第5話

 胸の奥から込み上げてくる寂しさのせいだろうか、あまり熟睡できた気がしない。

 寝不足のせいかかすかに痛んだ頭に苛立ちながら起きあがると、まだ暗い部屋の中に求める人影はいなかった。

「……レギオン?」

 もう夜は更けているはず。数時間もせずに太陽は東から顔を出すのだろう。

 それなのに彼は部屋に戻っていない。暗い部屋の中で私の声は迷子のようにいくあてもなく響いて消えていった。

 すぅ、と胸が冷えていく。

 あのグリンワーズの森にいた時から、こんな感覚には慣れていた。

 親しげに声をかけてくれた人々が、目を覚ました次の日にはいなくなっている。別れの言葉もなくまるで初めから存在しなかったかのように消えている。

 ぽろりと口から零れたのは嗚咽でもなんでもなく、小さな子守唄だった。

 言葉を忘れたくなくて、忘れないための手段としてただ毎晩毎晩歌い続けた、唯一昔からの私が持つもの。

 それはとても小さな歌声でしかないはずだった。

 この広い部屋の闇の中に飲み込まれてしまえば、部屋の外にいるレギオンに届くことなんてないだろうと思っていた。

 レギオンは私が歌を歌うことは弱さだと知っているから。

 だから気づかれたくなかった。

 彼の帰りを疑って不安になるなんて、それは私とレギオンの薄い関係をさらに希薄にしてしまいそうな気がして。



 再びうとうととしていたのだろう。

 目を開けると外は薄明るくなっている。

 それでも部屋の中にレギオンの姿はなく、さすがに心配になって扉へと走る。もしかしたら下のソファで眠ってしまったんじゃないだろうか。

 鍵を開け、扉を少しだけ開けて外の様子を窺う。

 ちょうどその時だった。


「ねぇ、レギオン」


 細い隙間から、艶めかしい女の人の声が聞こえる。

「!」

 その隙間からはレギオンの腕をからめ取りながら微笑む女の人の姿が見えた。

 ずきずきと胸が痛んだ。呼吸が上手くできない。苦しい。頭が痛い。

「これから寄らない? まだ夜明けまで少し時間があるわよ」

「いや……」

 誘うように笑う女性を前にレギオンが何かを言おうと口を開いた。それ以上は耐えきれなくて勢いよく扉を開け放つ。

「――……っ!」

 唇を噛みしめてレギオンを見ていると、女性は驚いたようにこちらを見ていた。レギオンも一瞬だけ目を丸くした後に苦笑する。

「……悪いな。うちのお姫様がご機嫌ななめみたいなんでね」

 そう言ってするりと女性の腕から逃れて、すたすたとこちらへ向かって歩いてくる。数歩の距離が何メートルも離れているような気がした。

 実際には短い、しかし私には途方もなく長く感じる時間をかけてレギオンが私の目の前に立つ。

「こら。部屋から出るなって言っただろ」

 こつん、と頭を叩かれる。

「こんな時間まで帰ってこないレギオンが悪い」

 むす、と下からレギオンを睨みながら反論するとレギオンはただ苦笑する。

「この時間までが仕事だからな。俺も、……他の奴も」

 ちらりと先ほどの女性を見ながら、レギオンは扉をゆっくりと閉める。閉めた扉にまたしっかりと鍵をかけてから振り返る。

「……おまえ、そのまま寝たのか」

 私を見下ろしながらレギオンが呆れたように呟いた。

「――あ。うん」

 レギオンにそう言われてから、自分が髪を結われたまま、綺麗なドレスを着たまま寝たからだろう。ドレスがくしゃくしゃになってしまっているのを思い出す。おそらく髪もぐちゃぐちゃだろう。

「たくっ……ほら、こっちにこい」

 化粧台らしきものの上から櫛をとってレギオンがベッドに腰掛ける。隣に座るように促されて素直に隣に座った。

「こっち向いて座ってどうすんだ。背中向けろ馬鹿」

 そう言いながら無理やり移動させられ、内心首を傾げながら大人しくしていると、レギオンが私の髪に触れた。見えてはいないけれど器用に髪を解いているようだ。きつく結われていた髪がすぐに解放されて、櫛で梳かされる。

 何度も何度も櫛が髪を梳き、それがひどく心地よくてうっとりと目を閉じた。触れる手はいつも以上に優しい。

「……おまえ、夜更けに起きていたろ」

 私の短い髪を丁寧に梳きながらレギオンがぽつりと呟く。

「ど、どうして?」

 動揺したのを隠そうとしたけれど、上手く誤魔化せている気はしない。驚いたのがそのまま声に出てしまった。

「別に。声が聞こえたから。また夜に歌っていたのか」

「……目が、覚めたから。そしたらなかなか寝付けなかったし」

 夜は昼間よりも不安を大きくする。不安な夜に歌を口ずさんでしまうのはもはや私の癖になっていた。

「そうか」

 レギオンはそれだけ呟いて黙り込んだ。それ以上の追究がないのは助かる。

 それからしばらく、髪を丁寧に梳いていたレギオンの手が離れていった。

「ほら、これでいいだろ。服はもうどうせ無駄だからそのまま着ていろ」

 そう言いながらレギオンはあくびを噛み殺しながら長椅子に横になる。

「レギオン? 私もうベッド使わないからそっちで寝たら?」

「……こっちで良いって言ってんだろうが。おまえこそ夜更かししていたんだからまた寝ればいいだろ」

 でも、と続けようとしたけれどレギオンは素知らぬ顔で長椅子で寝始めてしまう。まだ起きているのだろうけど目を閉じている彼を見ると声をかけるのが躊躇われた。

「……」

 結局何も話すことが出来ずに黙り込む。

 カーテンの向こうから透ける淡い光は間違いなく朝の到来を告げている。すべきことも特になくてベッドに腰掛けてぼんやりとしていると、ふぅ、とため息が聞こえる。

 レギオンの方を見るけれど、彼はこちらに背を向けたままだ。

「昼になったら買出しに行くぞ。大人しく待っていろ」

 それはまるで独り言のように呟かれたセリフではあったけれど。

「うん」

 気遣われた優しさが嬉しくて素直に応える。心の奥底に沈んだ何かが浮上してきたようだ。先の約束がある以上はそれまでは一緒にいられるんだと安堵している自分に少しだけ苦笑した。

「おやすみ」

 背を向けるレギオンにそう声をかけるけど、返事はない。寝ているのか、それとも寝たふりなのか――それを確認することは叶わないけれど、その時はただ静かに寝かせておこうと思えた。



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