第17話



 空が白んでくる頃の墓地は、ただ静かだった。

 マリーツィアと二人で両親とヒルダの墓を掃除して、別れを告げる。もともと墓は掃除をする必要もないくらいに綺麗なままだったが、けじめはつけないとね、とマリーツィアが笑う。

「ごめんなさい、やっぱり私はレギオンを連れていきます」

 両手を合わせながら、マリーツィアは物言わぬ石にそう告げた。謝る必要はない、俺の意志なんだから、そう言ったところで彼女は納得しないだろう。

 まだ村人は寝ている頃だ。妙にしんみりするのも、騒がせるのも嫌で、気づかれないうちに発とうと決めた。引き留められたら、きっと少し心が痛む。

 すっとマリーツィアが立ち上がる。レギオンは? と言いたげな目に、俺は笑った。

「俺はもう、言うことはないよ。ちゃんと別れは済ませている」

 今さら向き合って別れを告げることもない。マリーツィアには叱られるだろうかと思ったが、予想外に彼女は「そっか」と納得する。

 荷物を持ち上げて、家が立ち並ぶ方を見る。まだ眠っている村は、まだ癒えない傷を抱えて苦しんでいるようにも見えた。

「……私、ここに来ない方が良かったのかな」

 ぽつりとマリーツィアが呟く。同じことを考えていたんだろうか。

「いや、良かったんだよ、これで。傷口を抉ることになったかもしれないけど、でも、化膿したままにしておくよりずっといい。……今度は、ちゃんと治るだろ」

 時間をかけて。そう答えるとマリーツィアは淡く微笑む。するりと伸びてきた手が俺の手を握って、ぬくもりを分け合うように繋がれる。

「行こうか、レギオン」

 どちらが先に切り出そうかと考えていた言葉。

 俺は何も言わずに頷いて、小さな手のひらを握り締める。あのグリンワーズの森が彼女を守る鳥籠だったのなら、この村は、俺が抱え続けてきた宝箱だったのかもしれない。大事にしすぎて、触れることもできず、壊すこともできず、捨てることもできなかった。

 墓地から離れ、ゆっくりゆっくり、別れを噛み締めるように村を出る。昨日の夜はあんなに賑やかだった広場も、たくさんの人で溢れる市場も、遠ざかっていった。ふわりと花の香りをぬるい風が運んで、これから本格的な夏になるんだと思い知らされる。夏になると、村の周囲にはたくさんの野の花が溢れていた。それをマリーツィアに見せてやれれば良かったけれど。

 ぎゅっ、とマリーツィアが何かを堪えるように俺の手を握る。


「――レギオンっ!」


 早朝の静かな空気を割る声に、俺もマリーツィアも足を止めた。

 振り返ると、たくさんの村人がこちらへ駆けてくる。驚いて言葉も出なかった。酒を飲んで酔っ払っていたおっさんたちも、市場で豪快に笑っているおばさんたちも、マリーツィアと共に輪を作って踊っていた奴らも、村中の人間が集まったんじゃないかと思うくらいの人数だ。

「な、にして……」

 上手く声にならなかった。あっという間に人々に囲まれる。

「水臭い奴だねぇ、あんたって子は!」

「そうだ、発つならちゃんと言ってくれないとなぁ!」

「これを持っていきなさい、長持ちするやつだから。ちゃんと食べるんだよ」

「風邪ひかないようにねぇ」

 あちこちから声をかけられ、答える余裕もないままに餞別を渡される。きっちりと自分で準備している分もあるというのに、どれだけ荷物を増やす気なのだろうか。

「マリーちゃんにはこれをね。女の子だから可愛くしないと」

「あとストールも。これから夏だけど、夜は冷えるから」

 女たちはにこにこと笑ってマリーツィアの髪をいじったり、軽い荷物を渡す。ああそうだ、ここの人間は皆世話好きなんだと、俺は知っていた。

「あんたら、こんなに渡されたって持てるわけないだろうが」

 苦笑しながら答えると、周囲から情けないねぇ、と笑い声があがる。

「食えば減るもんばっかりだ! きっちり食え!」

 ぐしゃぐしゃを頭を撫でられる。俺を何歳だと思っているんだろうか、と思いながら笑った。ああ、こんな別れ方も悪くないな、なんて思う。

「……悪かったな、レギオン」

 低く呟かれた言葉に、胸が痛んだ。村人の誰もが、泣きそうな顔で笑っている。

「なんのことだか分からないな。……家族の墓、頼む」

 俺もたぶん同じような顔で笑っているんだろうな。それほど大きな声ではなかったはずなのに、誰もがしっかりと頷いて「任せておけ」と答える。あの墓はきっと、これからも花が絶えることがないんだろう。それは、罪を忘れないためにではなく、ただ死を悼んで。

「……リュカは?」

 マリーツィアがきょろきょろと見まわしながら問う。そういえばあの赤毛の少年の姿がない。

「あいつはなぁ。意地っ張りだからさ。たぶんどっかで見ているんだろうけど、直接別れを言いたくないんだろう。おまえに懐いていたもんな」

「喧嘩売ってきていたの間違いだろ」

 ヒルダをいじめていたり、俺に突っかかってきたり。懐いていたと言えなくはないのかもしれないが、そんな素直な言葉を使われるのはリュカ自身も心外だろう。

 出来ることなら一言別れを告げたかったのだろう。しかしマリーツィアは少し寂しげに微笑むだけで何も言わなかった。面と向かって別れるのも、また辛いと思い知っているに違いない。

 じゃあ、と一歩踏み出すと、村人たちは名残惜しそうに道を開ける。背後からは元気で、じゃあな、とたくさんの声がかけられたが、辛くなるだけだから振り返ることはしない。歩く速度は速くなかったはずなのに、声はすぐに遠くなっていった。マリーツィアは何も言わずに俺の手を握っている。

「レギオン、マリー!」

 静寂を切り裂く声に、先に反応したのはマリーツィアだった。

「リュカ?」

 確かに俺とマリーツィアを呼ぶ声はリュカのものだ。もう村を出てしばらく経っている。家は小さくなってしまっているし、人々の影も見えない。けれど村の方からこちらへ駆けてくる一人の少年の姿はすぐに見つかった。

「良かった、間に合って」

 息を切らしながら、リュカは途切れ途切れにそう呟く。手には一通の手紙があった。

「マリーに、手紙がきていたから」

 リュカが差し出した封筒は、深い緑色をした封筒に白い花が描かれている。差出人が誰かなんて確認するまでもない。マリーツィアは手紙を受け取ると、恥ずかしそうに、嬉しそうに、淡く微笑んだ。

「ありがとう、リュカ」

 このまま去っていたら、マリーツィアのもとに届くことはなかった手紙だ。おそらく、これから先は返事を受け取ることなんて出来ない。それほど長くどこかに留まるのは、俺とマリーツィアの『場所』が決まった時だ。

「ホントは、見送るつもりはなかったんだけどさ」

 リュカは照れくさそうに笑っていた。湿っぽいのは嫌いなんだよね、と言い訳のように呟く。

「ごめんな、おまえの故郷にしてやれなくて」

 リュカがまっすぐにマリーツィアを見つめながら、申し訳なさそうに笑って呟く。マリーツィアは首を横に振った。

「いいの。必ず帰る家は、まだないけど。でも私はレギオンのところに帰るんだって、分かっているから。だから大丈夫」

 ごく当たり前の生活に焦がれていたマリーツィアの気持ちを、リュカも知っていたんだろう。もしかしたら、俺のいないところで何か話していたのかもしれない。故郷という、やさしくあたたかな揺りかごのことを。

「ねぇ、リュカ。リュカにも手紙書いてもいい?」

 届けられた手紙を大切そうに抱きしめながら、マリーツィアが問う。リュカは目を丸くして、困ったように眉を下げて、やがて小さくはっきりと「いらない」と答えた。

「手紙は、いらない。俺は、あんたらがしあわせでいるんだって、勝手に思うことにするから。だからマリー。信じている俺を裏切らないように、必ずしあわせになれ」

 マリーツィアの深緑の瞳が、言葉を噛み締めるように瞬きをする。なんて遠まわしな言い方だろう、と俺は笑った。リュカらしい。

「――うん」

 言葉をじっくりと咀嚼して、マリーツィアが微笑む。

「うん。しあわせになる。だから、リュカもしあわせになって」

 自分に返されるとは思わなかったのだろう、リュカは虚をつかれたように驚いて、そして、困ったように笑う。

「任せとけよ。可愛い嫁さんもらって、しあわせになるからさ」

 その表情を見て、俺はほっと胸を撫で下ろす。リュカの中の傷も、少しは癒えたのかもしれない。そう思えた。

「リュカ」

 名前を呼ぶと、勝気そうな目が俺を見る。

「……じゃあな」

 それ以上にかける言葉がなくて、俺は笑ってそう言うしかない。リュカも似たようなもので、何を言えばいいのか分からないという顔で、ただ頷いた。それを合図に、俺とマリーツィアはまた歩き出す。


「じゃあな、レギオン。マリーを泣かすなよ!」


 少し歩いたところで、少年の声が空を貫いた。

 振り返ると、幼い頃の面影を残した顔で、大きく手を振っている。目元で何かが輝いたように見えたことには、気づかないふりをしてやるべきなんだろう。

「マセガキ」

 ふ、と笑みを零して、俺とマリーツィアは同じように大きく手を振る。

 空は高く、これからの旅路を祝福しているように優しい風が吹いていた。



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