第4話 再会

 真山甚介は喉元を横一文字に斬り裂かれていた。ためらいもなくただ一太刀で。他に傷口はなかった。一瞬で勝負が決まったのだ。真山は剣を抜いてさえいなかったという。

 精一郎は真山家に駆けつけて亡骸を見せてもらった。信じられなかった。あの居合の達人が。下手人の腕は人知を超えた魔物としか思えなかった。文を救ってくれた謎の人物と同じ者なのか? だとすれば目的はなんだ?

「父上! 父上!」

 文の声に精一郎は目を開いた。ここは赤羽道場。子どもたちが無心に竹刀を振るっている。

「何を考えていたのですか? 子どもたちのことをまったく見ていないんだから」

 竹刀を杖がわりにして怒っている文の姿が何だかおかしかった。

「すまん。すまん。ちと考えごとをな」

「そんなだったらお休みください。もう私が稽古を見られますから」

「そうか。なら、お言葉に甘えよう」

 文は早く道場に出たいとウズウズしていたのだ。それを道庵先生と精一郎が今日まで布団に縛りつけていた。

「わしは散歩でもしてこよう」

 生き返ったように生気が甦った文と子どもたちの声を背中に、精一郎は道場を離れた。


 精一郎の足は散歩と呼ぶには早い。目的の場所は決まっていた。竹刀のぶつかる音と大人の男の掛け声が門の外まで聞こえてくる。精一郎を出迎えたのは「杉崎流道場」の看板だ。門をくぐって中に入る。赤羽道場より掃除も行き届いた立派な道場。うちの道場も昔はこのくらいきれいだったな、と精一郎は口元だけで苦笑した。

「たのも~!」

 玄関で声を掛けると、中から若い門弟が1人出てきた。精一郎を見て、顔色を変えた。

「杉崎先生はおいでですか?」

「ただいま留守にしております」

「かまわん。御子息のお見舞いにまいったのだ」精一郎は、ぶら下げてきた山芋を門弟に手渡した。「精がつきます」

 戸惑う門弟に構わず、精一郎は上がり込んだ。

「勝手に上がられては困ります」

「ちょっと顔を見るだけだから」

 止めるのもきかず、精一郎は、どんどん廊下を進んだ。どこに寝ているか知っているはずもない。ただ、門弟は必死で精一郎を押しとどめようとしている。ということは、この先にいるのだ。

「今、お休み中なので」

「そっとのぞくだけだ。寝顔を見れば帰る」

 門弟が後ろの部屋を気にした。精一郎は彼の足を踏みつけた。不意をつかれた門弟を押しのけて、襖を開けた。

 部屋の中では、杉崎小四郎が布団から上体を起こして身構えていた。無防備ですっかりおびえている。

「な、な……」

「見舞いに来ただけだ」

部屋に入るなり、精一郎は布団を剥いだ。添え木で固定された右の下肢が痛々しい。

「たいしたもんだ。誰にやられた?」

 精一郎は、小四郎のそばに膝をついて顔を近づけた。

「知るか! いきなり大人数に襲われたんだ!」

「嘘をつけ。相手は1人だったはずだ。こちらは5人だったのだろう? 覆面でもしていたのかな?」

「顔を見る暇もなかった」

 小四郎は唇を噛んで震えていた。恐怖と屈辱がぶり返してきたのだ。

「ま、いいだろう。見舞いもすんだ。帰ることにしよう」

 その言葉に小四郎の顔が安堵に崩れた。だから、いきなり胸倉をつかまれたときは心臓が止まりそうになった。

「今度、娘に手を出したら……」額と額がぶつかりそうなくらい精一郎の顔が近くにあった。「殺す」

 精一郎に突き離されて、小四郎の体は布団に落ちた。顔の筋肉ひとつ動かせない。精一郎は笑っていた。笑って「殺す」と言った。

「お大事に」

 精一郎は悠然と部屋を出た。廊下で様子をうかがっていた門弟たちが、風に吹かれる洗濯物のように道を開けた。


 杉崎道場から追っ手があるかと思ったが、足音ひとつ聞こえなかった。赤羽道場への道を戻りながら、精一郎は考えた。真山甚助を葬った一太刀も、杉崎小四郎を動けなくした一太刀も、いずれも一撃で目的を果たしていて、同一人物の手によるものと考えてもおかしくはない。ただ、真山甚助への一撃は確実に生命を断つ非情の剣。小四郎への一撃は命を奪うことなく勝つ、慈悲の剣。似て非なるものだ。2人の違う使い手による仕業なのか? あるいは、二面性のある1人の仕業なのか?

 その時、精一郎は、あとをつけてくる気配があることに気づいた。巧みに足音を忍ばせているが、研ぎ澄まされた精一郎の神経をごまかすことはできなかった。さっきから同じ速度、同じ間隔でついてくる。精一郎は、視界の開けた荒地へと追跡者を誘った。荒地の真ん中あたりで立ち止まり、振り返った。相手は逃げも止まりもしなかった。雑草を踏み分けてまっすぐ近づいてくる。まだ、若い。粗末な着物に細くて柔軟な筋肉を隠し持っている。腰には使い込んだ刀が1本だけ。凛とした眼光が精一郎を見据えている。殺気は感じない。心の鞘に納めているのか?

 男は立ち止まった。刀をまじえるには、まだ微妙な距離。

「私が誰か分かりますか?」

「いや」

 見覚えがある気がするが、遠くて定かでない記憶。

「なら、これでは」

 男は、腰の刀を抜いて打ち掛かってきた。精一郎も腰のものを抜いて受けた。鞘と鞘がぶつかって乾いた音を立てた。男が鞘を抜かずに向かってきたことは、精一郎にもすぐに分かった。だから、こちらも鞘で受けた。

 男は、すぐに下がって距離を取っていた。そして、もう1度、打ってきた。二度、三度、打ち合っては離れた。

 この太刀筋、この気合い。確かにあの男だ。

「犬千代か」

「はい」

 相手の顔にうれしそうな笑みが刻まれた。犬千代と呼ばれた男は、刀を腰に戻して、その場に両手をついた。

「おなつかしゅうございます」

「犬千代……。まだ、その名を使っているのか?」

 目の前に正座したままの男に精一郎は尋ねた。ずいぶんたくましい若者になっていた。

「他に名前を知りません」

 犬千代が初めて赤羽道場に現れたのは、今から10年ほど前にことだ。当時、天一郎15歳、文10歳であった。ふたりとも他の門弟たちにまじって道場で懸命に汗を流していた。その様子を塀の上によじ登ってのぞいている子どもがいた。食い入るように稽古に目を凝らしていた。最初にその子に気づいたのは文だ。

「あなた、そこで何をしているの?」

 文は下から、その子は上から、ふたつの視線がひとつに結ばれて、互いに目をそらすことはなかった。歳の頃は同い年くらい。女の子の分、文の方が年上に見えた。

「おれ……けん……すき……」

 ボソボソとたどたどしい声が降ってきた。まだ、言葉というものを憶え始めて間もないとでもいうように。

「ほ~、坊主、剣術に興味があるのか?」

 文の後ろには精一郎がやってきていた。

 返事はなかったが、その子は大きくうなずいた。

「なら、降りてこい。一緒に稽古すればいい」

 精一郎は手招きすると、その子は高い塀から躊躇なく飛び降りた。着地の時にバランスひとつ崩さなかった。

「見込みがありそうだ。おいで」

 その日から門弟が1人増えた。その子には親も名前もなかった。「どこから来た?」「親はいるのか?」と訊いても「わからない」としか答えなかった。だから、名前は文が「犬千代」と名付けた。仕種がどことなく犬っぽかったからだ。赤羽道場が犬千代の我が家となった。

 犬千代が家族の一員になったことを誰よりも喜んだのは文だった。文にとって犬千代は弟であり愛玩動物だった。言葉を知らない犬千代に言葉を教え、外に出かける時は子分として連れまわした。文が小枝を投げると、犬千代は喜んで駆けていって、持ち帰った。その頭を文は「よくできました」と言ってなでてやった。

 犬千代の学習能力は驚くほど高かった。片言だった言葉が敬語まで使えるようになるのにひと月とかからなかった。もっと成長が著しかったのは剣術だ。最初は竹刀の持ち方すら知らなかったのに、翌日には初心者用の構えをすべて会得していた。すでに竹刀を振るう速さは大人の門弟と互角だった。

 弟分が自分の剣の腕を抜いていく。負けん気の強い文には面白いはずがなかった。

「犬千代! なんで文を抜かしちゃうのよ!」

「仕方ないだろ。文は女の子なんだから。女は男に適わないよ」

 涙目で竹刀を投げ出した文を天一郎が諭した。それが余計に面白くなくて、文はふたりを睨みつけた。

 だが、文よりも心中穏やかでなかったのは天一郎の方だったろう。犬千代と同じ年頃の天一郎と今の犬千代を比較すれば、いつかこいつに抜かれる、と思っても不思議はない。

 そのことは精一郎にも、よく分かっていた。道場の跡取りは天一郎で動かないが、犬千代には将来、別の道場を持たせてもいいとさえ思っていた。だが、同時に犬千代の天分は赤羽道場の枠に納まらないのではないかと予感めいたものも感じていたのだ。


「よく戻ってきた。文も喜ぶ」

 精一郎には、犬千代との再会を喜ぶ文の顔が目に浮かんだ。

「私のことは今しばらく文さんには内緒にお願いします」

 犬千代は訴えるような瞳をしていた。

「まだ、文さんの前に顔を出す勇気がありません」

「何を怖れている? あの夜のことをまだ気にしているのか?」

 犬千代が姿を消したあの満月の夜。

「天一郎なら勘当して、もういない。気にすることはない」

「そうなのですか」

 犬千代は、そのことを知らなかった。

「あの夜、何があった?」


 夜更けに天一郎が犬千代を連れ出したと聞いて、精一郎は悪い予感がした。

天一郎が犬千代の才能に脅威を感じているのを知っていたからだ。本来、子ども同士の稽古では、竹刀を相手の体に当てないのだが、天一郎は犬千代の体を打っていた。手違いのように見せかけていたが、わざとなのは明白だった。精一郎の目が届かないところでは木刀も使っていた。“兄”を信じ切っていた犬千代は、「すまん。手元が狂った」という天一郎の言葉を疑わなかった。

 精一郎はふたりを捜しに出かけた。文も心配してついてきた。いつも天一郎とつるんでいる仲間を問い詰めた。住職もいない古寺の境内が溜まり場だと聞き出して、急いだ。

 猛り狂った犬の吠え声が聞こえた。何かが起こっているのだ。その時、満月が雲間から顔を出し、皓々と照らし出された境内に首からおびただしい鮮血を流して天一郎が倒れていた。家から持ち出した日本刀を握っていた。そばの木には野犬が一匹つながれていて、意識のない天一郎に牙を剥き、吠え続けていた。その顔は返り血に染まっていた。

噂は本当だったのだ。精一郎は、それまで信じていなかった。信じたくなかった。天一郎が夜な夜な動物を試し斬りしているという噂。


「あの夜のことはよく憶えていないのです」

 犬千代は、今もあの夜のことを夢に見る。だが、夢は何も教えてはくれない。

 月明かりの中を先に行く天一郎の背中。剥き出される牙。唸り声。飛び散る鮮血。血の臭い。「天一郎!」「お兄様!」「犬千代!」精一郎と文の声が遠く聞こえた気がする。

 気がついた時には、山中にひとりで立っていた。手がべっとりと血に濡れていた。着物も重く湿っていた。

 ここにいてはいけない。本能が囁いていた。満月だけが訳知り顔に見下ろしていた。


「では、なぜ、私の前に顔を出した?」

 精一郎の問いが犬千代を現実に引き戻した。

「先生に稽古をつけてもらいたいのです」

「今ごろになってか?」

「私は強くならなくてはなりません。恐ろしい敵が近づいているのです」

「真山甚介を斬った奴のことか?」

「強くならなくては……」

 犬千代は、そうつぶやき続けていた。

 強くならなくては……。そうでないと文さんを守れない。

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