參章

ぼく-Σによる記述


〈〈

 

 目を開いた。

 強い光。

「ああ、だめですよ! そんなに急に眼を開けちゃ」

 云われたときにはもう、反射的に瞼を閉じていた。

 溢れだした涙が頬を濡らす。

「そうです。いきなりは刺激が強いですからね。何度か目を慣らしながら、慎重に開いてください。そう……そうです。瞬き、多めにしてくださいね」

 あれが、ぼくなんですか。

 呟いた声は驚くほど掠れていた。錆びた吉他ギターを落としたみたいだった。

「ええ、ええ……そのことは後でいくらでも説明しますから。まずは落ち着いて……」

 なだめるような中年男性の声と共に、肩に両手が置かれる。そうされて初めて、息が上がっていることに気が付く。跳ね上がった心臓。落ち着きを取り戻さなければ。でなければ精神分數メンタルスコアが……いや違う。だめだ、まだ混乱している。

 深呼吸。

 思い出す。記述にあった瞑想の方法メソッドを。肺に満たした息が、暖かい流れとなって全身に広がってゆく想像イメージ

 ようやく目が慣れた。

 小さな医務室のような部屋。背もたれのついた椅子に、ぼくは座っている。傍らで白衣を着た男性が忙しく動き回っていた。顔を濡れた脱脂綿で手早くぬぐわれる。鼻をつく酒精アルコールの匂い。

「まだ現実感が乏しいでしょうから、無理に動かず、まずは自分の周りの状況をひとつひとつ把握してください。……記憶は思い出せますか?」

 ぼくはうなずく。

「体調はどうですか? どこか気持ちの悪いところはありませんか?」

 今度は首を振った。強いていうなら、からだがふわふわと浮いているような感じがするくらいだった。あと、頭も重い。まだ夢のなかに居るような感じ。

「あと十分ほどすれば、ちゃんとこれますよ」

 目の前にいる彼はそう云って、笑った。


 ※


 なんとなく、まだ信じられない。

 だからぼくは、さっきの質問を馬鹿のひとつ覚えのように繰り返す。

「あれが、ぼくなんですか」

「ごく一部を模擬エミュレートしたものですけどね」

 簡素な面談室。白衣の彼は、差し向かいに座っていた。一見するとまだ若いが、笑うと口の端に年相応の皺が寄る。どこかで見たことのあるような顔。だけど、ぼくと彼とはきょうが初対面のはずだ。まだ記憶が混乱しているのだろうか。

 知識としては知っていた……ぼくたち自身の成り立ちについては。だけど、こうして実際に体験してみると、その意味の持つ重みが、まったく違って感じられる。

「そう。それこそがこの企劃プロジェクトの意図するところですよ。わたしたちが忘れがちな自身の来歴を、改めて突き付けたかったんです」

 白衣の彼は手に持った病案カルテに忙しなくなにやら書き込みながら、嬉しそうに喋った。大きな瞳が、狂気にも似た熱情を帯びて輝く。

「でも、やっぱり分からないな……あの無数にいる『ぼく』たちが、つまりこのぼくだなんて、実感がわかない」

「でも、あなたは見たでしょう? 実際に」

 言葉に詰まる。

 確かにその通りだった。彼らひとりひとりは、確かに生きていた。均質化されたぼくたち。与えられた刺激に一様な反応を示し、情報が閾値を超えて発火したのちは光の奔流となって、ぼくの入力をより広範に伝播し絡み合う。

「あの世界を駆け巡る、発火と伝播の網路ネットワーク。無数に重なりあういくつもの記述。そのから立ち現れる自我こそ――あなたの、そしてわたしたちの起源なのです」


 生命記述生命ライフログライフ

 情報生命としての、ぼくたちの名。

 

 いつそれが起きたのかはしらない。気づけばぼくは「ぼく」として生まれていた。気づいたときには、過去と現在がすでに用意されていた。あるいは、今しがた体験した「ぼく」たちの記憶にあったような国家ぐるみのなにかが、本当にどこかであったのかもしれない――減少した労働力を複製人クローンで補う。そんな計劃プロジェクトが。いや、それもまた、真実だとは思われなかった。体験したぼくにはわかる。彼らの労働はまったくの無意味なことが。なんせ彼らは、工場でせっせと自分自身を作っていたのだから。彼らが作っているという有機部品による人形ヒトガタ、それは完成すると機器人ロボットによって倉庫へと運ばれる。そして各「ぼく」たちの部屋へと配属されるのだ。暴動によって死んでしまった「ぼく」たちの代わりとして。

 ぼくは聞く。

「彼らは実在するんですか?」

「もちろん」

「だとすれば、どこに?」

「ここに」

 彼が指さしたのは――ぼくの胸。ゆるやかな浴衣ガウンをまとった、自身のからだ

「茶化さないでください」

「それが定説でしょう! あなたもご存じの通り。先ほども云いましたが、われわれを構成するのは無数の記述であり、われわれの意識は、それらが絡み合い、伝播する過程で生成される。われわれは自身の内部に働きかけて変化を促す存在であり……またその変化によって描写される存在でもある」

「知ってる。知ってるさ!」

 ぼくは頭を掻きむしる。嬉しそうにそれを見ている彼が気に食わない。くそっ、やつにとってみればきっと、いい數據データが採れたくらいに思っているに違いない。

「じゃあ、だったらぼくが見ているこの部屋は、いったい誰の記述なんだ?」

「あなたはどうやら、ふつうの人よりも感受性が豊かなようですね……まだ少し、影響が残っているようだ」

 彼はぼくの目を見つめ、まるで幼子に聞かせるように、ゆっくりと囁く。

「いいですか。世界は世界です。それはわれわれの外に、厳然とした別の事象として存在します。われわれ全員が共有する概念空間に、情報として記述されているのです。色や形や位置や重さ……そうした情報の組み合わせとしてね。我々は我々の感覚器官でその情報を取り込み、変換して内部にいる『彼ら』へと入力する。その反応として『彼ら』は記述を生成する。それは刺激に対する単純な反応で、その組み合わせによってわれわれの意識は定義されている……」

 ぼくはいら立つ。堂々巡りだ。結局のところそれは、ぼくたちが常識として知っている知識の焼き直しだ。違うのだ、ぼくが云いたいのは、そういうことじゃなくて……。

 ノックの音。

「どうしたの? なにかあった?」

 扉の向こうで誰かが云った。不安気に揺れる声。

 ぼくはため息をつき、顔を両手で覆う。もういい。こんな謎々じみたやり取りをしたところで、こいつを喜ばせるだけだ。

 顔を上げると、続けますか? とでも云いたげな顔でぼくを見る彼がいる。舌打ちを押し殺し、ぼくは扉の方を向いて云い返す。


「ああ、なんでもない! ちょっと驚いただけさ。……すぐ行くよ、翠如ツェイルウ

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