第14話
故郷の村で待っていたのは、予想外に穏やかな日々だった。
到着したばかりの日や、マリーツィアの白い髪が日の光の下で晒された日は、緊張で安眠できなかったが、今では朝寝坊できるまでに心は落ちついている。寝すぎた、と思いながら部屋を出ると、とっくに起きていたマリーツィアが「おはよう」と笑った。
「今朝はね、ソフィアおばさんからパンをわけてもらっちゃったんだ! 朝ごはんに食べようね」
ここ数日、マリーツィアは朝早くにどこかへ行ってしまう。そしてひょっこりと戻ってきた時にはいつも何かしらをもらってきている。村の連中は俺の顔を見ると「いい子を見つけてきたもんだねぇ」と笑う。……何やら勘違いされているようだ。
マリーツィアの無邪気な性格が良かったのだろう。あれほど頑なだった村の連中は、かつてそうであったように、にこやかに笑っている。遠い昔に、止まっていた時間がわずかに動きだしたようだ。それが良いことか悪いことかと問われれば、間違いなく良いことなのだろう。滞っていた村の空気は、冷たい山風に吹き飛ばされて、今となっては嘘のように澄んでいる。
顔を洗って、部屋に戻り、着替えを済ませる。平穏な日常を前に、少し呆けている。こんなにもあっさり、受け入れられるとは思っていなかった。人生どう転がるか分からないものだな、と苦笑しながらまた自室を出る。
「皆、優しいね。村で暮らすって、こんな感じなのかなぁ」
スープを温めながらマリーツィアが呟く。物心がつく前にグリンワーズの森に閉じ込められた彼女は、こんな当たり前の生活も知らない。
「昔から、うちの村には世話好きが多いんだよ」
両親が死んで、兄妹だけの暮らしになってもどうにか生活できたのは、間違いなく村の人々のおかげだ。大丈夫か、と何かにつけて気にかけてもらっていた。そう、ここ数日のマリーツィアがそうであるように、ヒルダもよく何かをもらってきていた。
「……ねぇ、レギオン。私は、このままこの村で暮らしても、いいと思うよ」
スープをかき混ぜながら、マリーツィアが小さく呟いた。深緑の瞳は、こちらを見るのが怖いのか、スープを見つめたままだ。
「無理に国を出なくてもいいと思うの。だって、レギオンの故郷はここだし、ご家族のお墓だってここにある。この村の人が私のことを嫌うなら仕方ないけど、でも、大丈夫そうだし」
それは、ここ数日ずっと俺も考えてきたことだった。
何も、国の外に出ることだけが解決策じゃない。どこかの小さな村で、時間をかけて居場所を作ることも出来る。それは以前から考えていたことだ。だからこそそれを打ち消す考えもある。この国に広まった『災厄の乙女』の影響は大きい。たとえ村の中で受け入れられても、村の外から来た人間に対してはそうじゃない。そして何より、長年過ごしてきた村の一員であっても、集団の恐怖の前には無力だ。……ヒルダがそうであったように。
「レギオンが心配するのも分かる。だから、少し考えてみようよ。それからでも遅くないよね?」
そう、これは先を急ぐ旅じゃない。旅が続くであるのなら、ここは通過点に過ぎないはずなのだ。いつまで、どこまで、誰もそれを定めていない。マリーツィアが、平穏に暮らせるという場所に辿りつくまで終わらない。
「マリーツィア」
小さく名前を呼ぶ。
マリーツィアは何も言わずに振り返った。深緑の瞳は、俺と同じようにどうすればいいのか答えが分からずに揺れている。だがあえて俺は問うた。
「おまえは、ここがいいのか。それとも、ここでもいいのか」
それは似ているようでまるで違う答え。マリーツィアの目が揺れる。真っ直ぐに俺を見つめているのに、俺ではないどこかを見ている。小さな唇は震えて、何かを紡ごうとしては躊躇った。
「俺は、おまえが決めた場所ならどこでもいいと思う。おまえが、幸せになれるところなら。髪を、瞳を隠すことなく暮らして、いつも笑っていられるような場所なら。だけど、ここだと決断する要素に俺を入れるな。俺の故郷だからなんて考えるな。俺は、とうの昔にここを捨てたんだから」
俺のために、なんて。それはマリーツィアの未来のためには、不要なものだ。
「……ねぇ、レギオン。どうして、私だけなの?」
小さな声は、びっくりするほど大きく響いた。揺れる深緑の瞳は、まるで迷子のそれと同じようだった。
「どうして、私だけが決めるの? 私たち二人でいるのに、どうして私のことばかりなの? レギオンは全然自分の意見を言わない。まるで、いつか切り離すって言っているみたい」
どきっとした。
いつか、彼女が巣立つ時がくる。俺から離れる時がくる。だから彼女にとって最善であるように。俺はいつでもマリーツィアの前から消えることができるように。そう考えている俺を見透かすように、彼女は問う。
「レギオンの故郷だからって、考えるなって言われても考えちゃうよ。だって、当たり前でしょう? 大事な人の、大事なところなんだもの。とうの昔に捨てたって言いながら、ここにいる間、レギオンはずっと落ち着いているんだもの」
「そんなことは――」
「ないって言わせない。私だって、レギオンのことちゃんと見ているんだからね」
そう言うと、マリーツィアは静かにスープを俺の前に置く。向かいの席に腰を下ろして無言のまま食事を始め、これ以上は何も聞かないし言わないと決め込んだようだ。
大事な人の、大事なところ。
どうしてそんなに俺に懐くんだ。俺はおまえをあの森から連れ出しただけなのに。俺は、ただおまえを放っておけなかっただけなのに。そんな風に言われる資格はないのに。
――それなのに、どうして。
「辛気臭ぇ顔してんな、レギオン」
リュカが呆れた顔で玄関から入ってくる。マリーツィアは朝食を済ませると何も言わずに出かけていった。
「……おまえな、勝手に入ってくるなよ」
人の家に。リュカは気にした様子もなく勝手に椅子に座り、テーブルの上にある林檎を剥き始めた。するすると器用に剥いている。皮がずっと繋がったままだ。
「村じゃあさ、レギオンが嫁を連れて帰ってきたって大騒ぎだぜ? どうすんの?」
するすると、林檎の皮が落ちていく。
「嫁じゃない」
「いやまぁ知っているけど。……そこじゃなくて」
綺麗に繋がった皮を捨てて、リュカは林檎をかじる。分かっていてもそこは否定せずにはいられない。
「このまま村に定住? それもいいかもしれないけどさ……俺としては、あんまりオススメしない」
「……だろうな」
ヒルダの事件を誰よりも忘れられずにいるリュカには、あまり喜ばしいことではないだろう。最近はマリーツィアとも仲良くしているようだから、なおさらだ。
「マリーの気持ちも、分からなくはないけどね。でもやっぱり、いい選択ではないと思う」
漠然とした不安がずっと胸を覆っている。それは簡単には拭いされないものだった。
「あれは頑固だからな。どう説得したもんか……」
「頑固ねぇ。マリーのは、頑固とはまた違うよ」
リュカが林檎を頬張りながら呟く。
「マリーは、あんたが好きなんだろ。あんたがなにより大事なんだろ。だから、レギオンにとっての一番の選択を探しているんだよ。似た者同士だよ、あんたら」
「俺は……」
好きだと、素直に言っていいものだろうか。苦笑して口籠もる。彼女を安全な場所へ、幸せになれる場所へ、と願うのは単純に恋情から発生したものとは言い難い。
「違うか。マリーはレギオンにとっての一番を探しているんじゃないな。二人にとって、一番幸せになれる場所を探しているんだ」
何気ないリュカの言葉がぐさりと刺さる。どちらかにとって、じゃない。どちらにも。俺とマリーツィア、二人の幸せを。
どうして、私だけが決めるの? 私たち二人でいるのに、どうして私のことばかりなの? ――そう問いかけるマリーツィアの声が頭の中で響いている。
「レギオン、あんたとっとと認めたほうが楽になれると思うよ」
十年前には俺に蹴散らされてばかりいた子どもが、呆れを含んだ目で俺を諭す。すごく複雑な気持ちだった。
認める? 何を?
分かっていても、俺は気づかないふりをしたくて仕方なかった。
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