ぼく-21による記述


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――きみは選ばれた存在なのだ。

 彼はその日、ぼくにそう云った。

 性質たちの悪い冗談だとぼくは思った。蠅がたかる糞みたいな貧民窟スラムの、そのさらに最底辺で、文字通り泥水を啜り、ときおり訪れる金持ちの叔父さんの情けと気紛れをかすめとって、そうしてやっと生きさばらえているぼくがいったい誰になんの基準で選ばれるっていうんだろう。きっとそいつは尋常じゃなく慈愛と寛容に満ち溢れた存在にちがいないな。いますぐ土下座して靴を舐めてお慈悲を賜わりたいから、どうかぼくを選んだというそいつをここに連れてきてくれないか。それともあなたがその奇特な人物?

 ねえ、叔父さん。

 茶化すなよ。と、だが彼は続けた。

 

 だからこそ、その存在は尚更貴重なのだよ、きみ。

 彼は云った。

 この劣悪な環境にも関わらず、きみのからだには歪みがなかった。

 彼は云った。

 この劣悪な環境だからこそ、きみの心は強靭に育った。

 だからきみには資格があるのだと、彼はそう云った。

『工場』。

 そんな単純シンプルすぎる名称で呼ばれるその場所は、この国の地下に広がる蟻の巣のような構造体で、そこには四千五百五十人の労働者たちが集い、附属の工場に住み込んで、来る日も来る日も有機体複製人アンドロイド――『人形ひとがた』の製造に勤しんでいるという。

 叔父はぼくを、その工場の副支配人に推薦するのだと告げた。製造工程の大半を管理する、『工場』でたった五人しかいない、精英エリート中の精英エリートに。

 しかも、ぼくに与えられるポストはひとつじゃない。叔父は、五人いる副支配人、なのだと告げた。

 複體……つまり、自分自身の仿製品コピーを利用して。

 それにより、本来は四十年の任期を、八年に短縮することも可能なのだという。

 ぼくはいったんはその申し出を断った。

 だってそうだろう?

 学校に行ったこともない、若者の義務である労働すらまともにしたこともない、ただこれまで生きて息をしてきただけの人間が、いきなり四千五百五十人の上に立つなんて。冗談にしたって規模が大きすぎるし、とてもじゃないが笑えない。

 だけど叔父は諦めなかった。どうしてもぼくではなければ駄目なのだと云った。それから長い長い押し問答があった。説明があり、懇願があり、果ては恐喝までもが持ち出され――とうとう、押し切られるようにして、ぼくはこの仕事を受けることにしたのだった。

 金に目が眩んだわけじゃない。もちろん、それも大事だけれど。本当に決め手になったのは婚約の占有権だった。工場での勤務を終えた人間は、事前に契約を交わした人間と優先して結婚する権利を持つ。たとえ、その人物がすでに既婚者になっていようとも。

 淑娟シウジュアン

 叔父の囲っていた妾のひとりに、ぼくは恋をしていた。いや。この日叔父からその話を聞かされて初めて、ぼくはそれを自覚したのだった。

 その瞬間、あらゆる欲望が生まれた。

 激しい衝動が、さっきまでの弱気が嘘のように沸き起こった。

 それはここから抜け出したいという衝動。

 底辺に暮らす生活から、変わり映えのしない毎日から、蓋をされたような息苦しさから、解放されたいという衝動。本当は生まれたときからそこにあって、でもずっと気付かないままで、叔父の言葉がなければきっとこの先も気づかなかった衝動。


 そしていま、ぼくはここにいる。

『工場』に。



 いつものように部屋を出て、電梯エレベータに乗る。棺桶のような闇。日常にぽっかり開いた空白を抜けると、場違いなまでに明るいベルの音がして、扉が開く。

 そこは副支配人室だ。人ひとりには不釣り合いな広さの部屋。床には見慣れた白い磚地タイルではなく、灰色の絨毯が敷き詰められている。これが管理者の特権というやつだろうか。多少薄汚れてはいるけれど。

 合成皮革の沙發ソファに腰を下ろす。机の上の巨大な玻璃櫃ガラスケースに穿たれた絡み合う通路と平間、それは地下にある工場の全体模型だった。見つめるが早いか、面具マスク螢幕バイザーが起動し、模型の上に担当区域の情報を次々に投影してゆく。副支配人たるぼくが管理するのは九人の区長、それぞれの区長が管理するのは五つの作業区で、作業区にはひとつあたり二十人の労働者がいるから、合計で九百九人の労働者がぼくの支配下にあるというわけだ。縮小された工場の五分の一が、雑多な情報で色鮮やかに染め上げられる。

 時刻は七時二十分。朝礼前。

 絡み合う通路と電梯エレベータのところどころにある、少し大きな半球状の広間、そこにもやのような塊が集中して蠢いていた。その微細な点ひとつひとつが、つまり労働者たちだ。ひとつひとつの点の色が示すのは精神分數メンタルスコア。緑色は異状なしを表し、赤に近づくほど、『処分』の可能性は高まる。もっともその命令を下すのはぼくではない。自動的に裁定と処分とを行うのは、彼ら自身が、そしてぼくも身に着けているこの面具マスクだ。だから結局のところ、ぼくの毎日に大した仕事はないのだった。やることといえば、ただこの先鋭藝術じみた点の集合をぼんやりと眺めるだけ。

 広間……居住区と作業区を繋ぐ結節点ジャンクションで、靄はじわじわと移動し、半球の隅へと密度を増して進んでゆく。その色は一様ではなく、揺らめく炎のように表情を変える。靄に混じる隙間のような黒点は崩我族だった。彼らはすでに評価を外れているため、面具マスクは評価を返さない。故に色を示さないのだった。彼らの精神状態を見ながらぼくは思う。いまのぼくがこの玻璃櫃ガラスケースに映るとしたら、果たして何色だろうか、と。


 その見覚えのない紙片は、今朝膠囊艙床カプセルベッドの中で見つかった。


 まるで当たり前のように枕元にあったそれは小物入れにある筆記本ノートを破りとったもので、その上には殴り書きされた短い文、ぼくは目に映ったそれを咄嗟に見なかったことにして朝の日課を淡々とこなした。

『われわれの記憶は偽物だ。日誌を見ろ』

 部屋には四人の「ぼく」がいる。起きてすぐに淋浴シャワーを浴びるから、紙片を持ち出すことはできない。だがその単純な内容はたった一瞥で強烈なほど脳裏に焼き付き……そしていまもぼくの心を乱している。

 気にすることなんてない。ただの悪戯か、なにかの間違いだろう。もしかしたら、寝ぼけて夢を見たのかも。そう自分に云い聞かせる。

 だというのに。

 なぜだろう、胸がざわつくのだ。

 あの膠囊艙床カプセルベッドロックを開けられる人間なんて、誰もいないはず。ならばあの紙はいつ入っていたのだ? 誰かが入れたのか、それとも忘れているだけで、ぼくが昨日のうちに書いたのか……昨日?


 


 それが、何気ない……しかし決定的な疑問だった。

 昨日の記憶がない。いや、もっと前から。覚えていたのは、工場に来る前のこと。叔父とのやりとりを最後に、記憶はぷっつりと途切れ、そして『今朝』へとつながるのだった。

 どういうことだ?

 疑問が晴れないまま、ぼくはあの一文の後半……『日誌を見ろ』という言葉に導かれるようにして、机の引き出しから作業日誌を取り出した。すべてのやりとりが電子化されたいま、ほとんど使われるはずのない筆記本ノート。だがそれは使い込まれているのかひどくぼろぼろで、なにもかもが無機質なこの部屋の空気に侵されているように見えた。

 模型の中では、朝礼を終えた労働者たちが仕事へと向かっている。固まった靄はほどけて電梯エレベータに乗り、作業区へと散り散りに広がってゆく。すべてまったくいつも通りに。

 ぼくはそれを見届けたあとで日誌を読み……そして、事実を知った。

 自分の記憶が、日ごとに消されてゆくこと。

 ある日、ぼくと同じように紙片を見つけたひとりが、この筆記本ノートにそれを記し、自分自身の膠囊艙床カプセルベッドに紙片を残したこと。

 そうしてぼくたちは自分の記憶を引き継いでいるのだということ。

 ――云われてみれば、あの紙片に殴り書きされていた文字の筆跡、あれは確かにぼく自身のものだった。

 書かれた内容は思っていたほど多くなく、たかだが五頁ほどだった。重要な事実が明らかになると思っていたのに、正直拍子抜けなくらいだ。この暮らしからどう脱出するか――記述はその段階で止まっている。

 不思議と衝撃は少なかった。薄々感づいていた事実が、予想通り明らかになったような、そんな感じ。のっけからぼくには不釣り合いな仕事だったのだ……副支配人だなんて。

 だが、過去のぼくたちが、そしていまのぼくが切望している、ここからの脱出方法についてはさっぱり思いつかなかった。過去のぼくたちがしたように紙片を残し、明日のぼくに託すしかない。だがなにか書くにしても、特に新たな事実がわかったわけでもない。どうしよう。これでは結局、ぼくはなにも残せないままだ。なにかないか。なんでもいい、少しでも気付いた事実は。

 甲高い警報が鳴り響いたのは、そのときだった。

 見ると模型のなか、作業区の一角が赤く染まっている。暴動だ。それも大規模の。近くまで寄って詳細を確認。暴動が起きたのはβー6区、δ―5区、それから……どういうことだ、

 明らかに対応しきれないほどの暴動が、まったく同時に多発していた。いったいなぜだ? こんなことはいままで一度もなかったのに!

 未曾有の事態だった。ぼくひとりの手にはとても負えそうにない。隣接する作業区だけでなく、残り四人の副支配人たる「ぼく」たちとも連絡を取り合って鎮圧にあたる必要があった。しかも早急に。ぼくは慌てて、机に置かれている内線電話に手を伸ばす。


 その手が中空で止まった。


 ……ちょっと待て。

 なにかがおかしい。

ぼ くはいま、なんと考えた? こんなことはいままで一度もなかった? 未曾有の事態? 

 ゆるゆると手を下ろす。居心地が悪かった。心は相変わらず、この暴動を鎮圧せよ、一刻も早く事態の収拾にあたれと急かしてくる。まるでもうひとり、ぼくのなかに誰かがいるように。

壓力ストレス値が上がっています』

 久々に聞いた耳機イヤホンの音声が不気味なほど無機質に響く。

 それを無視して、ぼくは机に開かれた日誌に目を落とした。

 最初にこの筆記本ノートを書いたぼく……彼もまた、膠囊艙床カプセルベッドの紙片がきっかけとなって記憶の欠落に気付いていた。それが引っかかった。ならばこの日誌をつける前のぼくはなにをしていた? 『日誌を見ろ』という紙片を残していながら、肝心の日記にはなにも書き込んでいなかったのか?

 わずか数頁しか書き込まれていない日誌。だがその割に、外観の傷みは激しい。最初のほうに書かれた跡はすでににじんで変色までしていた。時系列でいえばまだ書き始めてから幾日も経っていないはずだが、それはまるで数年前に書かれたもののようだった。

 妙な予感が胸の中でざわめいていた。

 模型を見る。暴動は収まるどころか急速に拡大していた。靄のような点を拡大すると、それは輝く人の形になる。鎮圧にあたった労働者たちの行動はふたつにひとつだ。急速に精神状態が悪化して面具マスクに処分されるか……あるいは画面から消えるか。それはつまり、彼らが面具マスクを外したことを意味していた。暴動に加わっているのだ。

 日々消され続ける記憶。

 いつの間にかあった紙片。

 まるで申し合わせたかのように同時多発し、恐ろしい速度で拡大する暴動――。

 馬鹿げた推理だ。

 狭い情報の断片を継ぎ合わせただけの、都合のよい解釈。

 だが、もしかして、もしかしたら。

 

 つまり、ぼくの役割は入れ替わって――


『最終警告』


 出し抜けに面具マスクが叫んだ。

 それを外したのは、ただの反射だ。いきなり響いた音声に含まれる不吉な響き。それにからだが勝手に動いただけだ。放り捨てる直前、はじける青い電撃。その一端が体を掠める。全身の筋肉が収縮し、ぼくは絨毯の上に膝をついた。硬直は一瞬、あとには重たい鈍痛と倦怠感が塊のように残る。面具マスクが触れた絨毯から焦げ臭いにおいが立ち上っていた。鼻先を通り過ぎた死の残り香。吐き気がしてえづいたが、胃の中からはなにも出てこない。

 恐怖に震えながらぼくは呟く。

 これが真実なのか?

 転がった面具マスクを慎重に手に取り、机の上に載せた。致死の電撃を放ったそれはまだ機能している。だが離れてさえいればぼくの精神状態を感知できない。やや遠くから、口だけを少し寄せて命じた。

「暴動の様子を見せろ」

 螢幕バイザーに映し出された情景は……果たしてぼくが予想した通りのものだった。暴れる反乱者たち。その様子に戸惑い倒れていく労働者。あるいは反乱者に襲われ、無理やり面具マスクを引き剥がされる労働者。襲い来る崩我族に警棒で立ち向かう班長。

 そのすべてが「ぼく」だった。

 反乱がおきた別の作業区を見る。また別の地区を。さらにほかの地区も。次々と切り替わる画面、しかしそのたびに同じ光景が現れる。急速に勢力を増す反乱分子たちの顔。それを見て自ら、あるいは無理やり面具マスクを外されて反乱に加わるもの……見間違えようがなかった。全員が「ぼく」だ。

 腰が抜け、床にへたりこむ。

 ……この工場には、

 ぼくたちは毎日、労働者のぼくになり、班長のぼくになり、区長のぼくになり、様々に役割を変えながら、同じ一日、労働の中間地点、つまり紀元三○○年七月七日が来たと信じ込んで、終わらない労働を続けていたんだ。

 ぼくが働き、ぼくが指導し、ぼくが管理する、ぼくしかいない全視監獄パノプティコン。なんて滑稽な話! ぼくたちが逃れようとしていたのはぼく自身だったのだ。

 ぼくはふらふらと立ち上がり、そして再び面具マスクに指示をする。連絡を取るのはとある区長。大規模な反乱がおきたβ―6区と隣接した地域を管理する「ぼく」。

『区長β―甲、応答せよ。……どうした? 区長β―甲。精神分數メンタルスコアが乱れているな。まずは平静を取り戻せ』 

「……はい、如何しましたか」

『隣接区域エリアであるβ―6にて、大規模な暴動が発生した』

「鎮圧の援助ですね」

『いや、命令はこうだ、区長β―甲。いや……ぼく。もしきみが真実を知り、なおかつ自由への意思を持っているのなら……面具マスクを取るんだ、いますぐに!』

 これは賭けだ。しかも確率の低い。

 だがぼくは信じる。

 このぼくがもし真実を知るぼくならば。

 ぼくと同じ思考を辿っているのならば。


 ――そして、彼は云った。


「わかりました」

 β―甲区長室。

 玻璃櫃ガラスケースの模型越し、そこにあったはずの点がひとつ、消えた。

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