第2話 遠吠え
まだ明るいのに母が雨戸を閉めている。
「文も、お外、行きたい」
文は、まだ幼い。五歳になったかならないか。
「だめ! 外には怖い山犬がいるの。うっかり出たら食べられちゃうわよ」
陽射しを締め出し、暗くなった部屋の中でも、母の顔が険しいのが分かる。
「でも、父上や兄上は外に行ったよ。文も行きたい」
「あのふたりは大人で、男だからいいの」
兄・天一郎は、まだ十歳だが大人扱いされている。赤羽道場の跡取りとして、父・精一郎から厳しい稽古をつけられ、今も、父とふたり、人喰い山犬を退治する山狩りに加わっている。それが文には不満だった。
「文だって山犬をやっつけられるもん」
「女の子はそんなことしなくていいの」
言い捨てて母は行ってしまった。文はひとり、自分を閉じ込める意地悪な雨戸の前に残された。膝をついて雨戸に耳を当てる。これから山狩りに向かう村人たちの威勢のいい声が通り過ぎていく。それがなくなって、聞こえるのは野鳥の鳴き声。それも消えて、あとには静寂だけが残った。このまま、うとうとと眠ってしまいそうだった。その時、聞こえたのだ。
それは甘えるような哀しげな鳴き声だった。雨戸のすぐ向う側から文に救いを求めているように聞こえた。仔犬だ! 仔犬がいる。
文は、手間取りながらも、なんとか雨戸を押し開けた。やっと自分ひとり通れるくらいの隙間から庭に出ると、植込みが頃合いの影を落しているあたりにその子はいた。たぶん生まれて間もないか弱い存在。涙と一緒にこぼれそうな瞳が文だけを見つめていた。自分を抱き締めてくれと訴えていた。
文は駆け寄ってひざまずいた。着物が汚れることなど頭になかった。抱き上げると小さな尻尾が左右に揺れた。
「どこから来たの、あなた?」
寒いのか、全身が小刻みに震えている。両腕で抱き締めてやると、文の顔をお礼でもするようにペロペロなめた。
「うちの子になる?」
顔をのぞき込むとまっすぐ見つめ返してくる。舌を出して、短く繰り返す息遣いが「うん。なる」と答えていた。だが、それに異論をはさむような唸り声横から聞こえた。
振り向くと大きな犬が睨んでいた。でも、村で見かける犬とはどこか違っていた。なぜ、そう思ったのか? 目だ。目が違う。決して人とは相容れない冷たい目をしていた。おまえは敵だ、と宣告していた。これが、みんなが言っていた“山犬”なのかもしれない。
文は、仔犬をきつく抱き締め、“山犬”の目から隠そうとした。この子が食べられてしまうかもしれない、と思ったのだ。
“山犬”は更に長くて険しい唸り声を上げ、近づいてきた。この子を守らなくては。武器になるものを探した。ぶつける小石でもいい。でも、掃除の行き届いた庭には小枝1本落ちていない。
「文! 文!」
母の声がした。雨戸が開いているのを見つけたのだ。
「お母様!」
声を限りに叫んだつもりだった。なのに、喉が干からびて声が出ない。振り返ると、縁側から睨みつけている母がいた。
「何してるの!?」
「あれ……」
指差して“山犬”のことを知らせようとした。だが、指の先にもう“山犬”はいなかった。
「中にいなさいって言ったでしょ」
母が庭に降りて、近づいてきた。
文は、あわてて仔犬を背中に隠した。きれい好きの母が犬なんて飼うのを許すはずがないと気づいたのだ。
「早く中に入りなさい」
仔犬が母に見つかってしまう。声を出さないで、出さないで、と文は祈り続けた。この子と別れたくない。
「何か隠してるの?」
見つかった!
「奥様、ちょっとすいません」
その時、家の中から住み込みの姉やの声がした。
「なあに?」
「お客様がお見えで」
「早く中に入るのよ」
言い残して母は行ってしまった。
「よかった~」
仔犬は、そんなことは知らず、無邪気に文の鼻をなめた。
文は縁の下に仔犬をかくまった。使い古しの座布団を敷いて、こっそり食べ物の残りを運んでやった。でも、小魚や御飯や饅頭は犬の口に合わないのか、食べてもすぐに吐き出してしまう。文は途方に暮れた。仔犬は、どんどん衰弱していった。きっと何も食べていないせいだ。どうすればいいんだろう?
姉やに御粥を作ってもらった。これなら大丈夫だろう。家人が寝静まってから、こっそり起き出して、冷えた御粥を縁の下に持っていった。蝋燭の灯りでぐったりと動かない仔犬が見えた。死んでる!? 恐怖に震えたが、触れてみると微かに尻尾が動いた。指先で御粥をすくって口元に持っていく。匂いを嗅いだけど食べてはくれない。哀しくて、仔犬を膝にのせたまま、泣いていた。
闇の中を何かが動く気配がした。文たちの方に近づいてくる。人魂のような真っ赤な光がふたつ、浮かんでいる。それはすぐに“山犬”のふたつの目になった。
文は、身を固くして身構えた。今度は、御粥を入れてきた皿がある。襲ってきたらこれで……。
でも、庭でのような恐怖を感じない。なぜだろう? “山犬”が恐ろしげに唸っていないから? それにあの時と目が違う。敵を見る目ではなくて、かけがえのないものを見守る目。文は、すぐにその眼差しが自分にではなくて膝の上に向けられていることに気がついた。
膝の上で仔犬がもがいている。文が手を離すと、弱った体で“山犬”の方にはっていく。“山犬”は、体を横たえると仔犬に腹を差し出した。鼻先でその腹を探っていた仔犬は、乳首を見つけて吸い出した。
「あなた、この子のお母さんだったんだ」
安心しきった母と子を文はながめ続けていた。
そっと手を伸ばして“山犬”の毛に触ってみた。一瞬、噛みつくような目で睨まれたが、すぐに穏やかな母親の目に戻った。ホッとした文は“山犬”の毛をなで続けた。
粘り気のある何かが文の指についた。蝋燭の灯りで見つめ、匂いを嗅いでみた。血?
「あなた、怪我してるの?」
蝋燭を近づけて調べてみると、後ろ足の付け根あたりに赤黒い穴があった。鉄砲で撃たれた傷だ。
「大変!」
急に外が騒がしくなった。激しい猟犬の声。慌ただしい足音。
「いかがいたした?」
父親の声がする。
「このあたりに山犬が逃げ込んだらしいと」住み込みの弟子が報告している。「屋敷内を調べさせてほしいそうです」
「分かった」
表門が開けられた。怒気を含んだ役人や猟師の声が聞こえ、猟犬の吠え声が大きくなった。怖い! 文は、母子に寄り添って震えていた。
「血だ! 血の跡があるぞ!」
「縁の下に続いている!」
見つかる。この子たちはどうなるの? 殺されてしまうの?
その時、“山犬”が立ち上がった。乳首をもぎ離され不安げな仔犬を文は抱き上げた。
母は我が子の顔をじっと見つめていた。これっきり2度と見られないことを予期しているように。それから文の顔を見た。まっすぐ目を見つめた。何かを訴えていた。
文は黙ってうなずいた。それを見た母狼も満足そうにうなずいて、闇の中に走り去った。
「いたぞ! こっちだ!」
「追え! 追え!」
やがて銃声が轟いた。
「やった! 百舌七が仕留めたぞ!」
「さずが名人百舌七だ!」
役人たちの歓声を文は泣きながら聞いていた。涙が“仔犬”の鼻に落ちて、
ク~ンと“仔犬”が鳴いた。
文は“仔犬”を「イヌ」と名付けた。このまま犬として育ってほしいと願ったからだ。できれば大きくなってほしくなかった。
あの日からイヌは御粥を食べてくれるようになった。魚も食べるようになった。徐々に元気が出てきて、縁の下を歩き回れるようになった。そのことで文は逆に心配になった。外に出ていって誰かに見つかってしまうのではないか。
だが、「絶対、外に出ちゃだめよ」と何度も言い聞かせると、イヌは縁の下から外に出ていくことはなかった。まるで文の言葉が解っているようだ。
でも、暗い縁の下にばかりいるのは可哀想だ。文は、ある計画を立てた。墓参りで家族が出かける日、お腹が痛いと言ってひとり家に残った。仮病だ。「ぐっすり眠りたいからしばらく部屋に近づかないで」と家人を遠ざけ、こっそり部屋を抜け出し、イヌを連れて裏山まで駆けていった。
久しぶりの陽光と吹き寄せる風の中、イヌもはしゃいで走り回った。文が投げた木の枝を取りに行っては、くわえて駆け戻ってきた。文が疲れるまで、何度も枝を投げろと目顔で要求した。
文も気持ち良くて草むらに大の字になって、流れる雲を見上げていた。こんな気持ちのいい午後はいつ以来だろう。
その時、低い唸り声が聞こえて、小さな心臓が縮み上がった。あの“山犬”が戻ってきたのかと思った。でも、顔を上げてみると文を睨みつけて唸っているのはイヌだった。姿勢を低くして、今にも襲い掛かってきそうだ。
「どうしたの、イヌ?」
文は怖くなった。イヌは山犬になってしまったのかもしれない。せっかくイヌと名付けたのに。
だが、文は気がついた。イヌが睨んでいるのは文ではない。イヌの視線は文を通り越して、その向こうの茂みに突き刺さっていた。文にも見えた。矢じりのような頭をもたげて、文を睨んでいる。蝮だ。逃げたいけど動けない。胸の下で心臓だけがバタバタしている。
体をくねらせながら蝮が文に迫った。その時、唸り声とともに蝮と文の間に割って入ったのがイヌだった。牙を剥き出して敵を威嚇する。蝮も鎌首を左右に振って威嚇した。向かい合う牙と牙。それは力量を計り合い、剣を構えながら互いに動けない剣豪同士の果し合いのようでもあった。生死を賭けた睨み合いが永遠に続くかと文には思えた。逃げることも忘れて、見入っていた。
粘り勝ったのはイヌだった。蝮は、ゆっくりと鎌首を下して去っていった。
「ありがとう、イヌ」
ようやく文の肺から声が漏れ出た。起き上がって両手を広げると、イヌが胸に飛び込んできた。
「私を守ってくれたんだね。これからも、ずっとずっと私を守ってね」
汗まみれの顔をなめる舌がその返事のように思えた。
だが、別れは突然、訪れる。
あの日、イヌとじゃれ合いたくて我慢できなかった文は、わずかの時間を利用して縁の下に潜った。ひとしきり楽しんで縁の下から這い出してきたら、目の前に兄の天一郎が立っていた。
「何してるんだ、こんなところで?」
文を見下ろす天一郎の目は冷たかった。
「かくれんぼ……」
「誰と?」
「ひとりで……」
「ひとりでかくれんぼなんてできるわけないだろ」
「私が考えたの。ひとりかくれんぼ」
「何か隠してるんだろう?」
ときどき、兄の勘は鋭い。
「なんにも隠してなんかいないよ」
「嘘つけ! 見せろ」
天一郎は縁の下に入ろうとした。文は必死に止めた。小さな体は難なく払いのけられた。兄の足にしがみついた。突き飛ばされて、砂利で手を擦り剥いた。
「入っちゃだめ!」
四つんばいになって縁の下にもぐり込む兄を追いかけた。兄がイヌを見つけたら、父や母にも知れる。山犬の子なんて必ず殺される。逃げて、イヌ! 逃げて!
天一郎の背中が見えた。座り込んで何かを見下ろしている。とうとう見つかってしまったんだ。
「兄上、聞いてください!」
どんな言い訳をすればいいのか、思いついてもいなかった。ただ、何か言わなくてはと焦る思いだけが口を動かしていた。
「何だ、これは?」
天一郎の目の前には、黒く汚れた座布団だけが残されていた。それとイヌが水を飲むための皿。イヌはいない。
「私の部屋です。誰も知らない私だけの部屋がほしかったのです。ひとりで泣いたりするために」
天一郎は呆れたように妹の顔をながめた。
「おかしなやつだな。こんな汚いところで。変な臭いもするし」
天一郎は、一刻もこんなところにいたくないという様子で出ていった。
文は、四方の暗がりに目を凝らしてみた。どこにもイヌはひそんでいなかった。その後も、毎日、暇さえあれば縁の下にもぐった。でも、それっきりイヌの姿を見ることはなかった。持ち主のいなくなった座布団を抱いて、文は泣いた。イヌの匂いに包まれながら、眠ってしまうこともあった。
あの時の匂い……。そうだ。あの匂いだ。
気がつくと、見慣れた天井の木目が見下ろしていた。文は、自分の部屋で布団に寝ていた。かたわらに姉やがいて、正座したまま居眠りしていた。起き上がろうとすると激痛が走って、大きなうめき声が出た。
「お嬢様、気がつかれました?」その声で姉やが目を覚ました。「びっくりしましたよ。門の前に倒れていらしたから。それもこんなに痣だらけで」
姉やの目に涙さえ浮かんでいた。
「誰が私を……運んでくれたの?」
「家じゅう総出でここまで運びました」
「そうじゃなくて、この家まで誰が?」
「さあ、門を叩く音がして、お弟子さんが出てみたら、お嬢様が倒れてたんです。その時には、もう誰もいなかったって」
「そう……」
私をここまで運んで何も言わずに立ち去ったんだ。いったい誰が? それにあの匂い。その時、文の耳には聞こえた。
「今の、聞こえた?」
「何ですか?」
「遠吠え」
「はあ? そんなもの聞こえませんけど」
「そう。耳鳴りだったかも」
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