第7話
椅子に座っている彼女の髪を切りそろえながら、床に散らばった髪を見る。
「――少し、惜しかったな。これほど伸ばすのに時間かかるだろ」
彼女の白い髪は老人なんかの白髪と違って、艶やかでとても綺麗だ。それが今は肩にも届かないくらいの長さしかない。
「何を今さら。レギオンがやったくせに」
俺を見上げて彼女は頬を膨らませる。
ごめん、という言葉が素直に出てこなかったのは、こうでもしないと彼女が納得しなかっただろうと確信しているからだ。
床に散ったのは『災厄の乙女』だ。
「でも、これくらいの方が軽くていいや。自分で切るのが面倒で伸ばしていただけだし」
短くなった自分の髪を触って彼女は嬉しそうに笑う。
その笑顔に、かつてあったような影はない。年相応の明るい笑顔にこちらの方がむしろほっとした。
散らばった髪をまとめ、丁寧に紙に包んでいると彼女は訝しげにこちらを見た。
「……何しているの?」
「まぁ、ちょっとな」
誤魔化しながら包みを懐にしまう。
行こうか、と彼女に手を差し伸べると、当然のように手が繋がれる。まるで随分前からこうすることが当り前だったみたいだ、と言おうとして止めた。それこそまるで愛の告白かなにかのようじゃないか。
「レギオン?」
どうしたの? と見上げてくる彼女に「何でもない」と返した。塔を出て日の光を浴びる彼女の髪は不思議な色で輝いていた。
やっぱり惜しかったな、という言葉は無駄なような気もしたので心の奥にとどめておくことにした。
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胸を、あるいは首を貫くだろうはずの剣は、マリーツィアの左肩に触れることもなく、彼女に傷一つつけずに地面に突き刺さった。
長く白い髪だけが不揃いになっている。
「――――え?」
一向に訪れない痛みに、マリーツィアは目を開けて状況を確認する。
わずかに起きあがると、左側の髪だけがさらさらと地面に落ちた。
「……災厄の乙女は死んだよ」
肩に触れないくらい短くなった自分の髪を触って、マリーツィアはしばし呆然とする。
「何、言っているの? 私はまだ生きて」
掴みかかるマリーツィアを、そのまま強く抱きしめた。剣は、彼女の髪を道ずれに地面に突き刺さったままだ。
「災厄の乙女なんて、最初からいなかったんだ。そんなもの、初めから存在しなかった」
抱き寄せた肩は想像以上に華奢だった。不揃いな髪を撫でて、お互いのぬくもりが溶け合うように強く抱きしめる。
「大神官が作り上げた偽りだった。おまえには王国を滅ぼす力も、誰かを不幸にする力もない。ただの、女の子だったんだ」
マリーツィアは腕の中で困惑したように動く。俺はただじっと彼女の言葉を待った。しばらくして、震えた声が呆然と呟く。
「だって、それじゃあ」
――今までの私の人生はなんだったの?
その呟きに、答えはなかった。
何も言えずに、ただ腕の力を強めるだけだ。マリーツィアは腕の中でいくつかの疑問を吐き出し、幼い子供のように泣き始めた。
その鳴き声が止むまで、俺はただその小さな身体を守るように抱きしめ続けた。
「あああぁぁああぁああああぁっ!」
かつての自分の咆哮に似たその叫びに、胸が苦しくなった。
泣き声が途切れ途切れになり、腕の中の彼女が大人しくなり始めた頃には、空はもう赤く染まっていた。
それでもどちらも動こうとせず、ただ花に囲まれて抱き合うように座っている。
幼子を慰めるようにぽんぽんと優しく背中を叩きながら、まだ静かに涙を流すマリーツィアを優しく抱きしめる。
――あの子はもう、この王国で普通には暮らせない。自分の罪に押しつぶされそうになりながらそう言った大神官の顔が何度も頭の中でよぎった。
マリーツィアが白い髪である限り、彼女の瞳がこの森と同じ色である限り――彼女はこの王国で平穏に過ごすことは出来ないだろう。それこそ大神官が託宣を撤回しない限り。否、おそらく撤回されても差別は続くだろう。彼女の存在を否定する人間は消えないだろう。
ならば。
「――俺と、一緒に来るか?」
唐突な問いに、マリーツィアは涙で濡れた顔を上げて俺を見つめた。
彼女の顔を見るのは少し恥ずかしくて、俺はその視線を感じながらも赤く染まる空を見上げて続けた。
「俺と一緒にこの国を出るか?」
大きな瞳は不安と期待で揺れているだろう。どことなく、彼女の出す答えは分かる気がした。
「出て、どうするの? どこに、いくの?」
幼い子供のような声に、思わず微笑んだ。彼女の髪を撫で、深緑の瞳を見つめて言う。
「どこか遠い――災厄の乙女なんて知らないような、遠い国に」
くしゃ、とマリーツィアの顔が歪む。
俺の胸に顔を押しつけ、せっかく止まった涙がまた溢れ出した。
「連れてって……!」
予想通りの言葉に、思わず笑みが零れた。心のどこかで安堵すらした。
死を願う少女はもういない。そして、災厄をもたらす少女は初めからいなかった。
ここにいたのは、この国で誰よりも不幸だった可哀想な女の子だ。
泣き疲れて眠ったマリーツィアを抱き上げ、一年ぶりに塔に入る。
マリーツィアの部屋までゆっくりと階段を上り、不揃いなままの白い髪を見てどうにかしないとな、と苦笑する。
部屋を開けてベッドに寝かせる。どうやら彼女は、掃除はできるらしい。できるようになっただけかもしれないが――部屋に埃はなく、一年前と変わらず生活するに十分な、清潔な空間のままだった。
ベッドに腰掛け、何度も見たマリーツィアの寝顔を眺める。
何かを求めるようにマリーツィアの手が彷徨った。咄嗟にその手を握ると、安堵したようにマリーツィアは布団にくるまる。
猫みたいなその様子に微笑みながら、髪を優しく撫でた。
手の中のぬくもりに、癒されているのは自分の方かもしれないなんて思いながら。
「――マリーツィア?」
彼女が目を覚まし、準備を整えてすぐに、森を出ることにした。
そして森からちょうど出るところで、マリーツィアの足が止まった。繋がれていた手が自然と別れ、残ったぬくもりが寂しさを主張した。マリーツィアは立ち止ったまま足元を見つめ、そして前を見た。足が少し震えているような気がするのは、見間違いではないだろう。
彼女がこの森の外へ出るのは、十年ぶりになるのだ。
グリンワーズは、彼女を守る鳥籠だった。
す、と手を差し出す。マリーツィアは少し怯えたような目で俺を見つめた。
「行こう、マリーツィア」
微笑みながらそう言うと、マリーツィアはじっとこちらを見てきた。まるで心の底も見透かすような緑色の瞳で。
差し出した手にその小さな手を重ねて、ほっとしたように彼女は微笑む。
「ねぇ、レギオン」
離れないように強く手を握り締めながら、彼女は俺を見上げた。答えずに彼女の顔を見ると、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「私ね、あなたに出会えて良かった」
思いがけないセリフに、俺は目を丸くする。マリーツィアはくす、と笑って、背伸びをした。くい、と手が引っ張られてバランスが崩れる。
唇に重なるぬくもりに、目の前の深緑の瞳。
一瞬何が起きているのか理解できず――理解できた時にはぬくもりは消え去っていた。
「たぶんレギオンに出会えたことが、私の人生で最大の幸運だよ」
満面の笑顔でマリーツィアはそう言う。
キスをしたそのあとに、そんなことを言うか。
繋がれていない手で口を覆う。十以上下の小娘にしてやられた気分でいっぱいになった。
「ホント、見た目に似合わず危ない女だな、おまえは」
敗北宣言に近いそのセリフに、マリーツィアは嬉しそうに笑う。
可愛い外見に騙されたら、ひとたまりもない。じわじわと侵食して、いつの間にか心は侵されている。
くすくすと笑う声が止む。
十年間、彼女を苛み守ったグリンワーズの森。
マリーツィアはじっとその緑色の瞳で森を見つめて、立ち尽くした。かける言葉もなく、またかけるべきでもないと思ったので黙ったまま、その小さな手を握り締めた。
「行こう、レギオン」
しばらくそうして見つめ続け――マリーツィアは踵を返す。
もう森を振り返らない彼女に代わり、最後にちらりと森を仰いだ。
花に囲まれたまま、剣を道ずれに彼女の欠片は森に残った。まるで地面に刺さった剣が墓標のように。
深い深いグリンワーズの森の中、花々に囲まれて『災厄の乙女』は眠っている。
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