第11話

 途方もなく長く感じる部屋までの道のりをゆっくりと歩いて、扉の前にじっと立ち止まって立ちつくす。

 たった一枚の扉が、どう足掻いても越えられない壁のように大きく感じた。

 しばらく扉の前に立ちつくしたあと、意を決してかちゃ、と静かに扉を開けると部屋の中は暗いままだ。

「……レギオン?」

 おずおずと部屋の中に入り、声をかけるけど返事はない。

 静かに部屋の中に入って行くと、レギオンは扉に背を向ける形で――私に背を向ける形で、長椅子に横になっていた。

 寝ている。……そう言いたいんだろう。

「レギオン」

 もう一度呼ぶけれど、やはりレギオンは答えない。

 ゆっくりと長椅子へと歩みより、膝をついてレギオンの背中に縋りつく。

「ごめんなさい」

 広い背中に額を押しつけて、泣きだしそうになるのを堪えながら何度も何度も「ごめんなさい」と呟く。

 自分の愚かさがわかった今は、それしか言えなかった。最善だと思った行為は、私の一番大切な人を、一番傷つける行為だったんだ。

「……ごめんなさい」

 自然と流れ出した涙は静かに落ちて跳ねる。

 どれだけそうして、何度「ごめんなさい」と繰り返したか、分からなくなるほど長い時間が過ぎて、ただ縋りついた背中から、たぶんレギオンは眠っていないんだろうということだけが察せられた。




 気がつけば、私は眠ってしまっていたようだった。

 目を開けて一番に目に入るのは未だに慣れない天井。

 目の周りはどこか腫れぼったくて重たい。どうしてだろうと原因を考えて、昨夜の出来事を思い出して私は飛び起きた。

「レギオン!」

 まさか置いて行かれたりはしないだろうか――そうされても何も言えないほどのことをした、その自覚が今はある私にとっては不安でたまらないことだった。

「起きたか」

 そんな私の不安を吹き飛ばしてしまう、レギオンの声。

 レギオンはいつもと変わらぬ様子でベッドに歩み寄ってくる。心のどこかではレギオンが私を置いていくはずもないと思いながら、本当にそうだったから驚いて茫然とする。

「やっぱり腫れているな。冷やした方がいいぞ、それ」

 こっちの方がましなくらいだ、とレギオンはそっと手の甲で私の右頬に触れる。昨日レギオンに叩かれたんだったと思いだすけれど、あまり痛みはなかった。やっぱり加減されていたみたいだ。

「……レギオン」

「待っていろ、タオルをもらってくる。そんな顔で外に出られちゃ、何したんだって俺が問い詰められそうだしな」

「レギオン!」

 何かを誤魔化すように早口で話すレギオンの背中にしがみ付く。

 どこにも行かないでほしい。傍にいてほしい。そんな言葉を口に出すのは簡単なはずなのに、喉に張り付いて離れない。

「ごめんなさい。ごめんなさい!」

 昨夜数え切れぬほど言った言葉をもう一度、心の底から吐きだす。

「レギオンのことがどうでも良かったとか、そんなこと絶対にないから、絶対絶対ないから! 私は私のことよりレギオンの方がずっと大事だから!」

 また溢れだした涙を堪える余裕もなく私は叫ぶ。

「だから、ごめんなさい」

 ぎゅ、とレギオンの服を握りしめると、ふぅと小さくレギオンがため息を吐きだしたのが聞こえた。

「それなら、もう何度も聞いた」

 呆れたような声に、やっぱりレギオンは起きていたんだと思う。

「……おまえが、過去を切り捨てられない気持ちは分かるつもりだし、他人のために動こうと思い始めていることは悪いことじゃないんだろう。だけどな」

 少し怒ったような声に、私はただ息を呑んで黙る。ひときわ低くなった声に一瞬だけびくりと怯えてしまった自分の身体を情けなく思いながら、それでもレギオンの側を離れるまいと服の裾を握りしめた。

「おまえがおまえ自身を軽んじるな。そんなこと誰も望まない」

 顔は見えないままだけれど、どこか優しさを含んだその声に、涙を飲み込む。

「……やくそくする」

 かすれた声でそう答えると、レギオンが笑った気配がした。一瞬にして空気が柔らかくなって、ほっとする。

「今日出るぞ。挨拶して来い」

 レギオンはゆっくりと振り返ると、私の髪を撫でて笑う。

 ああ、もうお別れなんだ。

 そんな感想がぽつりと浮かんだ。どうしてだろう、とても短い間だったのに、とても凝縮された日々だった気がする。挨拶するのもマダムやラナさんくらいしかいないけれど。

「わかった。……レギオン」

 服の裾をくいっと引っ張ると、レギオンが「どうした」と言いながら身を屈める。

 つま先立ちになって、そっと唇を寄せる。体勢に無理があったのか、ほんの少しかすめるくらいのキスにしかならなかった。

 すぐに離れた唇が、少しだけ寂しさを残すようにぬくもりを主張する。

「……おまえな」

「なぁに?」

 首を傾げて問うと、レギオンがはぁぁぁ、と長いため息を吐きだした。ただ感謝のつもりだったんだけど、間違ったのだろうか。

「キスの意味くらい覚えとけ」

「意味?」

 レギオンが私を引き剥がすように私の頭に手をおいて、腕を伸ばす。まるで近づけなくなって、私は訳がわからない、と呟くとレギオンはますます渋面した。

「そう気軽にするなって言っているんだよ。……もういいから、挨拶して来い」

「……レギオンは?」

 来ないの? と聞くと犬猫を追い払うように手のひらを振られる。

「もう済ませた。準備したら俺も行く」

「すぐに出るの?」

 目が覚めたばかりなんだけどな、と思うとレギオンは明るい窓の外を見て頷く。

「昨日あんなことがあったんだ。面倒になる前に出立した方がいい」

 ――あんなこと、というのはあの悲しい事件のこと。面倒なことは――私が『災厄の乙女』だと知られること、なんだろう。

「分かった」

 納得できるから素直に頷いて、手早く身支度を整えると部屋から出る。朝だけど、ラナさんやマダムは起きているだろうか。




 一階のホールに行くと、マダムとラナさんは私の姿を見つけて微笑んだ。

 その優しい顔になんだか嬉しくなって駆け寄ると、マダムがそっと手を伸ばして頭を撫でてくれた。

「聞いたよ。行くんだってね」

 ほんの少し寂しさを滲ませた声に、少し泣きそうになって「はい」と答えた。

「短い間でしたが、お世話になりました」

 ぺこりと頭を下げると、気にすることないのに、と笑う声が聞こえた。

「……マリー」

 深刻そうなラナさんの声に、私は顔を上げる。ラナさんは少し困ったように――それでも優しい顔で微笑みながら私をまっすぐに見ている。

「あなたがどんな存在であったとしても、私達にとってはただのマリーよ」

「ラナさん」

 気づいて、なんて言葉は無粋だろう。ラナさんを守る為に私は自ら『災厄の乙女』を名乗ったんだから。でももしかしたら、ずっと前に気づいていたのかもしれない。

「私はこの国から出ないし、この街で生きていくと思う。けどね、それは幸せになることを諦めているからじゃないから。それは覚えておいてね」

「わたし、」

 何を言おうとしたのか分からない。けれど何かを紡ぎ出そうとして失敗した。

 込み上げてきた涙が言葉を作ろうとする私を邪魔する。


「マリーツィア」


 何か、何かを言おうとして口籠もる私をレギオンが呼ぶ。

 振り返ると、荷物を持ったレギオンが私を待っていた。

「時間だね、おいき」

 マダムが優しく背中を押す。それでも一歩を踏み出せずにいると、ラナさんが笑って一枚の紙を私の手に握らせた。

「ここの住所よ。暇な時にでも手紙をくれたら、嬉しいわ」

「え、でも……私、文字書けないです」

 ついこの間まで読むことも出来なかったのだ。今だってレギオンの手伝いがなければ文字を読めない。少しずつ教えてもらってはいるけれど――。

「なら、なおさらよ。いい練習になるでしょう?」

 ラナさんはにっこりと笑って、そしてマダムと一緒に私の背を押す。

 後ろ髪引かれながらもレギオンのもとへ行くと、レギオンは目だけで「もういいのか」と問うてくる。

 ――私がこの地を踏みしめることは、もうないだろう。

 つまりそれは、二人とはもう二度と会えないのだということだ。

 差し出されたレギオンの手をとり、静かに私は頷く。


 私はもう――選んでいるんだ。


 唇を噛み締め、ホールの真ん中に立ってこちらを見ているマダムとラナさんを振り返る。優しい笑顔に涙がこみ上げてきたけれど、それを必死で飲み込んだ。

「さよなら! ありがとうございました!」

 二人の笑顔に応えるように、精一杯の笑顔で私は手を振る。





 私はこの繋いだ手をもう離さない。

 どれだけ傷つけようと、傷つけられようと、それでも私はこの手を選ぶ。

 これから続く旅路の中で、私はたぶん多くのものに出会って、そして別れを迎えるんだろう。

 それでも、最初に選んだこの人とだけは別たれる日が来ることがありませんように。

 王都の中の夜の街を照らしだす太陽の光に目を細めて、私は青空を見上げる。



 眩しい、旅の始まりだった。




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