ぼく-21による記述
①
<<
――きみは選ばれた存在なのだ。
彼はその日、ぼくにそう云った。
ねえ、叔父さん。
茶化すなよ。と、だが彼は続けた。
だからこそだ。
だからこそ、その存在は尚更貴重なのだよ、きみ。
彼は云った。
この劣悪な環境にも関わらず、きみの
彼は云った。
この劣悪な環境だからこそ、きみの心は強靭に育った。
だからきみには資格があるのだと、彼はそう云った。
『工場』。
そんな
叔父はぼくを、その工場の副支配人に推薦するのだと告げた。製造工程の大半を管理する、『工場』でたった五人しかいない、
しかも、ぼくに与えられるポストはひとつじゃない。叔父は、五人いる副支配人、その全員を「ぼく」にするつもりなのだと告げた。
複體……つまり、自分自身の
それにより、本来は四十年の任期を、八年に短縮することも可能なのだという。
ぼくはいったんはその申し出を断った。
だってそうだろう?
学校に行ったこともない、若者の義務である労働すらまともにしたこともない、ただこれまで生きて息をしてきただけの人間が、いきなり四千五百五十人の上に立つなんて。冗談にしたって規模が大きすぎるし、とてもじゃないが笑えない。
だけど叔父は諦めなかった。どうしてもぼくではなければ駄目なのだと云った。それから長い長い押し問答があった。説明があり、懇願があり、果ては恐喝までもが持ち出され――とうとう、押し切られるようにして、ぼくはこの仕事を受けることにしたのだった。
金に目が眩んだわけじゃない。もちろん、それも大事だけれど。本当に決め手になったのは婚約の占有権だった。工場での勤務を終えた人間は、事前に契約を交わした人間と優先して結婚する権利を持つ。たとえ、その人物がすでに既婚者になっていようとも。
叔父の囲っていた妾のひとりに、ぼくは恋をしていた。いや。この日叔父からその話を聞かされて初めて、ぼくはそれを自覚したのだった。
その瞬間、あらゆる欲望が生まれた。
激しい衝動が、さっきまでの弱気が嘘のように沸き起こった。
それはここから抜け出したいという衝動。
底辺に暮らす生活から、変わり映えのしない毎日から、蓋をされたような息苦しさから、解放されたいという衝動。本当は生まれたときからそこにあって、でもずっと気付かないままで、叔父の言葉がなければきっとこの先も気づかなかった衝動。
そしていま、ぼくはここにいる。
『工場』に。
※
いつものように部屋を出て、
そこは副支配人室だ。人ひとりには不釣り合いな広さの部屋。床には見慣れた白い
合成皮革の
時刻は七時二十分。朝礼前。
絡み合う通路と
広間……居住区と作業区を繋ぐ
その見覚えのない紙片は、今朝
まるで当たり前のように枕元にあったそれは小物入れにある
『われわれの記憶は偽物だ。日誌を見ろ』
部屋には四人の「ぼく」がいる。起きてすぐに
気にすることなんてない。ただの悪戯か、なにかの間違いだろう。もしかしたら、寝ぼけて夢を見たのかも。そう自分に云い聞かせる。
だというのに。
なぜだろう、胸がざわつくのだ。
あの
そういえば昨日、ぼくはなにをしていたのだっけ。
それが、何気ない……しかし決定的な疑問だった。
昨日の記憶がない。いや、もっと前から。覚えていたのは、工場に来る前のこと。叔父とのやりとりを最後に、記憶はぷっつりと途切れ、そして『今朝』へとつながるのだった。
どういうことだ?
疑問が晴れないまま、ぼくはあの一文の後半……『日誌を見ろ』という言葉に導かれるようにして、机の引き出しから作業日誌を取り出した。すべてのやりとりが電子化されたいま、ほとんど使われるはずのない
模型の中では、朝礼を終えた労働者たちが仕事へと向かっている。固まった靄はほどけて
ぼくはそれを見届けたあとで日誌を読み……そして、事実を知った。
自分の記憶が、日ごとに消されてゆくこと。
ある日、ぼくと同じように紙片を見つけたひとりが、この
そうしてぼくたちは自分の記憶を引き継いでいるのだということ。
――云われてみれば、あの紙片に殴り書きされていた文字の筆跡、あれは確かにぼく自身のものだった。
書かれた内容は思っていたほど多くなく、たかだが五頁ほどだった。重要な事実が明らかになると思っていたのに、正直拍子抜けなくらいだ。この暮らしからどう脱出するか――記述はその段階で止まっている。
不思議と衝撃は少なかった。薄々感づいていた事実が、予想通り明らかになったような、そんな感じ。のっけからぼくには不釣り合いな仕事だったのだ……副支配人だなんて。
だが、過去のぼくたちが、そしていまのぼくが切望している、ここからの脱出方法についてはさっぱり思いつかなかった。過去のぼくたちがしたように紙片を残し、明日のぼくに託すしかない。だがなにか書くにしても、特に新たな事実がわかったわけでもない。どうしよう。これでは結局、ぼくはなにも残せないままだ。なにかないか。なんでもいい、少しでも気付いた事実は。
甲高い警報が鳴り響いたのは、そのときだった。
見ると模型のなか、作業区の一角が赤く染まっている。暴動だ。それも大規模の。近くまで寄って詳細を確認。暴動が起きたのはβー6区、δ―5区、それから……どういうことだ、数が多すぎる!
明らかに対応しきれないほどの暴動が、まったく同時に多発していた。いったいなぜだ? こんなことはいままで一度もなかったのに!
未曾有の事態だった。ぼくひとりの手にはとても負えそうにない。隣接する作業区だけでなく、残り四人の副支配人たる「ぼく」たちとも連絡を取り合って鎮圧にあたる必要があった。しかも早急に。ぼくは慌てて、机に置かれている内線電話に手を伸ばす。
その手が中空で止まった。
……ちょっと待て。
なにかがおかしい。
ぼ くはいま、なんと考えた? こんなことはいままで一度もなかった? 未曾有の事態? いままでの記憶がないのに、なぜぼくにそれがわかるんだ?
ゆるゆると手を下ろす。居心地が悪かった。心は相変わらず、この暴動を鎮圧せよ、一刻も早く事態の収拾にあたれと急かしてくる。まるでもうひとり、ぼくのなかに誰かがいるように。
『
久々に聞いた
それを無視して、ぼくは机に開かれた日誌に目を落とした。
最初にこの
わずか数頁しか書き込まれていない日誌。だがその割に、外観の傷みは激しい。最初のほうに書かれた跡はすでににじんで変色までしていた。時系列でいえばまだ書き始めてから幾日も経っていないはずだが、それはまるで数年前に書かれたもののようだった。
妙な予感が胸の中でざわめいていた。
模型を見る。暴動は収まるどころか急速に拡大していた。靄のような点を拡大すると、それは輝く人の形になる。鎮圧にあたった労働者たちの行動はふたつにひとつだ。急速に精神状態が悪化して
日々消され続ける記憶。
いつの間にかあった紙片。
まるで申し合わせたかのように同時多発し、恐ろしい速度で拡大する暴動――。
馬鹿げた推理だ。
狭い情報の断片を継ぎ合わせただけの、都合のよい解釈。
だが、もしかして、もしかしたら。
昨日のぼくは副支配人ではないのではないか?
つまり、ぼくの役割は入れ替わって――
『最終警告』
出し抜けに
それを外したのは、ただの反射だ。いきなり響いた音声に含まれる不吉な響き。それに
恐怖に震えながらぼくは呟く。
これが真実なのか?
転がった
「暴動の様子を見せろ」
そのすべてが「ぼく」だった。
反乱がおきた別の作業区を見る。また別の地区を。さらにほかの地区も。次々と切り替わる画面、しかしそのたびに同じ光景が現れる。急速に勢力を増す反乱分子たちの顔。それを見て自ら、あるいは無理やり
腰が抜け、床にへたりこむ。
……この工場には、ぼくしかいないのだ!
ぼくたちは毎日、労働者のぼくになり、班長のぼくになり、区長のぼくになり、様々に役割を変えながら、同じ一日、労働の中間地点、つまり紀元三○○年七月七日が来たと信じ込んで、終わらない労働を続けていたんだ。
ぼくが働き、ぼくが指導し、ぼくが管理する、ぼくしかいない
ぼくはふらふらと立ち上がり、そして再び
『区長β―甲、応答せよ。……どうした? 区長β―甲。
「……はい、如何しましたか」
『隣接
「鎮圧の援助ですね」
『いや、命令はこうだ、区長β―甲。いや……ぼく。もしきみが真実を知り、なおかつ自由への意思を持っているのなら……
これは賭けだ。しかも確率の低い。
だがぼくは信じる。
このぼくがもし真実を知るぼくならば。
ぼくと同じ思考を辿っているのならば。
――そして、彼は云った。
「わかりました」
β―甲区長室。
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