第3話

 重い雲が月を隠して、その夜は闇がより濃く光さえ飲み込まれそうなほどだった。

 眠ろうと横になったが眠気もやってこない。静かな雨音が良い子守唄になってくれると思っていたがそうでもないらしい。ふぅ、とため息を吐き出して、起きあがる。窓を開けると、雨音以外の音が聞こえた。

「――?」

 耳を澄まして聴いてみると、それは本物の子守唄のようだった。

 可愛らしい鈴の音のような、歌声だ。

 皮肉なことにその声には覚えがある。彼女の声をここで一番よく知っているのは、おそらく俺以外にはいないだろう。

 上着をはおり、上の階へ向かう。

 ここは災厄の乙女を閉じ込める為の塔――彼女は最上階にいる。



「……子供は寝る時間だぞ」

 ノックしたが反応がなかったので、無断で部屋の扉を開ける。

 部屋の主は驚いたように目を丸くし、歌声がぴたりと止む。彼女はいつか眠っていた窓辺の長椅子に座り、こちらを見ていた。

「なに、してるの。レギオン」

 寝間着に着替えている少女は相変わらず頼りないほどに細く、長く白い髪は闇夜の中の唯一の光のように浮かび上がって見えた。

「夜更かししている悪ガキを注意しに来たんだ。窓開けるな、雨が入るだろ」

 歌声が聞こえた原因だろう。大きな窓は開け放たれていた。雨は部屋に入り込むほど強くはないだろうが――夜風は身体に悪い。

「レギオンも夜更かししているじゃない」

「俺は大人だから許されるんだよ」

 一瞬部屋に入るか悩んだが――就寝前の少女の寝室に入り込んだ、と怒り狂うような人間は残念ながら彼女にはいない。本人もまるで頓着せずに、歩み寄る俺を見上げていた。

「なんだってこんな夜に歌なんて」

 呑気に歌うなら、昼間に晴れた空の下ででも歌っていればいい。

 呆れたように呟くと、彼女は苦笑した。

「癖、なんだよね。時々こうして歌うの。名前とかさ、呼ばれないと忘れちゃうでしょう? そのうち話し方も忘れちゃうんじゃないかなって、小さい頃不安になって……」

 歌をこっそりと歌い始めたのは、おそらく自分の名前を忘れてしまった頃なんだろう。わずか五歳の少女が自分の名前を忘れるまで、どれほどかかったのかは想像も出来ない。人間の記憶というのは五歳前後で切り替わるというから――忘れてしまったのも無理はないのだろう。

「声の出し方を忘れないように、唯一知っている歌を、夜にこっそり歌うようになったの。小さな頃は、大人の目が怖かったから」

 窓の外を眺めながらマリーツィアは呟いた。

 耳を塞ぎたくなるような感情に襲われながら、冷静な自分がそれを止める。

 彼女を――災厄の乙女を憎むことが、初めから八つあたりのようなものだと気づいていた。俺には彼女を憐れむ資格も、慰めることも許されない。可哀想だなんて思うことで憎しみが揺らぐなら、初めから彼女に不用意に近づかなければいいのだ。

 今更、彼女から目を背けるのは間違っているだろう。

「――ホント、手に負えないガキだな。おまえは」

 彼女の隣に立ち、その長い髪を撫でる。やさしくされることに慣れていないんだろう。マリーツィアは困ったように俺を見上げた。その緑色の瞳が揺れている。

「……もう寝ろ」

 くしゃくしゃ、と少し乱暴に髪を撫でて短く言う。

 そのまま部屋に戻ろうと扉に向かうと「たまに」とマリーツィアが口を開いた。

「たまに、レギオンみたいな人もいたよ」

 それはたぶん、彼女を無視できずに話しかけてしまう馬鹿な人間のことだろう。

「――みんな、ここから出ていっちゃったけど」

 そうだろうな、という言葉は口に出さなかった。塔の人間は頻繁に入れ替わる。災厄の乙女の子守りなんて損な役回りだ。出世できるわけでもないし、名誉ある仕事でもない。

「……みんな、やさしくてひどい人達だった」

 真っ直ぐに見つめてくる瞳に、わずかな悲しみが宿る。おおよそのことは察しがつく。自分も同じ種類の人間だからだろう。

「そうだろうな。……俺も、同じだよ」

 苦笑しながら、一度飲み込んだ言葉を口に出す。

 そのまま何も言わずに部屋を出た。扉の閉まる速度が不思議なくらいにゆっくりだった。


 彼女を無視することはできないのに。

 彼女を一人ここに残していく。

 人のやさしさを染み込ませておいて。

 より一層の孤独を感じさせる。


 その夜は、もう子守唄は聞こえなかった。




 ――ヒルダは、明るい女の子だった。

 八歳も下に出来た妹だったから、俺は殊更に可愛がっていた。ヒルダが五歳になる前に両親とも流行病で死んでしまったので、たった二人の家族だった。

 親を早くに亡くしたせいだろうか、ヒルダはしっかり者だった。家事も率先して取り仕切り、死んだ八歳の頃には俺に手出しをさせないところまで出来ていたくらいだ。

 兄妹といっても外見は似ていなかった。白銀の髪のヒルダは、いつも俺の金髪を見て羨ましがっていた。俺としてはヒルダの髪も綺麗だと思っていたけれど、今となっては同じ金髪だったら、と思ってやまない。

 小さな頃から珍しい髪色のことで同年代の男子からいじめられることが多かった。

 その度に駆けつけてはいじめっ子を退治してきたものだが――あれも好きな女の子をいじめてしまう男の子の典型だったんだろう。

 ヒルダの死を知らせてくれたのはまさにそのいじめっ子だった少年達だった。

 災厄の乙女の噂は伝わっていた。

 しかし今までヒルダを可愛がっていてくれた村人達が、危害を加えるかもしれないなんて考えたこともなかった。

 だってヒルダの髪は白くない。

 ヒルダの瞳は深い緑じゃない。

「――レギオンっ!!」

 血相を変えて駆けつけてきた少年達の口からは、信じられない言葉が飛び出した。

「助けて! ヒルダが大人達に殺される!!」

 しかし身体は咄嗟に動いた。あまり使われていない剣を持ち出して、少年達の後を駆けていく。

 確かに、その年は不作だった。

 天候も悪く、嵐が村を襲うこともいつもより多かった気がする。

 でもなんでそれが『災厄の乙女』に繋がる?

 なんでそれがヒルダのせいになる?

「――――ヒルダっ!!」

 町の広場には、人だかりが出来ていた。

 大人の男が何人も何かを囲うようにして壁を作っていた。女達は顔を真っ青にしてそれを見つめていて、一部にはそれを増長するように『災厄の乙女』を非難する者もいた。

 剣を抜いて、気がつけば叫んでいた。

「どけええぇぇぇ!!」

 その時の俺は、おそらく鬼のような形相だったのだろう。男達は怯えるように散り、女達はそそくさとその場から逃げた。

 それまでの人だかりが嘘のように人気のなくなった場所の中央に、ヒルダは横たわっていた。

「ヒルダ……?」

 長く綺麗な白銀の髪は泥だらけで、白く透き通るような肌は、元の色が分からなくなるほどに変色していた。顔は血だらけで、腫れ上がって、翡翠の瞳は固く閉ざされたまま。

 恐る恐る触れてみれば、氷のように冷たかった。

 いつもいつも、いじめられているヒルダを助けるのは自分の役目だった。

 なのに、肝心な時に、間に合わなかった。

「あああああぁぁああぁぁあああああ!!」

 いくら叫んでも叫んでも、叫び足りなかった。冷たい妹の身体を強く抱きしめて、何度も名前を呼んだ。


 その後、ヒルダを暴行した男達は捕まった。

 そしてその時になって『災厄の乙女』はすでに見つかっていたことも知らされた。

 当然、村に居づらくなった俺はそのまま王都の親族を頼って移り住み、騎士団へ入団した。村にはそれ以来、ヒルダと両親の墓参りくらいにしか戻っていない。もちろんその時村人と話すこともなかった。

 ヒルダの墓がいつも綺麗なのは、村人達の罪滅ぼしなのだろうか。行くたびに墓には綺麗な花が供えられている。


 ヒルダを殴り、蹴り殺した男達も。

 それを囃したてた女達も。

 あの時見て見ぬふりしていた奴らも。

 許されるわけがない。

 許せるわけがない。

 けれど何より――災厄の乙女なんていう存在が、俺には許せなかった。

 それと同じくらいに、無力な自分も。



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