幕末人狼伝
竹田康一郎
第1話 匂い
朧な月が照らす人けのない道をひとりの娘が歩いていた。左手に提灯、右手に竹刀を握って。半里ほど離れた隣村の子どもたちに剣術を教えに行った帰りである。こんな夜更け、こんな寂しい道にもかかわらず、娘には怯えの気配すらない。なぜなら己の腕に自信があったから。
不意に娘の行く手をふたつの影がふさいだ。覆面で顔を覆った男が2人。手には木刀を握っている。更に背後に3人。振り向かなくても娘には分かった。囲まれた。
「何者です。私が赤羽(あかば)道場の師範代・赤羽文(あや)だと知っての狼藉ですか!?」
「知っておるわ」
目の前の覆面のひとりがくぐもった声を発した。その声に聞き覚えがあった。杉崎道場の馬鹿息子・杉崎小四郎だ。
「道場破りで返り討ちにあったお返しですか? 仲間を連れて闇討ちとは情けない」
「黙れ!」
小四郎が叫んで木刀を構えた。他の4人も構えている。いちおう腕には覚えがあるらしい。竹刀の柄を握る手に力がこもった。せめて木刀だけでも持ってくるべきだった。1対1なら負ける気はしないのに、5人が相手では荷が重い。どうしよう?
「掛かれ!」
小四郎の一声で4人が襲い掛かってきた。背後から来た3人のうち2人の木刀は竹刀で受けることができた。だが、竹刀と木刀の差、男の腕力と女の腕力の差。すでに押し込まれている。小四郎の隣にいた覆面の木刀が背後から文の太腿を捉えた。バランスを崩した文に他の3人が一斉に打ち掛かる。
提灯が転がって燃え上がった。倒れた文の体に容赦なく木刀の雨が降る。文は両手で頭部を守るのが精一杯だった。一撃一撃のたびに文は苦しげにうめいた。それを小四郎が満足そうに目を細めて眺めている。文は歯を食いしばった。悲鳴だけは上げるもんか。
激痛と恐怖の中で文は成すすべがない。ここで死ぬの? 赤羽道場の師範代が……。ごめんなさい、父上……。
その時、薄れゆく意識の中、何かが聞こえた。遠吠え? 振り下ろされる木刀の動きが止まった。
「何だ? 今のは?」
小四郎ではない誰かの声。
次の瞬間、突風のように黒い影が吹き込んで、声の主を吹っ飛ばした。影は人の形になっていた。その手には、いま吹っ飛んだ男が持っていた木刀が握られている。
「何だ、おまえは?」
その問いには答えず、男は小四郎たちに向かっていった。もちろん覆面の賊どもも手をこまねいていたわけではない。男を迎え撃った。だが、文には木刀と木刀がぶつかる音が聞こえない。男の動きが速すぎるのだ。覆面たちの呻き声、骨の砕ける音、悲鳴が続く。たちまち5人の賊は地べたに打ち倒されていた。雲から顔を出した月明かりの下、虫の息であえいでいる。
起き上がれない文には、骸同然の賊たちと彼らを打ち負かした男の足しか見えない。男の足が文の方に近づいてくる。農民が履くような粗末な草鞋を履いている。このひとは誰? 味方? それとも……。起き上がろうとするが、体中、痛くて動けない。なんとか顔だけでも上げようとした。袴が見えた。腰には刀を差している。なぜ、それを使わなかった? 賊たちを殺したくなかったから? 胸板はそんなに厚くない。それでも腕には細くて鋼のような筋肉があった。まだ、若い? 顔は? 顔を見たい。
もう少しで顔が見える……と思ったところで、文は闇の底に落ちていった。
気がついた時、文は男の背中の上で揺られていた。お礼を言いたかったが声が出ない。木刀で殴られたせいだろうか、頭が割れるように痛い。吐き気もする。それにもかかわらず、負ぶわれていると、ある種の安心感があった。幼い日に父親の背中で感じていたのと同じような。睡魔に導かれて安らかな眠りに誘われていくような。文の顔は見知らぬ男の背中に押しつけられていた。その背中は、どこか懐かしい匂いがした。
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