第13話
あまり村人を刺激しない方がいいだろう、という結論に至り、騒ぎの翌日はマリーツィアと二人で家から出ずに過ごした。よほど暇だったのか、マリーツィアは掃除を始めて、家のあちこちをぴかぴかに磨き上げていた。手紙はあの騒ぎになる前に出したと言っていたから、彼女としても外に出る理由がなかったのだろう。
しかし丸一日以上家に閉じこもっていれば、当然食料がなくなる。買いに行かなければ餓えるだけだ。ため息を零して「買い出しに行くか」と呟くと、こちらのことなど気にもかけず大掃除二日目を迎えていたマリーツィアが振り返る。
「外に行くの? 私も行っていい?」
騒ぎのことなど欠片も覚えていないような陽気な声に、俺は心の底から呆れた。こりないのか、と説教を始める前に、マリーツィアはいそいそと掃除用具を片付け始める。
「マリーツィア。おまえは家にいろ」
分かっているだろ、と告げたところで、マリーツィアは俺を見てあわく微笑む。とことこと歩み寄ってきて、小さく白い手が伸びてきた。人差し指がつん、と俺の眉間に触れる。
「皺、寄っているよ。レギオン」
笑って、そしてマリーツィアはマントも羽織らずに外へ出る。白い髪を隠すものは何もない。
「マリーツィア!」
「隠したって意味ないよ。皆知っているもん。行こうレギオン」
白い髪は日の下で美しく咲き誇る。あの森で咲いていた花のように。差し出された手を握りしめて、不安に揺れる心を奥底へ押し込めて俺は歩き出した。
生ぬるい風が頬を撫でる。俺の手を握り締める小さなぬくもりに、ただ縋るように祈った。どうか、彼女を傷つけるものがありませんようにと。
市場へ入った瞬間に、ぞわりとするほどの視線がこちらに向けられた。その視線に憎悪や嫌悪の色はない。ただ、たくさんの人間の視線が集まるとそれだけで凶器となるのだと思い知らされる。手を繋いでいる少女は、素知らぬ顔で歩いていた。その表情に、彼女が言っていた「慣れている」という言葉の重さを実感する。彼女が浴びてきた視線は、こんな生易しいものじゃないだろう。
「えっと野菜がもうないよね。それに少し果物が欲しいなぁ。卵はまだ少し残っているから、今日は――レギオン?」
きょろきょろと周りを見ながら、何を買うべきか考えているマリーツィアが、ふとこちらを見上げた。深い緑色は、森と同じ色をしている。
「なんだ」
「人の話聞いている?」
むすっとした顔でそう問いかけてきたので、ああこちらの意見を聞いていたのか、と思う。その様子が子どもっぽくで、緊張感を孕んだ空気が柔らんだ。
「聞いている。好きなものを買え。ただ買いすぎるなよ、どうせおまえはあまり食べないだろ」
「レギオンは大きいからいっぱい食べるもん」
「そんなに食べない。野菜なんて買いすぎたら腐らすだけだろうが」
マリーツィアはうー、と唸りながらあれこれと店を見て回る。ふとマリーツィアの目線がひとつの店先に止まった。いろいろな動物の形をした飴を売っている店だ。棒の上にはうさぎや猫といった動物を模った、琥珀色の飴がある。子どもがおやつに利用する店だ。野菜だ果物だと主婦っぽいことを言っておきながら、と俺は苦笑した。
「……どれがいいんだ?」
店に近づきながら問うと、マリーツィアが「え」と目を丸くする。そして徐々に赤くなって、首を横に振った。
「い、いらない」
傍へ寄ると甘い香りがする。マリーツィアはちらちらと飴を見ながらも「欲しい」とは口にしなかった。ふぅ、とため息を吐き出して、小銭を出す。子どものおやつ用なだけに、どれだけ大きなものを買ってもそれほど高いものじゃない。
「ひとつ」
小銭を店のおばさんに差し出せば、くすくすという微笑みが返ってきた。
「相変わらずだね、レギオン。ほら」
そう言って差し出されたのは小鳥の形をしたものと、猫の形をしたものひとつずつだ。訝しげに眉を寄せると、おばさんは笑う。小さな頃からこの店先にいた人だ。
「おまけだよ。……おかえり、レギオン」
目元に皺を刻んで微笑むその人を見て、ああ老けたな、と思う。もっと大きな声で溌剌と笑う人だったのに。しかしその一言をきっかけに、村人たちから向けられた目が――視線の塊が和らいでいくような気がした。
ただいま、とも素直に言えずに、俺は小鳥の形をしたほうをマリーツィアに押しつける。マリーツィアはおばさんと俺とを交互に見て、ぺろりと飴をなめた。
「……! 甘い! おいしい!」
こんなのどこにでもあるような飴だろうと思いながらも、マリーツィアの嬉しそうな顔にふっと緊張が解けていく。おばさんはきょとんと目を丸くしたあとに、以前のような明るく元気のいい声で、腹の底から笑った。
「そうかい、おいしいかい! うちの飴はね、魔法の飴だからね!」
「魔法の飴!?」
お決まりの子ども騙しの話に、マリーツィアが目を輝かせた。
「そうだよ、うちの飴にはね、しあわせになる魔法がかかっているんだ」
わぁ、とマリーツィアが嬉しそうに笑って、そして俺を見上げる。
「じゃあレギオンも舐めなきゃ!」
それ、と指差されたのは猫の形の飴。いい年した大人が、これを舐めろと。顔が引きつるのはどうしようもなかった。けれどマリーツィアが真剣な顔でこちらをじっと見る。逃げ道を探しながらも、簡単なのはこれをとっとと食べてしまうことだと分かっていた。仕方なくそのまま飴を口に放り込む。噛み砕いてしまえば楽だが、動物の形をしたそれを粉々にしてしまうのは良心が痛む。
俺が飴を舐めていることを確認すると、マリーツィアは満足そうに頷いた。俺としてはこの年で飴を舐めていて、その棒が口から伸びているという状況こそ痛々しい。しかしその間抜けな光景のせいか、周囲の目がどんどん柔らかくなってきたのは確かだった。
マリーツィアはそれからあちこちの店を覗いて、野菜を買いつつ果物を試食したりして楽しそうにしていた。人見知りではあるが、本来無邪気で人懐っこい彼女はみるみるうちに村人の中へ溶け込んでいく。心配なんて杞憂にすぎなかったな、と苦笑した。口の中の飴は溶けて甘みを広げていく。
マリーツィアが俺の連れであることは、村人の誰もが分かっていることだった。マリーツィアの容姿を見ても訳ありなのは一目瞭然で、村人たちは自然と『災厄の乙女』と同じような容姿をしている可哀想な女の子を、レギオンが放っておけなかったのだろうという解釈をしたようだった。当たらずとも遠からず、と言った反応に、ただ苦笑する。
あちらこちらの店で話しかけられているマリーツィアを見張る。放っておくとどこへ行くか分からないが、一緒になって歩くこともないだろう。狭い市場だ。
「……すまなかったね。この間は」
ちょうどすぐそこにあった出店のおばさんが、こちらを見てふと呟いた。
「驚いちまっただけなんだよ、皆。忘れられるはずもない、災厄の乙女のことを、あの子を見て思い出して。傷口を抉られて。あの子が悪いわけじゃないって、頭では分かっているんだ」
気を悪くしないでおくれ、と言われてしまえば、俺も責めることなどできない。もともと誰かを責めるつもりなんてなかったが。
「気にしてない。仕方ないとは思ったけどな」
「あんたはホント、小さい頃から聞きわけがいいんだか悪いんだか……」
変わらないねぇ。そう呟く瞳はどこか嬉しそうでもあり、切なそうでもある。おばさんは「これを持っていきな」とお代も取らずに林檎を二つ押し付けた。断ろうかとタイミングを見計らっていると「レギオン!」と明るい声が近づいて来る。
「なんだか話していたらこんなにいっぱいもらっちゃった! 食べきれるかな」
マリーツィアは嬉しそうに笑いながら野菜やら果物やらお菓子やらをいっぱい詰め込まれた大きな紙袋を両手に抱えている。マリーツィアに金を持たせていないから、これは全て村人からの好意、ということになる。
「おまえな……」
「だ、だっていらないって言っても皆が押し付けてくるんだもん」
悪いことをしたのだろうかとしょげるマリーツィアを叱りつけるわけにもいかず、また自分も受け取ってしまった手前、なんとも言えない。
「何も言わずに受け取っておきな。皆嬉しいんだよ、久し振りにあんたの顔が見られて」
くすくすと笑うおばさんに同意するように、あちこちの村人が笑っていた。懐かしい風景だ。昔はこんな風に誰もが笑っていた。くすぐったくて、素直に笑えない。マリーツィアがそっと俺の手を握りしめて、しあわせそうに笑った。
深緑の瞳は優しく、穏やかで、俺はその目に応えるように不器用に微笑んだ。
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