ぼく-3による記述

〈〈

 

 五人のぼくがこの部屋にいる。数にはぼく自身も含まれているから、つまりぼくを除いてほかに四人、余計なぼくがいるということになる。



 ぼくは十八から人形ヒトガタ工場で働いていて契約期間は四十年、五人で分担しているから実際のところは八年で、それもきょうで中間地点を折り返した。昨日の仕事後、面具マスク姿の班長がやってきて、「きみは実によくやっている、ここまでたない者は多いのだ、引き続きこの調子で続けなさい」と噪音ノイズだらけの人工音声で褒めてくれたけれど、それを聞いたぼくの心には特になんの感慨も湧いてこない、だってそうだろう、翌日もその翌日もそのまた翌日も続くのっぺりと継ぎ目のない開け放した蛇口みたいに相似形な日々、そのいちいちの節目に心を動かす必要性がどこにある? 大事なこと、それは一四六○日後に訪れる契約終了の瞬間、つまりそこに至るまでの一日一日はただの無用な石くれで、崩れないよう気を払って積み上げること以外になんの意味もない。石積みの塔の先が天に触れる瞬間こそがこの日々の本質であり希望、ぼくはそれをいつでも忘れずにいる、日常がどれだけぼくを埋め立てようと。


 そう。

 昨日までは確かにそうだったのだけれど。


『われわれの記憶は偽物だ』


 紙片にはそう書かれていた。

 

 ※

 

 それを見つけたのは今朝のこと。

 起床時間は午前五時四十五分、雑踏のざわめきが爆音で響く膠囊艙床カプセルベッドの中で、ぼくは必死に枕元の按鈕ボタンに手を伸ばして警示音アラームを止める、ゆっくりと点灯、次いで強い茉莉花ジャスミンの香りが狭い空間に立ち籠めて、つまり二度寝は封じられていた。それ以上布団に拘れば加熱器による強制覚醒相フェーズが待っているので、ぼくは仕方なく手を横に滑らせ、掃描スキャンを始めようとする。

 かさりという音。

 手に異物感。

 首をめぐらすと、警示音アラーム停止按鈕ボタン掃描スキャン装置の間に、なにかが落ちていた。

 それは一枚の紙片で、

 殴り書きで短い文章が――

 咄嗟にぼくは、それを掃描スキャンを開始する。

 短い確認音、低く唸りはじめる寝床。ぼくは仰向けのまま気を付けの姿勢になってじっと息をひそめる。

 瞑想方法メソッドを思い出す。鼻から吸った息を吸っていきましょう、ゆっくり、ゆっくり……息がおなかに入るにつれ、あなたの全身がどんどん軽くなっていきます――

 金属質の様々な音が空間内を飛び交ったり、こすった下敷きを近づけられたような感覚が遠ざかったり近づいたりするなか、ぼくは呼吸を整える。

 いつの間にかあった紙片。その冒頭に書かれていた文字。

『われわれの記憶は偽物だ』

 ……知られてはいけない。

 なぜだかそう直観していた。

 目に見えない感應器センサが犬のようにぼくの体を嗅ぎまわり、異常を炙り出そうとする。瞑想は続く。全身がどんどん軽くなっていきます、ふわふわ、ふわふわ……脱力してとても気持ちがいい、そうですね? お腹から吸い込んだ息は血液をめぐってあなたに熱と活力を届けます。でも無理はしないで! 八割くらいまで吸ったら、今度は息を口からゆっくりと吐いていきましょう。さあ……。

 出し抜けに明るい効果音が鳴りからだが硬直、だが天井に映る「OK」の文字を見てぼくは大きく安堵の息を吐く。ひとまずは安心だ。天井の文字が「數據データ送信中…」に置き換わったのを確認してから、ぼくはそっと手を伸ばして紙片を掴み、横にある小物入れに滑り込ませた。ここは定期清掃の範囲外……の、はずだ。確証はない。そこにはほかに、日記用の雙環筆記本リングノートと簡単な筆記具、電視機テレビを見るときに使う耳機イヤホンといったこまごまとしたものが押し込められている。

 ……筆記本ノート

 紙片の言葉には続きがあった。

『日誌を見ろ』

 日誌とは、これのことだろうか? そういえば、紙片もどうやら同じ筆記本ノートを一枚破りとったもののように見える。

 だが、それに手を伸ばそうとしたのと同時に、天井の画面が再び「OK」に変わった。ロックが解除される。音を立てて蓋が浮くとひやりとした空気が隙間から流れ込んで、わずかに残ったぼくの眠気を完全に吹き飛ばす。

 ぐずぐずと読んでいる時間はなさそうだった。

 ……仕方がない。夜の娯楽時間のときにでも、ゆっくり読もう。

 蓋が視界から消えるとその先にあるのは白一色の潔癖な天井、身を起こせば部屋には均一な光が満ちていて、風がからだを撫で、音楽が耳に忍び入る。軽快な速度テンポの、鼻にかかったような女の歌声。

 快適で完璧な朝だった。すべてまったくいつも通りに。

 ……だがぼくの胸の裡には疑念がわだかまっている。

 見慣れぬ紙片。目に飛び込んだその一文は、いやでも脳裏に焼き付いていた。

 身を起こして左右を見回す。同時に「ぼく」たちが起き上がるのはいつも通り。右に並ぶ四つの頭。だが表情は見えない。ぼくと同じく、一斉に右を向いているからだ。どれだけ素早く左右を見ても、彼らの表情を捉えることは適わない。

 いまぼくは、どんな顔をしているのだろう。

 そこまで考えていまさら気づいた。。寝室、置物櫃ロッカー、浴室……洗面所にすらも。

 気が狂いそうになる、一瞬だけ。だけどそれは本当に一瞬のことで、過大な壓力ストレスを感知した脳が反射的にぼくの感情を關閉カットオフ、跳ね上がった心臓はたちまちいつもの律動を取り戻す。それはぼくの子供のころからの特質だった。いや……もしかしたら毎日昼食後に行われる瞑想訓練のおかげか、あるいは毎食後に服用する薬のせいか、あるいはそれら全てか、それ以外のなにかかもしれないが。ともかく自分を殖やすということはつまり日々襲い来る不合理や非現実の連続で、だからいまさら感情の控制コントロールなんて造作もない。

 ……たぶん。

 やわらかい女性の声が大音量で部屋に響く。

『おはようございます。社員のみなさま、昨日はよく眠れましたか。本日は紀元三○○年七月七日、星期四もくようびです。休日まであと二日、きょうも一日元気にがんばりましょう』

 七夕か。

 思わずつぶやいた声に、四人の「ぼく」たちの声が重なった。

 

 ※

 

 起床時間は午前六時すこし前。蒸気による洗体を済ませて着替えると六時十六分、いつもより一分遅い朝食となった。朝食は少し焦げた牛角麺包クロワッサンと分厚い火腿ハム、それから鶏蛋ゆでたまご、そして清湯コンソメスープだった。きょうは西洋風。馬克杯マグにはたっぷりの珈琲コーヒーが湯気を立てていて、ぼくらはなるべく音を立てないようにそれを飲む。

 厠所トイレ、洗顔、着替え。螢幕バイザー越しの視界に「早安おはようございます!」の文字。

 七時に完全装備で部屋を出る。くねくねした廊下を通り、工場の入り口につくと、ぼくと「ぼく」たちは別々に電梯エレベータに乗った。

 時刻は七時十五分。

 扉が閉ざされる。

壓力ストレス値が上がっています』

 ああ、くそ、わかってるよ。

 面具マスクの警告に心の中で毒づいた。

 ここまではよかった。準備にかまけて、なにも考えずに居られたから。この悪夢じみた日常はそれでもぼくにとって慣れ親しんだものであり、いつもの流れに身を任せているかぎり、ぼくはまだ、いつものぼくでいられたのだ。

 だがここでは駄目だ。

 例行ルーティンだらけの毎日に唯一ぽっかりと空いた空白。

 行くべき場所も、こなすべき作業も、与えられた余暇もなにもない、そのことがどうしてもたまらない。特に、きょうは。

 いやでも思考は流れてゆく。

 紙片に。

 誰がどうやって、あれをぼくの寝床に入れたのだろう? 清掃機器人ロボットの誤作動だろうか。いや、ありえない。紙片が日中の清掃後に入れられたのなら、寝る前に気づいていたはずだ。枕元にあったのだし、寝床はそんなに広くもない。ならばあの紙片が投げ込まれたのはぼくの就寝中? とすれば、それをした人物は必然的に、就寝中の膠囊艙床カプセルベッドを開ける権限を持つもの……つまり区長とか副支配級の人間であるはずだった。だとしたら、いったいなんのために。

 妙な妄想は、この狭くて暗い空間のせい。そう前置きをして次に進む。

 たとえば……上層部でなにかが起きているとか? 内紛? あるいはひっそり反乱でも企てているのだろうか。そっちのほうが可能性は高そうだ。つまりええと、この悪夢めいた工場には重大ななにかが隠されていて、誰かがそれに気付いた。その真実を広め、蜂起を促すためにあの紙片を無差別にばらまいているとか、そんなところ。

 乾いた笑みを漏らす。我ながら馬鹿馬鹿しい。ただの子供じみた陰謀論――

 

壓力ストレス値が上がっています』

 胸騒ぎがひどい。

 想い出をたぐった。ぼくの故郷について。実家は貧しい漁村のあばら家。怪我で漁に出られなくなった父親、振るわれる暴力、白い眼を向ける村人たち、ちっともいい記憶じゃないけどちゃんと思い出せる。それにぼくにはちゃんと希望もあった。叔父と幼馴染。ぼくをここへと導いたふたり。叔父は権力によってぼくをこの労働に誘い、そして彼女はぼくに動機をくれた。忘れるはずもない……『儀式』の甘美な痛みも、『屋敷』での謁見も。違和感はない。間違えようもない。むしろ思い出すほどに鮮明に、彼女の幻影は目の前に浮かび上がる。

 少年のような華奢な体躯。

 無邪気に開かれた大きな瞳。

 笑うとのぞく愛らしい八重歯。

 それは幼馴染。

 それは同い年の少女。

 それはぼくの欲しいもの。

「……銘華ミンファ

 間違えようもなく憶えている。

 胸のざわめきが鎮まる。だが完全には消えてくれず、鉛のように未練がましく腹の奥にわだかまっていた。なにかを忘れたままでいるような感じ。忘れたことだけ覚えているのだ、しかもとても重要ななにかを。

 到着を告げるベルの音。遅れて開く電梯エレベータの扉。

 眩しい光に目を細める。すぐさま螢幕(バイザー)が明度を調整。淀んだ紅茶色の視界には、無数の労働者たちが蠢いていた。

 すべてまったくいつも通りに。

 ぼくは歩き出す。習慣に後押しされるまま、周りの労働者たちと同じく、重たい安全靴を引きずって。途中、崩我族とすれ違う。相変わらず殭屍ゾンビみたいな動きをするやつらだ。か細いうめき声がきょうはやけに気に障った。殴ってやろうか?

『警告。暴力行為は禁じられています』

 舌打ち。んなこた分かってるよ。

 七時二十八分、作業区分「κ―15」作業区に到着。その前には赤い徽章バッヂをつけた班長が警棒を持って立っていて、ぼくの胸についている號碼牌ナンバープレートを検分する。ぼくと違う身分の人間。もちろん管理者じゃない、もっと下っ端だ。彼らにはどの程度の権限があるのだろう? ぼくの寝床に紙片を投げ込む程度の自由はあるだろうか? なにか様子がおかしいと思われたのだろうか、面具マスクがだしぬけに甲高い電子音をたてて班長と通信する。ばれたか? 身構えそうになったが、しかしそれだけだった。班長は羊でも追うように、警棒を振ってぼくを追い立てる。

 七時三十分、朝の朝礼。

『本日は紀元三○○年七月七日、星期四もくようびです。疲れも溜まっている頃でしょうが、最後まで集中力を切らさずにまいりましょう。本日の作業区分κ―15は人形製造ラインでの組み立て作業です、地道な作業が続くため定期的な伸展ストレッチを忘れないように。居眠りにも注意ですよ! きょうの花は菖蒲アヤメ、花言葉は信じるものの幸福、です。休みまであと二日、もう一息がんばりましょう!』

 軽快な行進曲マーチと共に流れる廣播アナウンス。それが終わると次は社訓の斉唱だ。「きょうの労働、栄光の未来」。理念もなにもない一節の連呼。ぼくは絶叫する。胸の不安を消すために。きょうの労働、栄光の未来。きょうの労働、栄光の未来。なるべく明るいことを想像する。使い切れないほどの金、城市シティの摩天楼、ぼくをうっとり眺める婚約者。きょうの労働、栄光の未来。きょうの労働、栄光の未来。どれだけ叫べど不安は消えない。ますますぼくは大声になる。きょうの労働、栄光の未来。きょうの労働、栄光の未来。

 朝礼が終わった。

 喉が痛む。面具マスク吸管ストローから何度も水を飲む。警告がないのが不思議なくらい、精神状態は不安定だった。それとも、自分で思っているほど壓力ストレスは大きくないのだろうか? そんな気はとてもしなかったけれど、ただ気休めにはなる。

 列が動き出す。ぼくも前の人に続く。進む先には開かれた鐵門シャッター。作業着の群れがぞろぞろと吸い込まれていく。ぼくもそのひとりになって歩み入る。工場の中へ。


 七時四十五分、作業開始。

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