「なんだか不機嫌だね」

「……疲れてるだけだよ」

 昼下がり、ぼくと彼女は、公園で遅い昼食を取っていた。

 明るい日差し。駆け回る子供のはしゃぎ声。自転車のベルが鳴る涼しげな音。手にもった紙杯コップから立つ湯気の暖かさ。頬張った三明治サンドウィッチの味。透き通るように白い彼女の肌と、大きな黒檀の瞳。

 全てが鮮やか過ぎて……それらがまだ夢なんじゃないかと、未だに思うぼくがいる。

 彼女から聞く限り、ぼくが『企劃プロジェクト』とやらに参加していたのは、わずか二時間ほどだったらしい。その間にぼくは、途方もない数の「ぼく」たちの人生を追体験させられたわけだ。胡蝶の夢、という言葉が脳裏をよぎる。

「ごめんね。無理にお願いしちゃって……。教授がどうしても被験者モニターが欲しいって云うから」

 いいんだ、と謝る彼女の手を遮る。それでも彼女はどこか心配そうだった。そんなにぼくの顔は沈んでいるのだろうか?

 あれは、美大に通う彼女の研究室ゼミが今度の八月に予定している展示インスタレーションのひとつだった。その意図はさっき厭というほど聞かされた通りだ。

 ――わたしたちが忘れがちな自身の来歴を改めて突き付けたかったんです。

 余計なお世話だ、と思う。

 知らないでいるなら、きっとそれで良かったのに。おかげでぼくは、せっかくの休日だというのに暗い顔をして、彼女を心配させてしまっている。

 ぼくはいつまでも噛んでいた三明治サンドウィッチの一口を飲み下して、彼女のほうを向いた。

 もうやめよう。切り替えよう。

「心配かけてごめん。もう大丈夫だ」

「……本当に?」

「ああ。さすがに衝撃が強すぎたけどね、あれ」

 そういうと、彼女の顔がぱっと明るくなった。

「本当?」

「ああ。まるで本当に、自分があの世界の一員になったような……そんな気がした」

「やった! 嬉しいな。作り手冥利につきるとはこういうことね」

「……きみはどこに関わったの?」

 ぼくが問うと、彼女はその細い指を唇にあてて、「ひみつ」と悪戯っぽく云う。

「でもいっちばん大事なとこだよ。ここが中途半端じゃ、みんな怖がってくれないもん」

「あれはお化け屋敷かなにかかい?」

 ぼくは苦笑する。

 ここらへんの切り替えの早さというか、残酷なくらいの無邪気さも、彼女の魅力だなと思う――それに振り回されることがしょっちゅうだとしても。

よっし! と元気よく気合を入れて、彼女が立ち上がる。裙子スカートから覗くすらりと長い足に思わず視線を取られそうになり、ぼくは慌てて目を逸らす。

「これからどうしよっか? 電影えいがでも見に行く?」

「いいね。……でも、できれば喜劇コメディとかがいいな……暗い話と怖い話は、もうたくさんだ」

 心底からそうこぼすと、翠如ツェイルウはなにそれ、と吹き出した。 


 ※

 

 ぼくと彼女は幼馴染だ。ともに一緒の村で育ち、親族の叔父の援助を受けていた。だけどそれからは別々の学校に進み、はなればなれになっていた。再会は、ぼくが大学三年生のころ。彼女は高校を卒業してから働いて学費を溜め、ぼくより二年遅れでここの街に引っ越してきたのだった。

 彼女は道に迷っていた。

「ねえ、わかる? あなた、わたしの云ってること、わかる?」

 いきなり訛りの強い言葉でそう話しかけてきたことを、未だにぼくは憶えている。ああ、忘れるものか。あれこそが運命というやつだったのだ。彼女もまた目を見開いて驚いていた。それはそうだろう。進退きわまって声をかけた人間が、なんと同郷の幼馴染だったのだから。

 奨学金をもらって高校から街へ出ていてぼくと違い、彼女はずっと南部の田舎で過ごしていた。そこは未だに猪が出るような山奥で、だからこの街へやってきた彼女は、さしずめ兎のねぐらに放り込まれた亀だ。右を見ても左も見ても、いるのは自分より三倍は早く動き回るものばかり。道を見ようにもごちゃついた路地は情報量が多すぎて、歩く人々は話しかけても見向きもしない。いったいどうすればいいのかわからない――と、思いがけず見知った顔に出会った彼女は云った。涙声で。

 この街は田舎者に厳しい。ちょっとでも訛りがあると、まともに道さえ教えてくれない。街に出たぼくはそれを、厭ってほど身に染みて思い知らされ続けていた。持つものと持たざるものが必要以上にはっきりとしているこの街では、学校にいても、友人といても、街にでても、息苦しさは消えなかった。蓋のようにのしかかる閉塞感――あるいはそれは、嫉妬かもしれない。この時代、働かずに大学に通うのは贅沢すぎる行為だ。減り続ける労働人口、増えていく社会保障の負担。果たすべき労働の義務を遅延しているぼくたちは、街行く人から見れば非難のはけ口だった。いまのぼくでさえときどき辛いのだ。まだ慣れない彼女となればなおさらだったろう。

 もちろんすぐに助けたさ。同郷のよしみ? それもあるけど、正直に云ってしまうと、目の前に倒れ込んできた彼女の顔が――とんでもないくらい綺麗になっていたってことのほうが大きかった。昔からほのかな好意はもっていたけど、そのときとは比べ物にならない。彼女が声をかけた人間がみんな不親切でよかったと、この街の冷たさにはじめて感謝したい気持ちになった。

 彼女の下宿がぼくの家のすぐ傍だと知ったときの気持ちを想像できるか? 神は本当にいるんだと思ったもんだ。


 そうしてぼくは彼女を口説き……晴れていま、恋人になっている。


 ※


「いやあ、面白かったね」

 すっかり夕暮れどきになった帰り路を、ぼくたちは歩いている。

「うん、確かに良かった。ぐっすり眠れたもの」

「いびき、すごかったもんな」

 ぼくが茶化すと、ちょっとお、と彼女は、ぼくの肩を小突く。

 見たのは結局、ごくごくありがちな家族劇ホームドラマだった。まあ、彼女が寝るのも仕方ないくらいには退屈だったと思う。だけどその退屈な日常、その触り慣れた質感こそ、さっきまでのぼくが一番必要としていたものだったのだ。

「……ぼくのなかの『ぼく』たちにも、ああいう暮らしがあったのかな」

 ふと漏らした一言に、彼女が足を止める。

 ぼくはなぜだか、慌てて云った。

「いや。だって、彼らだって生きてるわけだろ。もちろん、彼らに植え付けられてるのは偽の記憶だっていうのは分かってるよ。だけど、ほら。ぼくが見た「ぼく」たちはみんな、悲惨な過去だったからさ。せめてひとりぐらいは幸せな過去であってほしかったね、って、そんなことを」

 そんなぼくの弁明は、突然の笑い声で中断された。

 彼女が笑っている。腹を抱えて。

「あっははっはははは! もう、なに云ってるの、きみ」

「なにがって……」

 あー、おっかしい。

 彼女はその長い睫毛に乗った涙をぬぐいながら、云う。

「教授が『ちょっと刺激が強すぎたかも』って云ってたからどうしたのかと思ったら……なるほどね」

「どういうことだよ」

 思わず声が大きくなったぼくを、彼女はまあまあ、と制する。

「いや、ごめん。確かにこれは、わたしのせいだね。あのさ、映画見に行く前に聞いた質問、答えてあげる。わたしが作ったのはね、記述を映像として再現する装置なの。あなたのからだから生成される無数の記述を読み取って、そこにある物語ストーリーの断片を時系列順っぽく並べて組み合わせて、そして一連の映像として模擬エミュレートする装置……云ってる意味、分かるかな。つまりあれは、例えるなら脚本の断片を継ぎ合わせて電影えいがを作るような、そんな作品ってこと。だから、別世界で生きている『ぼくたち』なんて、

「でも記述は……」

「そう、記述は記述として、確かにある。もしかしたらきみの云ったような世界が、どこかにあるのかもね。だけどそれは誰にも分からない。わたしたちに分かるのは、わたしたちの中にいる『なにか』が残してゆく無数の記述のだけで、その生成されるでも、でもないの」

「でも、だったら……」

 言いかける口元に、彼女の指が触れた。

「嬉しいよ。……わたしがこの企劃プロジェクトに参加した理由も、それだったから。わたしの中に居る、無数の『わたしたち』の記述……。ただの情報でしかない彼らに、人生を与えられたら、って」

 彼女の顔が近づく。宝石みたいな瞳、蔓水果グミの実みたいな赤い唇、ゆるく波打った明るい色の髪……褐色の肌が、街の明かりを受けてしっとりと艶めく。風が吹いた。鼻をかすめる潮の香り。

「だから、聞かせてよ。……あなたが見た記述は、どんなだった?」

 ああ、わかった。

 話すよ。

 あんまり面白いものじゃないけれど。

 だから、その……。

 もうちょっと、近くに来ない?

「だめ。またあとで!」

 ちぇ。

 ぼくたちは並んで浜辺を歩く。水平線の向こうで、大きな夕日が沈んでいる。

 踏み出した足が、透明な波を蹴った。砂浜に映る二つの影絵。ひとつはぼく。ひとつは彼女。ふたつの影が並んで踊る。

 ぼくは話した。無数のぼくたちの人生を。その大半は陰惨な記憶だったけれど、その中でもなるべく、楽しいものを選んだ。たとえば、ぼくたちが自分の記憶の矛盾に気付くところとか、一斉に蜂起して反乱を起こすところとか――

 彼女はそれを、頷きながら聞いてくれた。

「たとえばさ」

 とぼくは云う。

「なに?」

 と彼女は答える。

「いや、これは、きょうあの教授に云おうと思ってたことでもあるんだけどさ――」

 ぼくたちは、生命記述生命ライフログライフ。無数の記述から生まれた情報生命。


 だとすれば、ぼくがいま見ている光景は、いったい誰のものだろう?


「だから、それは」

 わかってるよ。世界は世界。共有される概念空間に情報としてそこにある、だろ。

 だけどさ……。

 。あの無数の記述、無数の「ぼく」たちの想い出のなかに。

 間違えようもなく、あれはきみだった。

 おかしいとは思わないか?

 だって、「ぼく」たちは与えられた刺激に、記述を返すだけの存在にすぎない。だから、彼らひとりひとりの持つ属性は、統體であるこのぼくとはなんの共通性もないはずなんだ。たとえば……そうだな。生物の細胞ひとつと、その集合である生物自体とは、別の存在であるように。仮に羊の群れが意識を持っていたとして、それがたった一匹の羊の意識と同じものであるはずがないように。あるいは、たったひとつの脳細胞の発火と、その集合から生まれる意識との間に、なんの共通点もないように。

 だけど、ある「ぼく」の想い出のなか、。それだけじゃない。彼の記憶のなかにある故郷の風景、それだってぼくの故郷とまったく同じだった。もちろん、『工場』なんて馬鹿げたものに行かされた覚えはないさ。だけど……それ以外の部分について、あまりに符合する部分が多すぎる。

 そもそもなぜ、ぼくはあの「ぼく」たちと同じ姿なんだ?

 その必要がどこにあるんだ?


 だから、ねえ。

 これは世迷言かもしれないけれど。

 ただの妄想に過ぎないのかもしれないんだけれど。


 ぼくは……ぼくたちの成り立ちってのは、実は逆なんじゃないかなあ。

 ぼくたちの外に共有される概念空間があって、ぼくたちはその情報を無数にいる「ぼく」たちへと絶え間なく入力している。その一瞬一瞬の反応の結果、つまり記述の集積がぼくたちなんだと、あの教授は云った。

 

 ぼくたちのなかにいる無数の「ぼく」……彼らのうちの誰かが自発的に起こした揺らぎを、ぼくたちが勝手に「入力」だと思い込んでいるだけだとしたら?

 その結果起きた出力は、ぼくを形作っているのではなくて、ぼくの主観を――つまり

 共有されている概念空間なんて、本当はどこにもないのかもしれない。実際のところ、統體であるぼくが見ている世界の主導権は、ぼくのなかにいる個々の「ぼく」たちが握っていて、彼らの揺らぎによる出力こそが、ぼくの目に映る世界を定義し続けているのかもしれない。つまり、ええと要するに、この世界のほうが、無数の「ぼくたち」、その一瞬一瞬の記述が重なりあったもので……。

 ふわりと、ぼくの口がやわらかいなにかで塞がれる。

 寂しげな笑顔の彼女がぼくを見つめていた。



「……そう。あなたは、そう思ってしまったのね」



 なぜそんな顔をするの?

「お別れになるのが悲しいの。せっかくあなたの想い出から出てきて、こうして会うことができたのに。せっかくこうして、いままでよりもずっとましな幸せにたどりつくことができたのに。あなたはその日常すら疑って、そうしてまた行ってしまうのね。ここではないどこかへ。……どうせ逃げられやしないのに。日常はいつだって追いついてしまうのに……いいわ……ならば行けばいい。また次の夢に。次の偽りに」

 ちょっと、待ってよ。

 なにを云っているんだ?

 ねえ。 


 玲麗リンレイ

 

 彼女は笑う。冷たい声で。


「あなた、?」

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