後の床には、電梯エレベータの前に描かれていたのと似た、だけどずっと大きい方形の枠が描かれ、中には大きく文字が書いてある。いま通り過ぎた場所の数字は「γー12」、だからあとふたつ先がぼくの行くべき作業区というわけだ。


 γー10作業区にはすでに多くの人がいた。枠線の前にはまた警棒を持った班長が立っており、ぼくは再び彼と面具マスク越しに向かい合う。なにかが送信される音のあと、彼は黙って警棒を奥へと指し示す。先ほどの繰り返しのようなやりとり。ぼくは枠内に足を踏み入れ、五列になって整然と立っている労働者たちの最後尾に並ぶ。いくらも待たないうちに、枠の中は人でいっぱいになった。人口密度はひどく高く、さらに全身を覆う作業服と面具マスクをつけているものだから、摂氏十八度に保たれた室内であっても肌に汗の膜が張り付いて不快だった。

『おはようございます!』

 耳機イヤホンから出し抜けに明るい声が響く。

 同時に始まる行進曲マーチふうの軽快な音楽。

 朝礼が始まったのだ。

『本日は紀元三○○年七月七日、星期四もくようびです。疲れも溜まっている頃でしょうが、最後まで集中力を切らさずにまいりましょう』

 耳から流し込まれる、朝と同じ女性の声。

『本日の作業区分γー10は人形製造ラインでの組み立て作業です、地道な作業が続くため定期的な伸展ストレッチを忘れないように。居眠りにも注意ですよ! きょうの花は六出花アルストロメリアで、花言葉は将来へのあこがれ、です。休みまであと二日、もう一息がんばりましょう!』

 音楽がひときわ盛り上がりを見せ、そして終わる。それからぼくたちは社訓の斉唱をする。それは「きょうの労働、栄光の未来」という理念もなにもないたったそれだけの一節で、ぼくらはそれを耳元の音声に従って二十回も繰り返す、繰り返すうちに声は大きくなる、きょうの労働、栄光の未来、目の前にぶら下げられた人参、遠すぎる目標、空を漂う夢の雲、きょうの労働、栄光の未来、使い切れないほどの金、豪華な部屋、ぼくをうっとりと眺める婚約者、きょうの労働、栄光の未来、叶うのではない、叶えるのだ、きょうの労働、栄光の未来、やっと半分、ついに半分、ようやくぼくはここまで来た、きょうの労働、栄光の未来、どうしようもない過去、覆らない格差、四年先の報酬は唯一の希望、そうだこの日々は無限ではない、約束された幸せをつかんでみせる、なにを犠牲にしても、どんなことがあろうとも、きょうの労働、栄光の未来、きょうの労働、栄光の未来――


 朝礼が終わるころ、ぼくの喉は傷みきっている。構いやしない、残り一日どうせ声を出すことなんてほとんどない。口元にある吸管ストローから生ぬるい水を少し飲む。列が動き出す、ぼくも前の人に続いて歩く、進む先には大きな鐵門シャッターが口を開き、作業着の群れがぞろぞろと吸い込まれていく、まるで巨人が人々を呑み込むように。

 警告はないが、念のため瞑想方法メソッドをもう一度。目を閉じ、息をゆっくり吸って、吐いて、彼女の名をつぶやく。目を開けるともう隧道トンネルの中だ。前の方で警棒の作業者がまた交通整理をしている。ぼくは彼が指し示すまま、いくつもの小さな通路のうちの一つへと入る。


 すべてまったくいつも通りに。

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