第3話 遠雷

 文の往診に藤村道庵がやってきた。道庵は、長崎で蘭学も学んだ蘭方医だ。本来ならこんな田舎で開業している人物ではないのだが、何を好き好んでか海原藩などという小藩の城下で町医者をしている。変人だが、性格は温厚で腕もいいので周囲の信頼も厚い。

「派手にやられましたな」文の体中にできた痣の治療をしながら道庵はタメ息をついた。「だが、ことごとく急所を外れておる。たいした連中じゃない」

「私が急所をかばったからです」

 文は勝気に唇を尖らせた。半分は事実だ。五人の暴漢にやられ放題に殴られながら、少しでもダメージを減らそうと努めていた。修行の賜物である。誰かに褒めてほしいと文は思っていた。

「さすが赤羽道場の跡取りですな」

 見透かしたように道庵が微笑んだ。その笑みは湿布薬のように効いた。

「ここに来る前、杉崎道場にも行ってきました」

 文は思わず顔をしかめた。体のどこかに余計な力が入ったせいだ。

「奇遇ですな。あそこの御子息とその御仲間も、昨夜、暴漢に襲われたそうです」

「へ~」

 文のとぼけた馬鹿にしたような返事で道庵は事情を察したように見えた。

「だが、下手人は別人でしょう」

「なぜ、そう思われるのですか?」

「腕が雲泥の差です。杉崎道場の子息を襲った下手人は、相手の体の一か所しか傷つけていない。おのおの急所を一撃で折っている」

「骨を折ったのですか?」

「折ったというか、砕いたというか。いずれにしろ、人間離れした腕前だ」

 あの背中……あの匂い……。文の思いは、あの夜の闇の中にあった。

「一度会ってみたいものです」

 気がつくと道庵は医療道具を片付けて立ち上がっていた。

「私もです」

 離れの道場からは子どもたちの掛け声が聞こえていた。


 海原藩は西国の貧しい小藩である。石高は一万石。全国諸藩の中でも最低のギリギリ「大名」と呼べるレベルで、実際の石高が1万石あるかどうかも疑わしい。北は急峻な山にはばまれ、南は荒々しい海。農地に適した土地は数えるほど。領主である下泉家が弱肉強食の戦国の世を生き抜いてこられたのは、この土地に近隣大名がほしがるようなものがなかったからだ。天下太平の250年あまりを多くの餓死者を出しながらも、倹約と借金で生き延びてきた。

 赤羽精一郎が、その城下にやってきたのは25年ほど前。生まれは海原藩とは軒を接する吉岡藩で小役人の家に生まれた。精一郎自身、剣の修行をしながら役所勤めをしていたのだが、ある日、上司といさかいを起こし、藩を捨てた。その後、海原藩にたどり着いたのである。すでに精一郎の達人としての名声は高く、海原藩からも「召し抱えよう」との声もあった。だが、精一郎は、それに応じず、城下に小さな町道場を開いた。精一郎の人となりと腕前は、たちまち城下に知れ渡り、道場は門弟であふれ、赤羽道場は城下一の大道場になった。

 事情が変わったのは、杉崎重郎左衛門が江戸から戻ってきてからだ。江戸の有名道場で修業し、免許皆伝を得た杉崎は、すぐに藩に剣術指南役として召し抱えられた。「江戸帰り」のブランドと藩のお墨付きで、赤羽道場に通う門弟たちも1人去り、2人去り、手のひらから水がこぼれるように杉崎道場へと移っていった。いま残っているのは、貧しい農民漁師の子どもたちばかり。当然、彼らの親には道場に払える金はない。それでも精一郎は「そんなもの、あるときに払ってくれればいい」と言う。親たちは感謝して、採れた作物や魚を持たせてよこした。おかげで食うには困らなかったが、道場の屋根は雨漏りするし、文は、いつも同じ着物を着ていた。

 だが、精一郎には何の挫折感も敗北感もなかった。子どもたちに教えるのは楽しいし、自分が編み出した赤羽寒月流は、娘の文が引き継いでいってくれる。心には心地よい風が吹いていた。

「半兵衛か。久しぶりだな」

 目は竹刀を振る子どもたちから離さないまま、精一郎は背後の気配に声を掛けた。

「申し訳ありません。気配を消していたつもりだったのですが。稽古のお邪魔をしてしまいました」

「気にすることはない。もう稽古も終わる」

 振り向くと道場の隅に武石半兵衛が正座していた。下級武士の出身でありながら藩の大目付に目をかけられ、徒目付(かちめつけ)に大抜擢された赤羽道場の出世頭だ。

「多忙なおぬしがわざわざこんなところに足を運んでくるのだ。それなりの用があるのであろう」

「お察しのとおり」

 子どもたちを見送ったあと、精一郎は、半兵衛と道場で向かい合った。かつて、この場所で、成人前の彼にさしで稽古をつけたこともある。見どころのある若者だった。勘当した息子・天一郎の代わりにいつか道場を任せてもいい、とまで思ったこともある。まだ、この道場が落ちぶれる前の話だ。

「先生は、昨今の世の中をどうお思いですか?」

「ずいぶん大きくでたな」

「海の向うからこの国を狙っている連中のことですよ」

「黒船とやらのことか?」

「さよう。幕府のふ抜けどもは黒船におびえて奴らの言いなりになろうとしています。このままでは奴らにこの国を乗っ取られてしまいますぞ」

「うむ」

 精一郎は目を閉じて腕組をしている。

「海原藩の上も同じです。腰抜けで幕府の犬ばかりだ」

「だいぶ怒りが溜まっているんだな」

「今、この藩は佐幕派と攘夷派でまっぷたつです。じきに戦が始まります。その時、先生はどちらにつかれるのですか?」

 精一郎は困ったように目を開けた。腕は組んだままだ。

「わしは藩の人間ではない」

「ですが、先生には大きな影響力があります。先生が『こうだ』と言えばついていく者は大勢いる」

「買いかぶりだ」

「私たちと一緒に南蛮人どもを追い返しましょう」

「しかしなあ。わしは、その南蛮人とやらに会ったこともない。会ったこともない者を憎む気にはなれんのだよ」

「また、人のよいことを」

 精一郎は小さくタメ息をついた。彼のことをよく知らなければ、優柔不断の頼りにならない男に見えただろう。

「返事はすぐとは申しません。ゆっくりお考えください」

「そうしよう」

 精一郎はホッとしたような顔をしていた。

「ところで文さんはお元気ですか?」

 半兵衛が急に話題を変えた。

「うむ。昨日、ちょっとした怪我をしてきたが」

「怪我? 大丈夫なのですか?」

「何、おてんばが過ぎたというやつだ」

「なら安心いたしました」

 半兵衛が知っている文は、生意気な男の子のような娘だった。

「文さんには、もう秘伝は授けたのですか? 水鏡剣は?」

「いや。文には、まだ早い」

「1度拝見したいものです。私が道場にいる間、1度も見せていただけませんでした」

「それも考えておこう」

「よろしくお願いします」

 半兵衛は両手をついて深々と頭を垂れた。

 遠くで雷の音がした。

「雷ですな」

「まだ、遠い」

「雨が降り出す前においとまいたしましょう」


 ポツリ、ポツリと肌を刺した雨だれはにわかに激しい豪雨になった。雨宿りも面倒臭い。真山甚介は、そのまま歩き続けることにした。その横をどこかの若侍が駆け抜けていく。近頃の若い連中は、すぐに騒ぎすぎる。年輩者や殿にまで、ああしろこうしろと言う。我々が若い頃にはありえなかった無礼な態度だ。そもそも武士の本分は主君のために死ぬことではないか。真山は、そう思って生きてきた。もっとも太平の世では、そんな機会が訪れることもなかったのだが。

 真山は抜刀術の達人だった。藩内に自分より早く剣を抜ける者はいない、と自認していた。剣の道で彼が一目置いているのは赤羽精一郎くらい。1度、道場で竹刀を手に立ち合ったことがあるが、互いに睨み合ったまま、1歩も動けなかった。あんな体験は後にも先にも、あれ1度きりだ。

 不意に水溜りの中で足が止まった。目の前に滝のような雨に打たれながら立ちふさがっている男がいる。6尺(約180センチメートル)はある大男。雨の幕と笠で顔はよく見えないが、尋常ではない殺気だけは伝わってくる。まるで呼吸をするように殺気を発散している。

 真山は刀の柄に手をかけ、重心を沈めた。

「拙者を真山甚介と知っての狼藉か」

 男は何も言わない。殺気だけが高まっていく。

「覚悟があるなら御相手いたそう」

 甚介はゾクゾクする興奮を禁じ得なかった。日々、剣の腕を磨きながら生命の獲り合いをしたことがない。いま、それができる。

 男も剣を抜かない。奴も抜刀術か?

 髷から額を下った雨が目に入る。一瞬で敵の姿を見失った。馬鹿な!

 真山に分かったのは、黒い風が自分のすぐ横を吹きすぎていったことだけ。

「速い!」と言おうとしたが、その声が出なかった。その時には、もう喉を斬り裂かれていたからだ。最後に見たのは、己の血と泥水が混じる水溜りだった。

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