②
ぼくはその光景を眺めている。
手だけが滑らかに動いていた。これまでにやった作業はせいぜい十種類程度の繰り返し、つまり四年で一作業あたり百四十日はやっている計算になるから慣れるのも当然で、いまや意識しなくても
余計なことは考えないほうがよいのだ。
流れてくる部品は半透明の羊膜に包まれている。手袋をはめた手でそれを破るとぬめる液体が中からこぼれ、そしてあとには塊が残る、それは肉、肉の塊だ、鮮やかな桃色に輝いてひくひくと脈打つその形はだが機械の部品じみて複雑で、なおかつ断面はすべてきれいな直線、もちろん切ったり成型したわけではなくこれは最初からこういう形に造られているのだった。ぼくは
『
ぼくは息を整える。作業服のなか、気付かぬうちにわきの下を冷たい汗が流れている。拒絶反応は四年経ったいまでもしつこく顔を出すのだった。連想は毒、ましてや感情移入などはなおさら、意識は不要、自分もまた工場の部品なのだと云い聞かせる、作業になにかを感じる必要も、その意味を考える必要もない、四年たっても人形の製造工程の全貌はまったくつかめないし、完成した人形を見たこともないが、そこに疑問を抱くこともまた、ぼくに求められてはいない。
『作業が遅れています』
わかってる。
手が習慣に沿って動くに任せる。羊膜をやぶり肉を押さえ薬液を注入し
だからもっぱら逃避するのは過去の中。
つまり
彼女についての記憶――それは顔ではなく、まず脚だった。すらりと長く磨いた白木のように滑らかな脚。ぼくは這いつくばってそれを見上げている。彼女の足先には艶やかに光る高級そうな
村外れにある廃校で、ぼくは
「見なさい」
顔を上げたその鼻先に
彼女は
「読み上げなさい。まさか、字が読めないわけはないわよね?」
問いかけは鋭い。ぼくはまた踏まれる前に素早くうなずき、そして手足を縛られて地面に這いつくばったまま、つっかえつっかえしながら書かれている項目を一つずつ声に出す。
『定期試験で学年一位を取りました』
『作文で市の特別賞をもらいました』
『地域の清掃
『無遅刻無欠席で優秀生徒に選ばれました』
『父の日の
『生徒会の書記として積極的に活動しました』
『町長の学校視察の際、学生代表として
『素晴らしい孝行娘として、地方新聞に二回、
口の中は腫れあがって上手く舌が動かないし口を開くたび細かい埃が気道を侵す、鼻血も詰まってひどく息苦しく、結果として出るのはまるで首を斬られた豚のように甲高い呻き声。だがそれを彼女は含み笑いをしながら聞き流す。
「で?」
ぼくが読み終えると彼女は云った。
「で、あなたは?」
口調は歯切れよく発音は明瞭、薄汚れて学校にも行っていないぼくのような人間にも丁寧な言葉遣いを崩さない。だがその声をうっとりと聞いているとふたたび
「わたしの云っていることがわからない?」
ぼくは必死で首を振る。
「なら早く答えたほうがいいわね」
「ぼ、ぼく、ぼくは……」
言葉は続かない。
だってぼくは無能なのだった、彼女と比べるまでもなく。どうして彼女のように有能でいられるだろう?
家族は村で忌まれていた。すでに老齢の父は街の出稼ぎから帰ってきてからおかしくなり、どこから手に入れたかわからぬ薬を飲んで暴れ、それがなくなると今度は酒に溺れた。どっちにしろ家族を殴るのは変わりなく、どころか他人にも平気で怒鳴り散らすので、隣人はみるみる減っていった。ぼくは仕事を失った。父がもっと給料を寄越せと職場に怒鳴り込んだからだ。新しい働き口はなく、いたはずの妹は気付けば姿を消していた。人買いに売られたのだろう。どこぞの金持ちが子供を残すために。ぼくたちは家族さえ簡単に奪われてしまうのだ。だが生活はいっこうに変わらず、ただ父の酒量が増えただけ。
庭の
「なにもないの?」
しかし彼女はぼくの事情などおかまいなしだ。いや、あるいはそんな事情こそが彼女をなおさら駆り立てるのだろうか? 後頭部を踏まれ、そのまま地面に顔を押し付けられる。鉄臭さが鼻の中に広がる。
「わたしはこの半年でこれだけのことをしたのに?」
靴底が左右にねじられる。ぶちぶちと髪がちぎれる音がする、痛みに悲鳴を上げる、すると彼女は心底楽しそうに笑う。
「大叔父さまにはなんて報告するつもりなのかしら」
叔父が援助した子供――村ではぼくと彼女のふたりだけだ――は半年に一度、学業について報告する義務があるのだった。彼女は先天性の難病を持っていて叔父はその治療費を肩代わりし、彼女はその礼とばかりに半年ごと目のさめるような業績をたずさえて街から戻ってくるのだった。
一方の自分には、なにもない。
「ひとつくらい、なにか挙げてみなさい、ほら」
地面と靴の狭間から解放され、ぼくは口を開く。
「ほんを……本を、よみました。叔父さんがくれた、本を」
「それだけ?」
「それから、それから……」
云いよどむが早いか顔に衝撃、蹴られたのだと理解する間もなく横ざまに倒れる。こめかみを砂利にしたたか打ち付け、鈍い痛みがじっくりと頭に広がった。縛られた手足では頭を押さえることさえかなわず、ぼくは芋虫のように体をくねらせて痛みに耐える。
彼女がゆっくりと近づき、耳元に口を寄せる。
「あなたは本当に幸せね」
湿った息が耳にかかる。
「汚くて馬鹿でどうしようもなく愚図、なのに、おなじ子供というだけで、大叔父さまからはわたしと同等のお慈悲をめぐんでいただける」
そう思わない?
彼女の問いかけに、ぼくは頷く。事実だ。彼女の父は貧しいが働きもので、彼女もまた術後の病室で必死に勉強し見事街の進学校に合格した。ぼくたち家族とはなにもかもが違う。本来ぼくと彼女はこうして一緒にいられる身分なんかではないのだ。保護されるべき未来の労働資源という共通項と、叔父の援助という繋がりがなければ。
彼女はぼくの頭を抱き、ますます耳元に口を寄せる。
「見たわよ、あなたたちの家。豚小屋の方がまだましじゃない。あなたたちのことを村の皆がどう云ってるか知ってる? 父は酒狂い、母は物乞い、子供はどうしようもない愚図、あいつらは村の厄病神、できればいますぐにでも叩き殺してやりたいって。ね、よかったわね? 大叔父さまがいて。あなたが生きていられるのは、みんな大叔父様のおかげ。ね?」
ぼくは激しく頷く。すると彼女はぼくの頭を粗雑に放り出し、うっとりと顔を紅潮させながら立ち上がって、足をぼくの顔の上に高く掲げるのだった。その動作はひどく緩慢で、きっと彼女はぼくに時間をくれているのだと思った。痛みを覚悟する時間を。ぼくもまた恍惚としながら、
脚が振り落とされる。
「ああ、大叔父さま! 慈悲深く素敵な方」
ぐちゃっという音、そして痛みがやってくる。
「こんな屑にまで機会を与えるなんて」
何度も踏みつけられる。
「ねえ、だめよ、あなた。大叔父さまのご恩にちゃんと報いなければだめ」
何度も何度も。
「わたしは哀しいの、わかる? あなたは大叔父さまの気持ちを裏切っているの。わかる? だからわたしはあなたを罰しているの。あなたの家族はどうしようもないから、代わりにこうしてしつけてあげているの。わかる? あなた、わたしの云っていること、わかる?」
わかるよ。
そう云った。つもりだけれど、声になったかどうかはわからない。
踏みつけは止まらない。ぼくは丸くなる、亀のように。その背中に容赦なく
「相応しい人になって。ね? もっと大叔父様の慈悲に相応しい人に」
そう諭す声はとても優しい。
ぼくは彼女のことが好きだった。
彼女はぼくを無視したり避けたり、陰で除け者にしたりしない。いつでも真剣に向き合ってくれる。人間として扱ってくれる。
父がぼくにするように。
父が母にするように。
「あなたはまだ大丈夫やり直せるあの両親のように愚図のままでいちゃ駄目もっと頑張らなきゃ努力しなきゃ、わかる? わたしの云っていること、わかる?『十二時です! 午前の業務は終了です!』
『お疲れさまでした。食堂に移動してください』
作業着の裡で、ぼくは痛いほど勃起していた。
すべてまったくいつも通りに。
※
昼食から瞑想訓練と
十八時十二分。部屋へと帰り着く。
着替えたあとは
品目は羊肉燴飯だった。とろみのついた餡で煮込まれた羊肉が白飯の上で湯気を立てている。小皿には
十九時三十二分。揃って
十九時三十六分、歯を磨く。朝と同様、一本一本を丹念に磨き、最後に嗽薬で口をゆすぐ。目の覚めるような薄荷の香り。
十九時四十五分に着替えて
それから二十一時の就寝までは娯楽時間なのだ。ぼくは天井にある
いま見ている作品は
ふと「ぼく」たちのことを考える。彼らはいま何をしているのだろう? ぼくと同じように
……なんて、たわいもない空想を遊ばせるころには、就寝時間が近づいている。
画面では主人公が必殺技を放っていた。正義は勝ち、そして
紀元三○○年七月七日が終わる。
すべてまったくいつも通り――でも、無限ではない一日の終わり。
>> 記述終了
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