第6話


 頭上には月。

 足元には濃い影が出来ている。月の光はいつもに増して強いのに、太陽とは違って眩しさを感じさせない。むしろ暗い闇を取り払うように輝いていることに今日は感謝していた。

 おかげで、暗い中でもはっきりと見える。

『ヒルダ・オールディス』

 マリーツィアは墓石に刻まれた名前をなぞるように撫でた。ただじっと見つめて、しゃがんだまま何も言わない。ヒルダの墓の隣には両親の墓がある。そちらも申し訳程度に手入れがされて、花が添えられていた。ヒルダの墓はそれと比べる必要もないほどに綺麗で、花はつい先ほど供えたのではないかというくらいに瑞々しい。小さな田舎の村の墓地の中で浮くくらいに花が多く供えられている。

 俺がこの国を去っても、きっとヒルダの墓はこの美しさを保つだろう。あの凄惨な事件を知る人間がこの世から去るまで。

「……綺麗だね」

 ずっと黙り込んだままだったマリーツィアが、なんとも言い難い顔でそう呟いた。

「……ああ、いつもこうだ」

 苦笑して、それからまた黙り込む。やってくる前はお花くらい供えたかったな、と手ぶらであることをぼやいていたマリーツィアだったが、小さな墓の前に供えられているたくさんの花を見てからはそのことに触れてこない。

 夜の墓地で人目もないから、とマリーツィアはフードを下ろしている。白い髪は月明かりを受けて寒々しいくらいに白さを増していた。

「そっか……良かった」

 しばらくすると、マリーツィアは供えられた花たちを見て呟いた。何の話だろうと彼女を見下ろすと、マリーツィアは花を見つめたまま続ける。

「それなら、レギオンがいなくなっても、ここは綺麗なままなんだね」

 家族がいなくなってしまったからといって、荒れてしまうことはないんだね。マリーツィアはほっと安堵したような顔をしていた。それが今まで幼さを残していた少女というより――憂いを帯びた一人前の女の横顔に見えて、動揺した。保護者気取りで傍にいて、時折湧き上がる欲から目をそらしてきた自分には充分過ぎるくらいの威力だった。

「レギオン?」

 黙り込んだ俺を見上げて、マリーツィアが首を傾げる。白い髪がさらりと揺れた。俺を見つめる大きな深緑の瞳はこちらの感情を見透かしてしまいそうなのに、目をそらすことが出来ない。

「……どうか、した?」

 おずおずと躊躇うような問いだった。女の顔をしていたはずのマリーツィアは、一瞬にして少女に戻る。そのことに安堵した。

「何でもない」

「レギオンは挨拶しなくていいの?」

 墓の目の前から立ち上がり、場所を譲るようにマリーツィアがこちらを見た。しばし逡巡したあとで、墓の前にしゃがんで墓石をそっと撫でた。昔ヒルダの頭を撫でていたように。墓参りのたびにする癖だ。

 硬質なその手触りは、ヒルダの柔らかい髪には到底及ぶまでもない。どんなに懐かしく焦がれたところで、あの髪の手触りは記憶の中で色褪せていく。


 ――ごめんな、と心の中で呟いた。

 おまえも父さんも母さんも、ここに眠っているのに。俺はそれを置いてこの国を出ていく。もうこの国には望みはないと思ったから。たった一人の少女を俺が必死に守ろうとしても、この国のすべてがあっさりと彼女の敵になるだろうから。

 置いていく、だからごめん、と。何度も許しを乞うように繰り返した。


 許しを乞うたところで、それを与えてくれる人間はいない。けれどヒルダならきっと、笑うだろう。「いいよ、好きにして」と優しく笑うんだろう。そういう妹だと知っている。

 思い出せばいくらでも涙は湧いてくる。出来ればマリーツィアの前では泣きたくないと、こうして向き合うことに悩んだのに。気づけばぽたりと雫が落ちた。俯いた視線の先で、供えられた花が濡れている。ぽたぽたと、落ちてくる雫で花弁はどんどん濡れていった。

 情けないと思いながらも、涙は静かに落ちる。日のある時間じゃなくて良かった、せめて夜の闇に隠れる時で。そんなことを思っていると、背中にぬくもりを感じた。

 背に頬を寄せて、ただそっと身を寄せて、マリーツィアは黙っていた。泣かないで、と言うわけでもなく。下手な気休めの言葉を言うわけでもなく。ただ黙って、ただ傍にいると伝えるために。




 ――お兄ちゃんは、人の為に生きる人だよね。そんなことをヒルダが言ったことがある。その日の夕飯を運びながら、子どものくせにヒルダは一人前の女の顔をしていた。

「なんだよ、突然」

 その時にはもう両親は他界していて、家族はヒルダと俺の二人きり。俺は兄妹で生活していこうと必死だった。

「私はまだ子どもだけど、でも何も出来ないわけじゃないんだよ? なのにお兄ちゃんは自分のこと放って私のことを気にかけすぎだよ」

「たった一人の妹なんだから、当たり前だろ」

 何を言い出すんだか、とその時は苦笑した。まだ幼い妹が、一丁前に大人ぶりたいんだろうと。

「そんなこと言っていると婚期を逃しちゃうんだからね。お兄ちゃんみたいな人のところにお嫁にきてくれる人なんてそういないだろうし」

 俺はまだ十六歳だよ、と笑った。確かに早い奴は十八、九歳で嫁さんをもらって、子どもがいたりする。けど俺はヒルダを任せられる奴が見つかるまでは身を固めるつもりはなかった。俺にヒルダ以上に大切な存在が出来てしまえば、いざというときヒルダを守る奴がいなくなるから。

「いいよ、別に。結婚なんていつか出来れば」

「もう、めんどくさがりなんだから」

 そう言いながらヒルダは仕方ないね、と笑った。だってお兄ちゃんだもの。

「お兄ちゃんって、自分の為に時間を使わないよね。お人好しなんだから」

 いつも頼まれると飛んで行って、喧嘩の仲裁とかしたり、家の修理を手伝ったり、そんなことしてばかり。趣味らしい趣味なんて、剣の稽古くらいじゃない。

「いいんだよ、それで」

「うん、いいよそれで。だからねお兄ちゃん。もしお兄ちゃんに大切な人が出来たら、私のことなんて気にしなくていいんだからね。お兄ちゃんの大切な人のために、お兄ちゃんの時間を使っていいんだからね」

 私は、自分のことくらい自分で出来るから。

 まだ幼い妹は、そう言って笑った。今思い出しても、出来た妹だった。




 ゆっくりと立ち上がると、マリーツィアは黙って俺を見上げた。

 何も言わず、ただ優しく微笑んで。その小さな手のひらで俺の手を握って。何も話さずとも、その存在を伝えるように。暗闇の中でもお互いのぬくもりを分かち合えるように。

 どうかこのぬくもりは、褪せることがないように今はただ祈るだけだった。



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