第10話
雛鳥は、いつか巣立つ。
親鳥はその為に雛鳥を守らなければならない。あらゆることを授けて、与えられるだけのものを与えて。
今はまだ雛で、親鳥が恋しいとしても。世界が広いことを知れば自然と目は他へ向けられるだろう。そうしていつか自分の場所を見つけるに違いない。
それでいい、と思った。
この恋情は報われなくていい。報われることを俺は望まない。
一度だけでなく二度も、彼女を殺そうと思った。そんなことを考えた男が、愛して欲しいなんて、そんな馬鹿げた話があるだろうか。
村に到着してから五日が経った。何もない村での五日というと、やることなど皆無に等しく退屈を持て余している。
けれどマリーツィアはというと、楽しそうに家の掃除をしていたり、危なっかしい手つきで料理をしていたり、人目の少ない早朝や夜にヒルダと両親の墓へ行っているようだった。
「今日ね、朝にお墓参りに行ったんだけど、リュカに会ったよ」
俺の頼みを律儀に守ったのか、マリーツィアの話からはちょこちょことリュカの名前が出るようになった。どうやって話すようになったかまでは言ってこないので知らない。リュカから話しかけたのは間違いないだろう。
「だろうな」
紅茶を飲みながら答えると、マリーツィアが面白くなさそうに頬を膨らませる。
「だろうなって……まるで分かっていたみたいな言い方」
「分かっていたからな」
先日の、行き先を聞いた時にリュカが口籠もったのは、ヒルダのところへ行っていたからだろう。おそらく二、三日に一度、もしかしたら毎朝のように。
俺が以前に災厄の乙女を恨んだように、リュカはこの村を恨んでいるのではないだろうか。だからこそ逃げ場所はヒルダの墓しかない。
「お墓、今日も綺麗だった」
嬉しいような、困っているような、そんな声でマリーツィアが呟く。
「それも知っている」
俺は苦笑しながら答える。俺が王都へ移住してからも、ヒルダの墓はまるで新品のように綺麗なままだ。誰が、というわけでもなくこの村の人々がいつも綺麗にしてくれているんだろう。もう五日もここにいるんだ、俺が帰って来ていることに気づいていないわけがないだろうに。
そう、もう五日も経っている。
「……いいかげん、満足しただろ。そろそろ出立するか」
「やだ」
即答だった。
ため息を零しながら頭を抱える。彼女がこうもこの村に居たがる理由が思いつかないから、余計にどう対処していいものか悩んでいた。
「手紙なら諦めろ」
「り、理由は手紙だけじゃないもん」
ここに残りたいという理由に使ったのは手紙のことだろうが、と追撃したくなったが、ここでそれを言えばマリーツィアはますます意固地になりそうな気がした。今はまさに昼食の準備をしていたところだ。ナイフを持っている人間の神経を逆なでするのは得策じゃない。ましてその人間の手つきがもともと危なっかしいものであるのなら、なおさら。
「じゃあ、他の理由は?」
お手上げ状態の俺は素直にマリーツィアに問うた。マリーツィアは手に持っているナイフとじゃがいもを見つめながら、どう説明したらいいのか分からないといった顔をしている。見ているこっちが気が気でないのでとりあえずナイフは置け、と言いたい。
お互いが口を開かない。沈黙が重く部屋の中に落ちた。
そんなに難しいことを聞いているのだろうか、俺は。そんな風に思いながらも、ただマリーツィアが口を開くのを待った。この沈黙を破るのは、彼女の役目だ。
マリーツィアは何度か話そうとし、そしてまた口を噤む。それを何回か繰り返した頃だ。
「レギオンは、この村が好きでしょう?」
手元へ目線を落としたまま、マリーツィアが口を開いた。予想していなかった問いに、俺は言葉を失った。嫌いか、と問われたらすぐに答えることが出来た。嫌いにはなれない、と。
「好きだけど、素直に好きって言えないでしょう? 村の人達にも、素直に挨拶できないでしょう? ……そういうわだかまりを残したまま、行きたくないの。だってもう、この国には戻らない覚悟でいるんだって知っているから」
――私のために、この国を捨てるんだって、知っているから。
ことん、とマリーツィアがナイフを置く。頭の中では彼女の言葉を反芻していて、音がなければナイフを置いたことにすら気づけなかったかもしれない。
ずっと、ただの、我儘だと思っていた。
でもこれは、我儘と言えるだろうか?
気づけば深緑の瞳はこちらを射抜くように見つめている。動揺している心の中を全て見透かしてしまわれそうなのに、それでも目を逸らすことができなかった。
「私は、レギオンに後悔してほしくない」
きゅっと引き結ばれた唇からは、固い決意が感じ取れる。迷いのない瞳は、迷いだらけのこちらには眩しすぎた。
マリーツィアの言葉は深く胸の奥底に刺さる。
この国には戻らない。そうだ。彼女が幸せに暮らしていけるところへ行くと決めた時に、この国の地はもう踏まないだろうと思った。マリーツィアが言わなければ、この村にすらこなかった。
国にとどまることはすなわちマリーツィアの身の危険にも繋がるから。
――でもそれは、自分への言い訳だ。
村に来たところで、挨拶する人間なんていない。せいぜいヒルダと両親の墓参りをするくらいだ。いまさら何をどうやっても、俺と村人たちの間にある溝が埋まることなどないのだから。そう言い聞かせて俺は自分から動くことを止めた。もう何年も前に。
ヒルダが死んだあと、まだ若かった俺は村の全てを憎んだ。けれど二十歳も過ぎて、村から離れて考えれば少しは分かる。あの時、あの事件で、真に悪かった者などいかなったのだと。すべては見えない何かに怯えた人間の弱さが起こしたものだんだと。
この村を嫌いにはなれない。当たり前だ。自分の生まれ育った土地なのだから。どんなに忌まわしい過去が記憶に根付いてしても、それ以前の過去が消えるわけではないから。幸せだった頃の記憶も、自分の中でひっそりと生きているから。
ヒルダの笑顔は、いつまでも記憶の中で褪せることなく残っているのだから。
マリーツィアは俺を見上げて微笑む。
「すべて上手くいくとは思わないけど、でも、少しでも納得できる形があるんじゃないかなって思うの。今のまま、無理だからって諦めて突き放すんじゃなくて、レギオンにとっても村の人達にとっても、一番いい形を見つける時なんじゃないかなぁって」
幼いと思っていた少女は、思っていた以上にしっかりしていた。俺なんかよりもずっと、未来のことを考えられているのかもしれない。
諦め。確かにそうだ。どう足掻いても消えることのない溝は、忘れることでしか解決できないと諦めていた。
「……それが見つかるまで、ここにいるつもりか?」
苦笑しながら問うと、マリーツィアは「うん」と素直に頷いた。
「そうしないと、レギオンは落ちつける場所を見つけても、何年かして『ああすれば良かった』って後悔するよ。後悔しないで生きていくのは無理かもしれないけど、できるだけ少ない方がいいよね」
その時のマリーツィアの笑顔といったら、花が綻ぶように生き生きとして、幸せそうだった。こんな顔をされて、これほどまでに俺のことを考えて行動している彼女の願いを、押しのけることなんて出来るだろうか。
彼女の中で、何年か先も俺が傍にいる、という未来があって。そんな儚い未来に苦笑しながらも、心の中では喜んでいた。顔には出ていない自信がある。彼女はいつまで、雛鳥でいてくれるんだろうか。できることなら、もうしばらく――なんて欲が出た。
「私ね、レギオンが私のためにいろんなものを捨てていくのは理解しているつもり。でもその中には捨てなくてもいいものもあると思うんだ。私は、レギオンに何もかも失わせたいわけじゃない。身軽になるために、捨てなくていいものまで捨てる必要なんてないの」
そう俺に諭すマリーツィアは、少女というには大人びている。最近はマリーツィアに驚かされてばかりだ。こんな表情をする少女だっただろうか。こんな、立派な女の顔をして。
動揺を悟られたくなくて、俺はマリーツィアから顔をそらした。
「何もかも捨てているわけじゃない」
言い訳のようにそう呟くと、マリーツィアが「嘘ばっかり」と少し怒ったように答えた。
「私はそんな重い荷物になりたくない」
レギオンのために、私だって何かしたいんだよ。
心臓を突くような無自覚の甘い言葉に胸が詰まって、俺は深くため息を吐き出した。十歳以上下の娘に、どうしてこうも負けてしまうのか。
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