②
『作業が遅れています』
もう何度目かも忘れた警告。だんだん音量が大きくなっているような気がする。
調子はのっけからめちゃくちゃだった。作業自体は簡単だ。十何種類かの仕事のうちのひとつ、単純計算でもう百四十回はこなしたはずの手順。だというのに、
潰れた。
張り詰めた表面がはじけ、泡と一緒に血が滲み出す。また失敗。半ばやけくそで、右手の注射器を強引に刺そうとするが、その針先はなおも激しく暴れる肉塊に弾かれる。
『廃棄してください』
ぼくはため息をついて肉を
終始こんな調子だった。
『
ぼくは息を整える。
作業服のわきの下、知らないうちに冷たい汗が流れている。
拒絶反応。それも作業に支障が出るほど深刻な……このままではいけない。瞑想
『作業が遅れています』
だけどやっぱり不可解だ。
なんなのだ、この作業は。
ぼくはいったい、なにを作っているんだ?
『
こんな単純作業をわざわざ人の手で行わせるのも不可解だ。
知らないふりをしていた事実を直視するほどに、現実感が消えてゆく。足元がふらついた。眩暈がひどい。胸のあたりが搾られるように痛む。ここはどこで、ぼくはなにをしているんだっけ? もしかしたらこれはぜんぶ夢なのだろうか。それもとびっきりの悪い夢。
『警告。直ちに作業を再開してください』
震える手で必死に肉塊を掴む。手が習慣に沿って動くに任せる。ただそれだけでいいんだ。ただそれだけで。羊膜をやぶり肉を押さえ薬液を注入し
これでいい。
いつものようにやりさえすれば。
そう。
すべてまったくいつも通りに――
……。
…………。
あれ?
あれあれ?
おかしい。
おかしいな。うん、おかしい。
いつも通りっていつのことだ?
『作業が遅れています』
うんうん分かってる。ちょっと、ちょっとだけ待ってね。少し確認するだけだから。ええっと、なんだっけ。そうそう、この作業の話。うん、やっぱりおかしいよ。だってぼく、この作業はきょうが初めてだよね? そうだよ。だのに勘違いしてたんだ……もうずっと昔からこの作業をやってるはずだって。なあんだ! どうりで上手くいかないわけだよ! まったくもう、ひやひやして損しちゃったなあ。それならそれで、
なんで昨日のことが思い出せないんだろう。
『作業が遅れています』
いや、待て待て。そんなことあるわけないだろう? だってぼくは色々知っているじゃないか。崩我族のことも、逃げ出す作業者が後を絶たないことも。誰から聞いたかは忘れたけれど、確かに知っている。疲れて、ど忘れしちゃっただけなんだよきっと……こういうときは落ち着いて、まずは簡単なことからはじめたほうがいいな。ええと、きょうは何日だっけ? そうそう、紀元三○○年七月七日、
紀元三○○年七月七日、
あれれ?
違うっけ?
昨日って、何月何日が正しいんだっけ?
『警告。直ちに作業を再開してください』
待って待って、そうだ。思い出す順番が悪いんだよ。思考を止める癖がついているから、最近の記憶は全部ぼんやりしてるんだ、きっと。大事なこと、それは一四六○日後に訪れる契約終了の瞬間、つまりそこに至るまでの一日一日はただの無用な石くれ……自分でも今朝そう考えていたじゃないか。だからぼくが思い出すべきなのはここ数日の記憶じゃなくて、もっと昔の……そう、ここに来る前のことから始めたほうがいいに決まってる。
工場より前の記憶。それはつまり、
そうだ! ぼくの労働は確かにあの日からはじまったんだ。
あれは忘れもしない、紀元三○○年七月七日――
肺の中の息が消えた。視界は白く染まり、全身が自分の意思に反して石のように硬くなる。懲罰の電撃を受けたのだ……気づけばぼくの頬はすでに冷たい床の上。全身に残る痛みと疲労感。まるで限界まで全力疾走した直後のような。
一秒? 二秒? 電撃が流れたのはごく一瞬だろう。警告なのだから当然だ。ぼくは
すべては徒労に終わった。
彼女との儀式、叔父との謁見。そこまで思い出したあと、次に浮かんだ情景は今朝のもの、つまりそれは
疑いようがなかった。
――われわれの記憶は偽物だ。
ぼくの記憶は改ざんされている。あの紙片に書いてあった通り。
気づいた瞬間、僕は顔から
「なにをしている!」
怒鳴り声。背後に班長が立っていた。ぼくと同じ
「契約者B―55。お前のやっていることは重大な契約違反だ。ただちに別室で
いや。
「なにがおかしい!」
ぼくは苦笑する。
きっと、それも嘘だ。
「お前……お前は……」
「すみません、班長」ぼくは努めて朗らかに云った。「この度はご迷惑をおかけしてしまって。でも、ちょっと取り乱してしまっただけなんですよ、本当に……。いえ、もちろん、あなたのご指示には従いますよ。確かにぼくは検査を受けるべきです。だけど、そんなに怖い顔で、警棒を向けられるに足るほど、理性を失っているわけじゃない。わかってくれますよね? ぼくはあなたに危害を加える気も、この工場から逃げようなんて意思も、金輪際ありません。いままでのぼくの働きぶりを見ればわかるはずでしょう。人畜無害なただの一労働者ですよ、ぼくは!」
いまこれ以上の敵対姿勢を見せれば、直ちに排除されてしまうだろう。ぼくは手を上げ、親しみを込めた笑顔を浮かべてみせる。だが予想に反して、彼の顔はますます引き攣った。まるで猛獣を相手にしているといわんばかりに。
「黙れ! 余計なことを云うな!」
そう云って警棒を振りながらぼくに近づいてくる。青い火花が揺れながら近づく。
「ありえない、お前は、そんなはずは――」
班長に異変が起きたのはそのときだった。
「かへっ!?」
彼は突然奇声を発したかと思うと、まるで自分自身を抱きしめるかのように両手足をすくめた。持っていた警棒は、そのまま彼自身の作業着に触れる。飛び散る火花。そして彼はゆっくり、前のめりに倒れた。辛うじてそれをよけると、彼は作業台に頭から突っ込み、痙攣し始める。
懲罰電流? なぜ?
だが、その疑問が浮かぶと同時に、ぼくは走り出していた。
あの班長の態度は尋常じゃなかった。ぼくはすでに契約解除の対象になっているとみるべきだ。契約の途中解除――それはつまり、不穏因子として処理されるということを意味していて――ああ、なんだってこういう知識だけはすらすら出てくるんだ、畜生!
作業台から降り、廊下に出る扉を開ける。
そしてぼくは絶望した。
広場に通じる廊下は、すでに労働者で埋まっている。その動きには見覚えがあった。
なぜ彼らがここにいるのか、自我を失ったはずの彼らがどうして一斉に同じ動きをしているのか。ともかく彼らはぼくを狙っているようだった。迫る手を避けるのは簡単だが、なにしろ数が多すぎる。二、三人殴り倒した程度じゃ、道は開けそうもない。ひとりにでも捕まればおしまいだ。どうする、どうすればいい? ぼくは思い出す。班長が持っていた警棒。あれさえあれば、もしかしたら。
ぼくは来た道をとって返し、作業台へ向かう。班長はまだそこに倒れていた。その手にはしっかりと握られた警棒、ぼくは硬直した指を無理やり引き剥がし、それを強引に奪い取る。
振り返ると、崩我族どもがなだれ込んでくるところだった。右手に警棒を持ち、
「おい」
背中に衝撃。声に反応して振り返りかけた顎が、しこたま床にぶつかった。痛み。だがこれくらい、なんてことない。彼女の儀式と比べれば。ぼくの手を誰かの手が探っている。警棒を奪う気だ。ぼくはその手に噛みつく。悲鳴。頬に痛み。殴られたのだ。ぼくと班長は必死で揉み合って床をごろごろと転げまわる。口から自分でも聞いたことのないうなり声が洩れた。殺してやる。殺してやるぞ。警棒を無茶苦茶に振り回す。がつんと硬い手応え、同時にぼくを押さえ付ける力が一瞬緩む。その隙にぼくはのしかかる
押し寄せる人の群れ。だが予想に反して彼らはひるむ気配を見せなかった。警棒を当てれば倒れるが、すぐ後ろから別のやつが現れる。きりがなかった。倒れた崩我族の
手の甲に、こつりと冷たい感触。
次の瞬間、またあの衝撃がぼくを走り抜けた。悲鳴を上げる暇すらなかった。目の奥でなにかが音を立ててはじけ、視界が赤く染まる。
誰かがぼくの前に立っている。その手には警棒。
班長の
ああ、なんてことだ。
班長は、
彼は、
ぼく自身と同じ顔をしたその男は、
警棒を高く振り上げて叫ぶ。
「消えろ、
>> Error
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