「報告、ごくろうさま」


 と、叔父は云った。

 声は重たくて、だけど柔らかく、羽毛を思わせる。

 彼は沙發ソファに座っていて、右手で傍らに座る獒犬マスチフをあやしていて、左手だけで知恵の輪を弄っていて、それでいながら顔には涼しげな笑みを浮かべたままで、ぼくたちを悠然と見下ろしていた。不気味なほどに若々しい顔。ぼくが彼に出会ってからの十年近く、皺ひとつ増えていない。まるで人形みたいに。

 ぼくたちが通されたのは応接間だ。半年前にはなかった場所で、どうやらまた増築をしたらしかった。距離感を失うほどのだだっ広い空間、壁には無数の絵画や彫刻や陶器類。そいつらを眺めて通り過ぎたどん突きの、まるで舞台のように一段高くなった場所に叔父は座っていて、ぼくたちは舞台の下で跪いている。

 報告会というより、さながら王との謁見という風情だった。

「頑張っているようだね、ふたりとも」

 会話の間に、かちかちと金属のこすれる音、そしてかちんと軽いなにかが床に落ちる音。叔父は知恵の輪の片割れを床に投げ捨て、そして小桌子サイドテーブルからまた別の知恵の輪を取る。叔父の足元にはおびただしい数のいびつな金属たちが屍を晒していた。

 片手間の叔父の称賛に、隣の少女――ぼくの幼馴染だ――が、湿った息を漏らす。そこには、憧れの人に労いをかけられた歓びと、自身の努力をぼく如きと同列に扱われたことへの不満とが、複雑に入り混じって燻っている。付き合いが長ければ、そのくらいのことはなんとなくわかるのだ。言葉なんて交わさなくても。

 体の節々が痛んだ。

 ここに来る少し前、彼女との「儀式」を終えた。互いにこの半年でなにを成し遂げたかを伝え、そして彼女はなにもしていないぼくに罰として暴力を与える、そんな儀式だ。手当てをする暇はなかった。いつものように。そしてまた、ぼくの怪我を案じる人もいなかった。いつものように。屋敷の門番、応接間へぼくらを案内した使用人、誰もが眉一つ動かさなかった。ただ、磨かれた大理石の床にぼくの血が垂れたときだけ、使用人の手が影のようにさっと伸びて汚れの痕跡を消し去った。

 いまに始まったことじゃない。それはこの村の規則だった。ぼくたち家族を徹底的に無視すること。ぼくたち家族を徹底的に迫害すること――なぜなら、ぼくたちは村の疫病神だから。

 一族の恥。村の穀潰し。気狂い一家。あるいはそれは罰なのかもしれなかった。急速に増え続ける老人と比べて労働人口が減るばかりのこの国で、定められた労働の義務を果たさず、ただ若さだけを謳歌しているぼくに対しての。それを是とし、酒に溺れて働きもしない父と、彼の暴力に疲れ果て、なにもしない母に対しての。あるいはまた、それは生贄なのかもしれなかった。「子供ができて援助をもらったとしても、人間ああなったらおしまいだ」と、そう思うことで村人が自らの貧困を受け入れるための。だが結局のところ理由なんてわからない。ともかくぼくたち家族は、この村の最底辺に位置づけられている。それだけは確実なことだった。

 ぼくは、生まれながらに屑だった。

 それは仕方のないことだった。

 唯一の味方は、叔父と……そして彼女だけ。

 彼らだけが、こんなぼくを人として扱ってくれるから。

「●●●」

 唐突に名前を呼ばれ、我に返る。

「どうだった? 貸した本は」

「ええ……はい……」

 言葉を濁す。

 ある一冊の本を読むこと。それが叔父から出されたこの半年の課題。

 内容自体は難しくない。辞書と百科事典の丸暗記がいままでの課題だったから、それと比べれば遊びみたいに簡単だ。だけど辞書と違って、この本は読めば読むほど分からなかった。何度も頭から読み返したが、胸を満たすのは霧を掴むような感覚ばかり。誰もが知る名作だと彼女は云うけれど、ぼくにはまるきり信じられない。

「どうした? ……素直な感想をいいたまえ」

 意図の読めない表情で叔父は云う。

 ぼくは迷う。ごまかすべきか、素直にわかりませんと云うべきか。沈黙は裏切りだ。だが果たして、答えを出せなかったぼくを、彼は許すだろうか? 知恵の輪の軋む音。それに急かされ、ぼくは結局、正直に答えてしまう。いずれにせよ彼に嘘は通用しない。

「……よく、わかりませんでした」

「ほう?」

 彼は眉を上げる。知恵の輪をいじる手が止まり、獒犬マスチフが耳を伏せる。

 身が震えた。

 やはり、だめか。 

 彼の気を害すること、それは彼の庇護を失うこと。つまり、ぼくら家族が、生きる術を失うことだった。彼の援助なしに冬は越せない。彼以外にぼくたちに食べ物を恵む人間などいやしない。残された運命は、餓死。

 だが、彼は微笑んだ――幸いなことに。

「なるほど……いいじゃないか。付け焼刃の解釈を述べず、難解なものをただ難解だと受け止める。そうした素直な感性もまた大事なことだ。……だから、そんな目で彼を苛むものではないよ、きみ」

 叔父が柔らかい声で窘めると、殺人鬼のような目でぼくを見ていた彼女の顔がみるみる赤く染まる。「申し訳ありません」と蚊の鳴くような声。

「でもね、●●●」

 彼は続ける。

「きみの答えはまだ半分だ。読後に自ら問いを立て、その問いに自分なりの答えを見つけること――それが文学を読むということだと、わたしは思っている。だからもう一度聞こう。きみはあの本の、どんなところが難解だと思ったんだい?」

 ぼくは答えた。少なくとも、今回の課題に「答え」はいらないらしい。

「……なぜ彼は、虫になる必要があったのでしょうか」

 叔父がくれた本の内容。ある男がいた。貧しい家庭を、必死で働いて、ひとりで支えていた。その男が、ある朝目覚めるとなぜか巨大な虫になっているのだった。虫になった男は、家族から嫌われ、もっとも大事に思っていた妹にも疎まれ、そして最後は餓えと傷とで死んでしまうのだ。なぜ彼が虫になったのか、その理由は最後まで明かされない。

「なぜ、というのは?」

 叔父は首をかしげてみせる。

「彼が虫になる必要性があったとは、思えません」

「そう思った理由を教えたまえ」

「……理由、ですか」

 ぼくはまた言い淀んでしまった。

 ……今回の課題は、明らかにいままでと違った。言葉の意味を聞かれ、ぼくが答える。それがいままでの叔父による試験だった。今回は違う。問いそのものが、ひどく曖昧だ。

 叔父はぼくに何を求めているのだろう?

「必要」なことか、あるいは「不必要」なことについて理由を説明するのは簡単だ。だけどあってもなくてもどっちでもいいものについての説明は難しいように思われた。たとえばぼくたち家族には金が必要で、その理由は説明できる。それから寝室の雨漏りとか、膝小僧にある大きな瘡蓋かさぶただとか、家の壁に塗料で書かれた「ごく潰し」「役立たず」の落書きだとか、そういったものがないほうがいい理由も説明できる。だけどあってもなくても困らないもの――父親がまだ金があるときに買ってきたという、いまは古びてぼろぼろの熊のぬいぐるみとか――を、どうして捨ててはけないのか、その理由をはっきり説明できるだろうか? 要らないから要らないのだ。強いて言えばあるだけ無駄だから。まあ、別にあってもいいと思うけれど……。

 しどろもどろにそんな説明をすると、彼は笑った。

「そうか、そういうことか」

 ひとりでそう云って、納得している。ぼくにはその意味が分からない。隣を見ると、彼女が見下すような、憐れむような眼でぼくを見ていた。

「いや、いいんだ。つまりあの小説の状況は、きみにとって、単なる日常にすぎないんだな。疎まれ、憎まれ、相手にされない。飢えて、人と同じものは食べられず、痩せ細って死んでいく……。きみが生まれたときから、人生とはそういうもので、世界とはそういうものだったんだ。だから、主人公が虫になったことと、それによって彼が受けた仕打ちとの間に、因果関係を見いだせない。そんなところだろう」

 わかったような、わからないような。そんな気持ちでいると、となりにいた彼女が、ふいにぼくの耳元に口を寄せ、ささやいた。

「つまりあなたは、生まれながらに虫ってことよ」

 そうなのか。

 彼女が云うんだから、そうなのだった。

「少し、席をはずしてくれるかい」叔父が、彼女の方を向いて云った。

「はい」彼女は立ち上がる。その背中を目で追っていると、彼女は部屋を出る直前に振り向いて、うっとりするような冷たい一瞥をぼくによこしてから扉を閉めた。

「それにしても、ずいぶん手ひどくやられたね」

 背中越しの声。ぼくは驚く。叔父がぼくの怪我について言及するなんて、これが初めてのことだったから。

 振り返ると、叔父の姿は思っていたよりずっと近くにあった。

「そんなに驚かなくてもいいだろう? わたしだって、ここから降りることくらいあるさ」

 すぐ頭上から妖しく輝く二つの瞳がぼくを見下ろしている。信じられない思いだった。彼があの沙發ソファから降りてぼくと同じ地面に立つのも、その両手になにも持たずに居るのも、これが初めてのことだったから。

「立ちなさい」

 ぼくは云われた通りにする。

「あまりやり過ぎるなと云ってはいるんだがね……どうも彼女にとって、きみは特別な存在らしい。わたしにとってきみが特別であるのと同じようにね。さて、見たところ骨に異常はなさそうだが……」

 叔父は喋りながらぼくの周りを歩く。ぼくは動くこともできず、人形みたいに彼の品定めを受けた。彼の声がぼくの周囲をぐるぐると周る。まるで眩暈のように。彼の手がときおり、乱暴にぼくのからだのあちこちを探った。検品でもするような感じで。

「見た目の傷のわりに、肉体は健康だ…………彼女も一応、云いつけは守っていたらしい……きみの父親も、下手に大怪我をさせては医療費もかさむし、なにより働き手が減ってしまうから、それなりに手加減をしたのだろうな……骨格の歪みは多少気になるが、なに、そこは手術でどうにでもなる……問題は精神だ……多大な壓力ストレスのなかでも平常心を保ち、単純作業にも意欲を失わず、なにより成功のため全てを犠牲にすることのできる、浅ましくも強靭な精神……。●●●、きみは痛いのは嫌いかい?」

 ぼくは答えた。

「いえ、別に」

「この生活が嫌いかい?」

「嫌いでは……ないです」

「金は欲しいかい?」

「はい、とても」

「なぜ?」

「金があれば、両親が喜ぶから」

「いい答えだ。だが、それだけかい? まだなにかあるんじゃないか? 金以外に、欲しいものが」

「欲しいもの?」

 金以外に? そんなこと、考えたこともない。

「嘘はよくないね」

 突然、叔父の手が伸びてぼくの頭を掴んだ。獣じみた強さだった。痛みに呻くが、手はむしろ強さを増してぼくを締め付ける。手先までしびれて指一本たりとも動かさせない。

 叔父の両目がじっとぼくを見据えている。

「誤魔化しは通用しない。わかっているね? 本当のことを云いたまえ。それともまだ気づいていないのかい? 生まれつきの忍耐が強すぎたのかな。だけど、そろそろ気づくべきだよ。きみはもう知っているはずだ。心の奥底にある欲望を」

 彼の表情は逆光になって見えない、目だけが爛々らんらんと輝いている。

 ぼくは唐突に理解する。

 これが今回の試験か。

 先程までのやり取りとは壓力プレッシャーが段違いだった。これはきっと、「答え」が必要な質問だ。叔父の気に入る「答え」が。

 だけど、やはり曖昧な質問であることには変わりない。なんと答えるべきだろう? ぼくはもう一度彼の問いを思い出す。ぼくが欲しいもの。金でもなく家族でもなく、余るほどの食べ物でもない。それ以外のもので、ぼくが、欲しいもの……。


 不意に、ぞわりと、からだの奥でなにかが動いたような気がした。


 それは巨大な、長年動かずにいたせいで岩と区別がつかなくなった巨獣のような、そんな類のなにかだった。それが叔父の求める正解なのか、自信はないけれど。

 それは人の名前だった。

 ぼくはその名を口にする。

「そうだ」

 叔父は微笑んだ。

「それこそが欲望だ」

 ぼくの頭が、彼の手から解放される。

「きみの唯一の幼馴染。家族以外の唯一の繋がり。ただひとり、きみに強い感情を向ける女性……たとえそれが蔑みであったとしても……彼女にとってきみが特別であるように、わたしにとってきみが特別であるように、きみにとっても、彼女はまた特別であるはずだ。そうだろう?」

 そうなのだろうか?

 また心の奥で、感情が動く。

「なあ、●●●……正直に云えよ。きみは、彼女をどうしたい?」

 どうしたい?

 ぼくは……彼女を……彼女に……。

「傷つけたい」

 ふいに、言葉が、水底からあぶいてくるみたいに、口かられた。

なぶって、虐めて、さいなんで……。ぼくに向けてしていたことを、彼女自身が経験したとき、彼女がどういう顔をするのか見てみたい。泣くのか、怒るのか、悦ぶのか……それをひと通り確かめたあとで、もう一度全部をぐちゃぐちゃに踏みにじりたい」

「それから?」

「それから、」言葉は止まらなかった。この衝動が何なのか、まだぜんぜん分からないまま、勝手に口から垂れ流されていた。不思議に予感があった。きっとぼくは、決定的ななにか、生まれる前から知っていたけどずっと見落としていたなにかを、いま発見しようとしている。このまま言葉を吐き続ければ、それはきっともっとはっきりするはずだった。

「傷つけられたい。彼女がいつもぼくにしている以上に。もっと苛烈な暴力で、もっと残酷な言葉で、ぼくの心とからだえぐってほしい」 違う! ぼくは息を詰まらせてあえぐ。違う、ぼくが云いたいのは、こんな陳腐なことじゃない。まだ、まだだ。もっと……。

「彼女に触れたい。紫薇さるすべりの幹のようにしっとり濡れた滑らかな足に、蜂のようにくびれた腰に、卵型をした大きなおっぱいに。あの宝石みたいな瞳を真正面から見つめて、蔓水果ぐみの実みたいな赤い唇に口づけて、その中にある濡れた桃みたいな舌を思うさま吸い尽くしてやりたい。それから、それから……ああ、彼女をめちゃくちゃに犯してやりたい! 彼女のあそこに、ぼくのあそこを入れて、動きたいように動き回って、髪を後ろからひっつかんで、獣みたいに腰を叩きつけて、最後に彼女の中にぼくの精液をどばどばたくさん注ぎ込んで、そしてぼくの子供を孕ませてやりたい!」

「それから?」

「それから……それから、ぼくは彼女を壊したい。ゆっくりと残酷に、彼女の美しさを根こそぎ全部奪い取って、彼女が彼女として在る理由をことごとく塗りつぶして。舌を引き抜いて唇を噛み千切ろう。目をくり抜いておっぱいを焼き潰して腰を真っ二つに折り裂いて手足の骨をひとつひとつ丁寧に砕いていこう。そうして生まれた子供はみなし児にしてしまうんだ。彼は母親の美しさをなにひとつ知らず、部屋の隅で膝を抱えながら育つんだ。ぼくみたいに……ぼくなんかのように!」

 云っていることが無茶苦茶だった。ぼくは彼女と打炮セックスしたいのか? それとも凄惨極まりなくぶち殺してやりたいのか? だけどなぜだろう、いまのぼくにとって、その相反する衝動は同じもののように思われるのだ。

 そしてぼくは理解する。

 そうか。

 そういうことだったのか。

「つまり、」その声はかすれていた。「つまりぼくは彼女を独占したいんだ。彼女の美しさとか、無邪気すぎる残酷さとか、頭の良さとか、思い込みの激しさとか、気の強さとか、そういうすべてを理解して把握して、なにもかもを自分の思い通りにしてやりたいんだ。彼女のすべてを、壊すも愛でるも、ぼくの好き勝手にしたいんだ。そうだ、ぼくは彼女を所有したい。ぼくは彼女を支配したい。ぼくは……

「いいぞ!」

 叔父は手を打って叫んだ。

「そうだ。それが答えだ。素晴らしい! 喜べよ、きみ。それが愛だ。きみはいま、愛を知ったのだ。思いやりだの気遣いだの与えあいだの、そんなまるで用を為さない上っ面の美徳をすべて剥ぎ取った、心の根源から沸き起こる他人を所有したいという気持ち。そのあけすけな情欲、暴力的な欲望、どうにもならない劣情こそが、真の愛だ。わかるかい? いや、わからなくてもいい。どれだけの言葉も、その胸の激情に比べれば単なる言葉遊びさ。ああ、わたしの目に狂いはなかった!」

 叔父はぼくの背を叩く。

「合格だ。合格だよ、きみ。きみは見事なまでに、わたしの期待どおりに育ってくれた。きみの父親……あの屑の家できみを見たとき、ぴんときたものさ。あらゆる幸福を諦めきったその瞳、どんな暴力も受け止めて、しかしなお屈しないそのしなやかな精神力……だが唯一、がたりなかった。底辺から成り上がり、なにかを手に入れたいと望む強い気持ちが……。だから彼女を呼んだのだ。きみの欲望を育てるための餌として」

「餌?」

「そうさ!」

 叔父は快活に答えた。

「信じられないかい? たぶんきみはいままでずっとこう思っていたんだろう。自分は、あの幼馴染の当て馬なのだと。自分は、彼女の能力を引き立てるための添え物にすぎないのだと。違う、違うのだよ、きみ。。家族以外に、きみと話す唯一の存在。その優秀さできみの劣等感を煽り、その美貌できみの情欲を搔き立てる。もくろみどおり、きみはいま自覚した。本当はずっと前から、無意識に気づいていたんだろう? 半年ごとに手酷く詰られながら、その実ひどく興奮していたことを。わたしが知らないとでも? ふふふ……そうさ。村人にきみたちを迫害するよう命じたのもわたしさ。外部との繋がりは絶つ必要があった。余計なことに気を逸らせないために。まあ、きみたちはもともと嫌われていたから、仕事は楽だったがね。そしてきみは日々の無視と暴力と理不尽に折れることなく、むしろそれらを友として、そしていま、自身の鮮烈な欲望を自覚するに至った――まるで昔のわたしのように!」

「それで、どうなるっていうんです?」

 ぼくはなぜだかいらいらしていた。結局彼はぼくをどうしたいのか、それが全然わからない。その物言いが不用意にすぎることを自覚はしていたものの、不思議と恐怖はわいてこなかった。なにかが変わったのだ。節目が過ぎたと云ってもいい。叔父はもう、ぼくの絶対の権力者ではなくなっていた。それが証拠に、彼はぼくの無遠慮な物言いにも上機嫌なまま、むしろおどけたような口調で喋った。まるで長年の友人にでもするみたいに。

「仕事さ」

「仕事?」

「そう。きみは仕事をするのだ。いまこの国の労働力はひどく落ち込んでいる。だけど相変わらず出生率は増えてくれない。だから、効率のいい労働が必要となった。いままでと違う、まったく新しい労働の形が。だけどね、きみ。それは誰にでもできるものじゃないのさ。やることは単純、だけどそれゆえにひどく退屈で、またある理由から、とても心労が多いんだ。並みの精神ではきっと、数日も耐えられないだろうね。……きみのような強靭に育った人間でなければ」

「それで、」

 とぼくは云った。

「それで、その仕事をすると、ぼくはどうなるんですか」

 叔父は、まるで贈り物をそっと差し出すような感じで云った。それはぼくを踏みつけるときの彼女の口調にも似ていた。

「まずは金だ。一生使いきれない程の金。それで気ままに暮らすのも、わたしのように事業を始めるのも、あるいはあの家族を――その必要があるのかは疑問だが――養うのも、きみの自由だ。それからきみの一番欲しいもの、あの高慢で賢しらな小娘も、もちろんきみのものになる」

「彼女を悪く云うな!」

 ぼくは声を荒げた。

「そもそも、いまさら金なんかで彼女がなびくわけがないじゃないか」

「おや、金で心は買えないと? きみは意外に純粋なのかい」

「そういうことじゃないさ」

 人の心なんて金次第。そんなことは分かっている。それこそ、彼女を見れば。

「彼女は他でもない、あんたに心酔している。彼女の親の病気を救ったのが、あんただからだ。そう云う意味じゃ、あんたはすでに彼女の心を買っている。ぼくがいまさらどれだけ金を積んだところで、それを買い戻せるとは思えない」

「なるほど、一理ある」

 しかし叔父はにんまりと笑う。共犯者の笑み。げびた形に吊り上がる口角。

「だがそうじゃない。他人を縛る方法は、もうひとつある。それは契約――つまり法律さ。いいか、●●●。この仕事をやり遂げた人間には、望んだ人物の占有権が与えられる。平たくいえば、優先的に望んだ人物と結婚できる権利だ……契約時点で未婚、かつ労働を終えた時点で成人している人間に限るがね。ありえないと思うか? でも事実なんだぜ……。まぁ、加えて双方の合意も必要になるが、なに、それはわたしが立ち合い人になってやろう。わたしが命じれば、彼女が厭と云うはずもないだろうからね」

「……やっぱり、なんだか気に食わない」

 ぼくは云った。

「それじゃまるで、ぼくがあんたから彼女をめぐんでもらうみたいだ」

「そのつもりで云っているんだが?」

 叔父は眉を震わせる。

「おい、きみ。少しそれは傲慢がすぎやしないか。おまえはまだ、ただの餓えた、なにも出来ない、ちょっとばかし言葉を操れる小僧でしかない。欲望はただ吐き出すだけで叶うものではないぞ? いっぱしの口をきくのは全てを成し遂げてからにしたらどうだ」

 冷水を浴びせられた気分だった。叔父とぼくとの格差が蘇り、思わず跪きそうになる。だがそれを止めたのは、ほかならぬ叔父だった。彼はくずおれようとするぼくの腕を下から支えて、また立たせようとする。

「こらこら! そういうことはもう止めなさい。気にするな……自覚した欲望の熱にのぼせたのだろう? そのくらいの増長、罰を与えるほどには値しないよ……。さあ、立て。しっかりしなさい。これからきみに待っているのは、栄光の未来だ。地べたではいつくばっていた時代はもう終わるのだ。あの小娘がわたしのお下がりだからって、それがなんだというんだ? 愛するひとを手に入れられる、それで充分だろうが! さあ、こちらに来て、もっと詳しく話をしようじゃないか。仕事の内容のこと、『工場』のこと、複體のこと、短縮労働のことを――『十七時です! 本日の業務は終了です!』

 面具マスクの声がぼくを現実に引き戻した。

『広間で点呼を取ったのち、退勤してください。お疲れさまでした』

 ぼくは顔を上げる。

 輸送帯コンベアは止まっていた。

 面具マスクは十七時三十分を示している。

 きょうの労働が終わった。

 すべてまったくいつも通りに。

 無心に動かし続けた両腕はずしりと重い。だが心はむしろ軽くなっている。

 過去を思い出すたび、そうだった。

 この作業……永遠とも思える……それから、四人の「ぼく」との奇妙な日々……それらは決して無駄ではなく拷問でもない。

 過程なのだ。ぼくが手に入れるための。

 金。政府から支給される年金。

 立場。この国の若者にあまねく与えられる労働の義務をいち早く脱し、さらに国に奉仕した名士として名を馳せることができる。

 それから……彼女だ。複體による短縮労働者に許された特権に基づき、彼女が生きている限り、労働を終えたぼくは彼女を所有することができる。もちろん、それまでに誰かと結婚しているかもしれないし、あるいは卵子を誰かに提供しているかもしれないし、子供だってひとりふたり生んでいるかもしれないが、そんなことは問題ではないのだ。彼女をぼくひとりが独占できる、その特権に比べれば。自死など叔父が許さないだろうし、また彼女もきっとこの八年で学んでいるだろう。ぼくがなにを手に入れ、彼女になにを与えるかを。

 ぼくは彼女の名前を確かめる。

 それは幼馴染。

 それは同い年の少女。

 それはぼくの欲しいもの。


「……玲麗リンレイ


 間違えようもなく憶えている。


 ※


 来た道を逆に辿り、広場で点呼を受けたあとに終礼、電梯エレベータでの静寂を経てぼくは工場の入り口にたどりつく。ベルの音。開く扉。進み出た廊下の左右には見慣れた「ぼく」たちの頭。労働を終えても生活は奇妙な悪夢を見続けているが、それがぼくにとっての日常だった。壓力ストレス値上昇の警告はない。

 十八時一分。ぼくは部屋へと帰り着く。

 夕食は蛋包飯オムライスだった。半熟の卵の上には番茄醬ケチャップでご丁寧に愛心符號ハートマークが描いてある。なんの冗談だ? ほかに、馬克杯マグに入った玉米湯コーンスープ表籤ラベルの剥がされた啤酒ビールが一本。ぼくはそれらを片端からかっこむ。周りの「ぼく」たちが立てる音はもう気にならない。啤酒ビールは半分だけにする、それで充分酔えるから。

 十九時三十二分。揃って厠所トイレ

 十九時三十六分、歯を磨く。朝と同様、一本一本を丹念に磨き、最後に嗽薬で口をゆすぐ。目の覚めるような薄荷の香り。

 十九時四十五分に着替えて淋浴シャワーを浴びると二十時には寝室だ。

就寝までの一時間、ぼくは日本の連續劇ドラマを見る。節目チャンネルには卡通アニメもあるが、ぼくは正直好きではない。現実感のまるでない薄っぺらな物語。あれを楽しむ人の気が知れない。

 ぼくは恋愛ものが好きだ。どれだけありがちでも構わない。出会った男女が、様々な障害を経て結ばれる。画面の中では女主角ヒロイン接吻キスをしている。その姿にぼくと玲麗リンレイとを重ね合わせる。彼女の唇はどんな感触だろう?

 女優の顔がもっと彼女に似ていればよかった。しかし女主角ヒロインの顔は誰もかれもが白すぎる。そういうのが流行なのか? 彼女みたいにもっと日に焼けた女優はいないのか。腰ももっとくびれているほうがいいし、お尻だってもっと大きいほうがいい。だけどそれは贅沢だと分かっているから黙っている。

 ふと、ほかの「ぼく」たちのことを考える。彼らはいま何をしているのだろう、ぼくと同じように連續劇ドラマを見ているのだろうか? 女主角ヒロインの顔のことを考えながら? それとも……。

 ……なんて、たわいもない空想を遊ばせるころには、就寝時間が近づいている。

画面では主人公が女主角ヒロインを追っている。誤解を解こうとしているのだ。彼は追いつき、想いを伝え、そして女主角ヒロインの愛を手に入れる。あるべき理想。石くれを積み上げる、きょうの労働と栄光の未来、つまりあと四年先のこと。底辺を生きるぼくがすべてを覆すための唯一の道。だんだん頭が重くなってくる。電視機テレビが消え、照明がゆっくりと落ちていく。

 玲麗リンレイはいま何をしているのだろう? 叶うならきょうは彼女の夢を見よう。一年に一度すら会えないぼくたち、だからせめて夢の中くらいは。


 紀元三○○年七月七日が終わる。

 すべてまったくいつも通り――でも、無限ではない一日の終わり。



 ふと夜中に目が覚めた。

 天井に時刻表示はない。あたりも静かだ。つまり、起床時刻ではない。

 ……なんだろう、この感じは。

 なにかを忘れているような。

 それも取返しのつかないなにかを――

 生まれた疑問はしかし、すぐ訪れた強い眠気へと溶けていく。


 >> 記述終了:

 精神分數メンタルスコア八一三 状態ステータス・良好



           ※Notice!※

      『統體』による外部入力が確認されました。

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