第8話 お化け寺

 赤羽道場に客があった。徒目付の武石半兵衛だ。

「で、先生は、どちらにつくかお決めになりましたか?」

 意味のない時候の挨拶がすむと、武石は、すぐに精一郎に問いただした。

「近頃、城下を騒がしている暗殺は、おぬしらの仲間がやっているのか?」

 精一郎も単刀直入だった。

「もちろん違います。我らの同志にあのような卑劣なまねをするものはおりません。急進派のはぐれ者の仕業かと」

「誰がやっているのか見当はついておるのか?」

「分かりません。我らも手を尽くしておるのですが」

「もし、そのはぐれ者に会うことがあったら伝えてくれ」精一郎の声には、いつになくトゲが、いや、抜き身の刀の鋭さがあった。「わしはそういうのは好かんと」

「我らの味方はしてもらえませんか」

 武石は、すでに良い返答を諦めているかのような顔だった。

「わしは貧乏道場の主にすぎん。天下だの何だのとはかかわる気はないよ」

 言い終わると、精一郎は静かに茶をすすった。

「父上、犬千代をどこに隠したのですか?」

 武石が帰るのを見計らったかのように文が部屋に入ってきた。

「どこにも隠しはせん。修行にいかせただけだ」

「修行? どこに行かせたんですか?」

「石燕寺だ」

「石燕寺?」文の顔色が急変した。「あのお化け寺に何のために」

「だから、修行だ。心配ならおまえも見にいけばいい」

「とんでもない」

 文は、激しく首を左右に振った。あの寺には、以前1度だけ精一郎について行ったことがある。山門の前に着いた時から、もう嫌な空気が立ち込めていた。境内にいる間、ずっと頭も肩も重かった。あの時、2度と行くものかと誓ったのだ。でも、その寺に、なぜ犬千代を……。


 鬼影山には、参道には見えない荒れた山道が続いている。すれ違う人もいない。はたしてこの道でいいのか、と犬千代は何度も疑った。ただ、山の上の方から吹き下る風には微かに人の匂いがする。一刻ほど歩いて、初めて人の姿を見た。虚ろな目でさまよっている女。土にまみれ破れた着物を羽織っている。すでにこの世のものではない。犬千代と目が合った女の唇が動いた。何かを伝えたいのだ。だが申し訳ないが、犬千代にはその声が聞こえない。犬千代は子どもの頃から、彼女のような存在を見ることができた。気配も感じることができた。ただし、声は聞こえない。彼らは犬千代に懸命になにかを訴えかけてくるのだが、それに応えてやることはできないのだった。

 無力さを詫びながら犬千代は先を急いだ。それから何人も彼女のような人の影が現れた。山に迷った男の子、おそらく捨てられた老人、傷だらけの武士……。

その寺の和尚は、お化けと仲良くやっているという。彼らも、その仲間なのか? 犬千代は、なぜ、その寺に行け、と精一郎が言ったのか考えていた。俺もまた、その“お化け”だからなのか? 精一郎はそう思っているのか?

一歩ごとに足取りは重くなる。日は暮れていく。気がつくと、女の子が寄り添うように並んで歩いていた。5、6歳くらいの幼女が小さな手を犬千代の方に差し出している。手をつないでくれ、と言っているのだ。犬千代は小さな手に自分の手を重ねた。すでに肉体のない者と手をつなげるはずもないが、それでも彼女は満足そうに微笑んだ。ぐいぐい犬千代を引っ張っていく。引っ張っていく気になっている。

「俺を連れていってくれるのか?」

 犬千代はついていった。彼女が、自分が犬千代を引っ張っているのではないことに気づかないように、歩む速度を合わせて。

 目の前に朽ちかけた山門が立っていた。女の子は、犬千代を残して門の中へ駈け込んでいった。すぐに、まるで彼女に呼ばれたかのように和尚が姿を見せた。伸び放題の無精髯が顔の下半分を覆っていた。

「赤羽道場から参りました」

 犬千代が差し出した書状を和尚は、その場で読んだ。いずこともなく人魂が飛んできて、暗くなっている手元を照らした。

「なるほど。面白い。委細承知した。当山の住職、応挙だ」応挙が手を軽く振ると人魂が吹き消すように消えた。「ついてまいれ」


 あたりがすっかり暗くなってから、霧山一魔と2人の男は、その屋敷に入った。裏口から。案内などなくても、一魔は勝手を知っていた。声もかけずに離れの襖を開けると、あぐらをかいて座っていた不破(ふわ)十蔵(じゅうぞう)が振り返った。

「おお、兄者、戻ったか」

「十蔵、どうした、その手は?」

 十蔵の右手は何重にも包帯で巻かれていた。手首から先はなかった。犬千代に斬り落とされたのだ。

「ちょっとばかり油断してな」

「油断したくらいで、おまえの手を斬り落とせる奴がいるのか?」

「どこかの迷い犬だ。俺が片をつける」あの時の痛みを思い出したのか、十蔵の顔がゆがんだ。「それより後ろの2人は?」

「道中で見つけてきた。仙石(せんごく)厳(がん)鬼(き)と雷迅だ。厳鬼は槍の達人だし、雷迅は元力士の大力だ」

「そいつは心強い」

 旅の土産話でも始まりそうな気配だったが、突然、4人の男は突然、居住いを正してその場に正座した。廊下を歩いてくる足音が聞こえたのだ。

「一魔、ご苦労であった」

 入ってきたのは武石半兵衛だった。4人は深々と頭を下げた。

「後ろの2人は新顔か?」

「旅の途中で仲間に加えました」

 一魔が2人を紹介した。

「腕は立つのか?」

「私が保証いたします」

「なら、間違いあるまい」

 半兵衛は、一魔に全幅の信頼を寄せていた。思えば安い買い物だった。武者修行の途中、ある山奥の集落で一魔に出会った。檻の中に囚われた、痩せ細った十代の子どもだった。村人は「山を荒らす半妖だ」と言った。檻をのぞき込むと挑みかかるような目で睨み返してきた。村人が「殺す」というのを「俺に売ってくれ」と言って買い取った。いつか役に立つ日がくるのではないか、と思ったのだ。出会った村の名前から霧山一魔と名付け、屋敷内で密かに育てた。

思ったとおり、身体能力は超人的で、剣術もたちまち上達した。命の恩人である半兵衛に対して一魔は忠実で、やがて弟分だという十蔵を連れてきた。この2人は、陰ながらよく働いてくれた。特に、一魔は、すべての仕事を完璧にこなした。だから、今回も、隣藩に重要な任務で遣わしたのだ。

「で、首尾は?」

「脇坂様から密書を授かってまいりました」

 一魔が進み出て、懐の書状を半兵衛に渡した。蝋燭の灯りで半兵衛が書状を読んだ。読み進めるごとに、その顔は黒い笑いにゆがんでいった。蝋燭の炎が瞳の中で妖しく輝いて揺れた。

「でかした。これで我が藩も歴史の表舞台に出ることができる。小藩小藩と侮られ馬鹿にされてきた我が海原藩がだぞ。いずれ、この国を動かすのだ」

 離れから漏れ出した高笑いが不気味に夜の闇に響いていた。

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