第8話
それから街へと戻り――長旅に必要と思われるものを買い揃えて、私の着替えもいくつか見繕った。動きやすい服と防寒着、質素なワンピースを何枚か。
そうして過ごしているうちに太陽は西の空へと沈み、空が赤く染まり始めていた。
「買い忘れはないな。帰るぞ、マリーツィア」
「うん」
大きな荷物を抱えながらレギオンははぐれないようにとわざわざ片手をあけて私と手を繋ぐ。私が持っているのは自分の服だけだからそれほど重くない。
「……いつ出発する?」
準備は一日で整った。今日の夜にでもここを離れることができるのだ。
「さっき町で聞いた話じゃ、最近王都も物騒らしいからな。出来るだけ早く出発したいところだ」
「何かあったの?」
王都といえば騎士団が治安を守るために配置されている。その王都が物騒なんて、と首を傾げてレギオンを見上げる。
「……通り魔が出ているらしい。若い女ばかり斬られている」
しばしの沈黙のあとでレギオンが口を開いた。私に聴かせることを躊躇ったんだろうと分かってしまうから、その優しさが少し切ない。
「だからおまえも、絶対に一人で外を出歩くなよ。夜でも昼でもだ」
「分かっているよ。出てないじゃない」
通り魔の件があるにせよ、無いにせよ、私が一人であの館から――否、あの館の一室から出ることはない。いつもレギオンという守りがあってこそだ。
ならいい、とレギオンが微笑む。
その時だった。
「きゃああああああぁぁぁぁぁ!」
夕暮れの薄闇を切り裂くような悲鳴が、夜に近い闇の街に響いた。
「!」
パッとレギオンが声のする方へ顔を向ける。そしてすぐに私を見た。少し困ったような、何かを躊躇うような、そんな顔だった。
こういうとき、レギオンの昔の顔が窺える。彼はあの塔に来る前、左目の光を失う前は騎士として、人を守るために駆けていたんだろうと。
「行こう?」
私が首を傾げて問うと、小さく「悪い」と呟く。
悪いことなんてしていないのに、と苦笑するがレギオンには見えていないだろう。
繋いだ手をぎゅ、と強く握りしめて走り出した。ちらほらと騎士団らしき人の姿が多かったから、レギオンが向かう必要はないかもしれない。それでもここで放っておけば彼は気にするんだろう。
悲鳴が近かった分、すぐに辿り着いた。
噎せるような血の匂いに、一歩後退る。生暖かい血が地面に赤い海を作っていた。
「っ!」
レギオンが悔しそうに歯ぎしりした。そしてすぐに私を抱き寄せて「惨状」を見せないようにする。
すぐに駆け付けたというのに――犯人はいない。
私達よりも早く駆けつけてきた騎士団の人間が血の匂いの中で声を上げていた。集まる人々を近づけさせないように、そして何も言わぬまだ温かなその「人」を調べているのだろう。
「……レギオン」
私は大丈夫だよ、と小さく呟く。自分のすぐ傍らで人が死んでいるというのに私は不思議と冷静だった。レギオンの胸にもたれながら、その少し強い腕の拘束から逃れようとする。
「おまえは見るな」
しかし腕から抜けようとすればするほど、レギオンは腕の力を強める。
「被害者はまた」
「ああ、この街の女だな」
そう話す周囲の野次馬の声が聞こえた。
この街、が指すのはつまり――この夜の街のことなんだろう。「また」ということは前の被害者もそうだったということ?
「今度は見事な白い髪だな」
嘲笑するその声に、びく、と身体が震えた。
「この間は目が緑だったんだっけか?」
「いや、髪も白っぽかったよ。犯人もどういうつもりなのかねぇ」
知らず知らずに震えが生まれた。
白い髪。緑色の瞳。その特徴が示す人間はただ一人だ。
そしてその被害者を見ながら世間話をする男性の声には憐れみも悲しみもない。あるのは「仕方ない」という雰囲気だけ。
殺されても仕方ない。
だってソレは、普通の人ではないのだから。
気がつけば周囲はそんな会話ばかりしている。
「レギ、オン」
ぎゅ、とレギオンの服を握り締めて名を呼ぶ。応えるように彼はまた腕に力を込めた。
「戻るぞ」
そう短く呟いて、私をそのまま抱きかかえた。片手で荷物と同じように持ち上げられたけれど、そんなことも気にせずにただレギオンにしがみつく。
――人の死は怖くない。
けれど、その死を笑う人々が怖い。
「……ぃじょうぶかい? 嫌なところに出くわしたねぇ」
途切れた意識の中で、マダムの声が聞こえた。
レギオンにしがみついたまま、私は全てを拒絶していた。何も聞きたくなくて、何も見たくなかった。ただぬくもりに縋りついて恐ろしい現実から目を背けた。
ゆっくりと顔を上げると、いつもよりもずっと高い視線で私はマダムを見下ろしていた。マダムの心配そうな瞳が私を映し出している。
「ゆっくりお休み。今日は用心棒もいらないよ」
少し荒れたマダムの手が私の髪を優しく撫でて、緊張で強張っていた身体から少し力が抜けた。
「悪い」
レギオンはそう答えながら苦笑する。館には早くも『お客さん』が集まってきていて、綺麗に着飾ったお姉さん達があちこちから私とレギオンに視線を投げてくるのに、レギオンはその全てを無視したまま私を下ろそうとはしなかった。
肩に顔を埋めて涙を堪えた。
――この国はいつから狂ってしまったんだろう。
レギオンが言ったように、どの国にもこういう場所はあって、こういう店はあるんだろう。そしてそこで働く人がいる。それはたぶんどうやっても覆ることのない真実だ。
災厄の乙女がこの国に根付いて。
そして似た容姿の女性が疎まれて。
理解はできる。仕方ないのかもしれない。災厄の乙女そのものが消えない限りはどう足掻いても変えられるものではない。
それでも。
そうだとしても。
殺されて、命を奪われて、人々に笑われるなんてことは、仕方ないことなのだろうか。
「マリーツィア」
低い声が私の名前を呼んだ。もう随分と耳に馴染んだその声に、沈んでいた意識を浮かび上がらせる。
目の前には紫色の宝石のように綺麗な目があって、無意識に眼帯で隠された方の目に手を伸ばしていた。いつもなら眉を顰めて「何してんだ」の一言でもありそうなものなのに、レギオンは何も言わずに私を見つめてくる。
「……どこからが間違いだったんだろう」
ぽつりと呟いても、レギオンは表情を変えない。
「あの人が偽りの託宣を下した時から? 私のおじいちゃんとおばあちゃんがあの人に会いに行った時から? 私が生まれた時から? お母さんとあの人が出会った時から? ……どのくらい遡ればやり直せるんだろう」
少なくとも『災厄の乙女』なんて託宣がなければ、今日あの場であの女性が殺されることはなかっただろう。違う場所で、違う女性が、違う理由で殺されることはあるかもしれないけれど。
「……過去がやり直せるなら、レギオンは妹さんを失わずに済むのにね」
そう呟きながら微笑むと、レギオンが怒ったように眉間に皺を寄せた。
伸ばしていた手がレギオンの大きな手に包み込まれて、火がついたように光る紫水晶の瞳が私を睨んでいた。
「過去は戻らない。そして未来がどうあれ、人と人の出会いには意味があるはずなんだ」
「その意味が、人を、国を狂わせるものであっても許されるの?」
十五年前。
たった二人が出会ったことでこの国はこんなにも変わってしまったのに。こんなにも哀しく、狂ってしまったのに。
「たとえ国や世界が狂うとしても、人が不幸になるとしても」
掴まれた手首が痛い。
苦しそうなレギオンの顔を見るのが辛くて、それでも目をそらすことが出来なくて困り果てる。
「頼むから」
懇願する声に、心臓が鷲掴みされるような感覚に陥る。
レギオンは私の肩に額を押し付けて、神様にでも祈るように言った。
「生まれなければ良かったなんて――出会わなければ良かったなんて言わないでくれ。俺はおまえと出会ったことを不幸だなんて思わないし、なかったものにしたいなんて思わないから」
――ああ。
苦しげなそのセリフに、私は現実を思い出す。
例えばあの託宣がなかったら、私が生まれていなかったら、私はこのぬくもりを知ることは出来なかったんだ。この優しさに触れることも。
ごめんなさい、と私は心の中で呟いた。
もし過去をやり直せるとしても、全てをなかったことにできるとしても。
レギオンが、妹さんを失うことになってしまっても。
――私は、この人を求めるだろう。
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