第5話 天狗
原島藩大番頭・板倉主膳は夜道を急いでいた。城下では最近、辻斬りが頻発していて物騒だが、主膳は特に気にしなかった。何しろ供の者が5人も周りを固めている。いずれも腕に覚えのある強者だ。こんなところに現れる辻斬りがいたとすれば、よほどの命知らず、飛んで火にいる夏の虫。
「誰かこの中に辻斬りを成敗してやろうという者はいないのか? 成敗した者には、わしが褒美の金を出してやろう」
酒が回って主膳は気が大きくなっていた。
「それは面白い。私がいただきましょう」
「いや、俺が」
「俺に決まってるだろう」
武骨な男たちの磊落な笑い声が闇夜に響いた。
だが、その笑い声は唐突に立ち消えた。5人とも刀の鍔に指がかかっている。
「噂をすれば影というやつか」
提灯の灯りがか弱く照らす闇の中に、更に深い闇をつくって、男が1人立っている。
「何者だ!」
何もしゃべらない。まったく動かない。殺気だけがどす黒く渦巻いている。
5人は主膳の前に出て盾になった。5人に任せておけば大丈夫だと思った主膳だが、羽織を脱いで腰の刀に手をかけた。そうせずにはいられない何かがあった。
「名乗らぬなら斬られてもいいということだな」
ひとりひとり刀を抜いていった。目の前の男は、答えない。代わりに地の底からわき出るような唸り声が聞こえてきた。それがどんどん大きくなっていく。
「身のほど知らずの阿呆が」
その時、唸り声が頂点に達して、闇の中にふたつの赤い眼光が開いた。瞬間、黒い風が吹き寄せて、提灯も持つ手が宙を舞った。提灯が地面に落ちて、真の闇が舞い降りる前に3人が斬られていた。
主膳の口から思わず悲鳴が漏れた。闇の中で、3人の体が、続いて2人の体が地面に倒れる音を確かに聞いた。喉元に感じる冷たい感触は、血を吸ったばかりの刀だ。敵は自分のすぐ後ろにいた。
「何が欲しい? 何でもやるぞ」
力ない泣き声が闇の中に虚しく消えた。すぐに6人目の体が倒れる音が聞こえ、そのあとに遠吠えが続いた。
文は、いつもより早めに目を覚ました。頬がだらしなくにやけている。何か良い夢を見たに違いない。なのに、思い出せない。もう1度、寝直そうと思った。そうすれば、あの夢の続きが見られるかもしれない。でも、夢の門は、すでに固く閉じられたあとだった。溜息をついて起き上がり、布団を畳んだ。
早朝のひんやり冷えた廊下を歩くのは気持ちがいい。真冬をのぞいては。誰もいない道場に一番乗りして素振りでもしよう。あの怪我以来、体が、まだなまっている。でも、当てが外れた。すでに誰かが道場で稽古をしていた。
赤羽家の道場は離れにある。使用されていない夜間などは雨戸が閉められている。昼間は、それが全開され、風通しのよい中で稽古が行われる。その方が汗くさくないし、気分も陰にこもらないからだ。精一郎の方針だ。ただ、ひとりだけ雨戸を閉め切ったまま、道場を使う者もいた。道場主の精一郎だった。剣技に集中したい時、他の者に知られたくない奥技を磨く時、精一郎は閉ざされた道場にこもった。
今、閉ざされた雨戸の向うから木刀と木刀の打ち合う乾いた音がする。ということは2人いるということだ。ひとりは父の精一郎。木刀を打ち込む寸前の息遣いで分かった。でも、もうひとりは……。竹刀ではなく木刀を使うなんて、よほどの上級者だ。赤羽道場では門弟に木刀での稽古は許していない。
この道場でこうまでして稽古をつける相手が、私以外に誰がいるというのだ? 稽古の邪魔をしたくはなかったが、好奇心に勝てず文は声を発した。
「父上!」道場内の物音がパタリと止まった。「朝からお稽古ですか?」
何の言葉も返ってこなかった。もう1度声をかけようと、文が口を開きかけた時、がさごそと雨戸が開いた。
「文か、早いな」
開いたのは精一郎の顔の幅くらいで、その体に隠れて道場の中が見えない。
「どなたと稽古をしていらっしゃるのですか?」
「ひとりだ。ひとりでやっている」
「でも、木刀で打ち合う音が……」
「木刀を二つ持ってひとりで打ち合わせていたのだ。二刀流の稽古だ」
赤羽寒月流で二刀流など聞いたこともない。文の疑惑の眼差しが精一郎の面の皮を刺す。
「そうだ。わしの部屋から硯と筆と紙を持ってきてくれんか。気のついたことを書きとめておきたいのだ。忘れないうちに」
文が返事もせずに精一郎の顔をながめていると。
「早くしろ!」
無理に怒鳴って雨戸を閉めてしまった。
文は、しぶしぶ言いつけを守る……ふりをした。立ち去る素振りで、途中から引き返し、母屋の陰から道場を見張ることにしたのだ。
「危ないところだった。文のやつ、いつもはこんなに早く起き出さんのだが」
振り向いた精一郎の前には犬千代がいた。
「申し訳ありません。私のせいで」
「気にするな。それより、いつまで文に嘘をついておく気だ?」
「あの夜、何があったか確かめないうちは……」
犬千代の脳裏で、あの夜の断片が閃光となって瞬いた。
剥き出される牙。唸り声。天一郎の絶叫。飛び散る鮮血。血の臭い。
それが瞬くたびに犬千代の中で、何かが雄叫びを上げた。何かが恐怖に震えた。何かが、ここにいてはいけないと囁いた。
「ま、急がんでもいい」精一郎は優しく微笑んだ。だが、微笑みながら付け加えた。「だが、なるべくなら早いにこしたことはない。嘘をつくのは疲れる」
犬千代は黙って頭を垂れた。
「それより近頃、城下で辻斬りが横行しているのを知っているか?」
「はい……」
犬千代は言葉すくなに答えた。その少なさが精一郎に何より明瞭な答えに聞こえた。おそらくそれ以上尋ねても、何も返ってこないことを知っていた。
「やられたのは開国に好意的な者ばかりだ。なぜかな?」
「分かりません」
「開国派が狙われているのなら、おそらく藤村道庵先生も危ないだろう。なにしろ蘭方医でオランダかぶれだからな」
犬千代は無言で精一郎の目を見つめていた。話の続きを求めていた。
「先生の護衛を頼まれてくれんか。あの方は、これから先の世の中に必要な人なのだ」
「わかりました」
迷うことなく犬千代はうなずいた。
「おそらくおぬしにしかできぬ仕事だ」
精一郎もうなずいた。おそらく自分自身に。
文は、いらいらと待っていた。誰かが道場から出てくるのを今か今かと待っていた。その正体を、なぜ父が内緒で稽古をつけているのかを突き止めるのだ。
それが赤羽道場の跡取りとして当然のことだと思ったからだ。
長いこと、同じ姿勢で腰を曲げていたので、腰が痛くなってきた。腰の痛みは苛立ちを倍増させた。腰を伸ばして吐息をついた。あとどのくらい待たなくてはならないのだろう? こんなことやめた方がいいのか?
その時、いうやく苦労が報われた。雨戸が静々と開いて、ひとりの男が出てきた。着ているものに見覚えがあった。文は胸の中で声を上げた。
まるで、その声が聞こえたかのように、男は隠れている文に気がついた。片手を上げて顔を隠して走り出した。
「ちょっと! 待ちなさい!」
文があとを追ったが、速くて追いつけなかった。まるで山猿のようだ。謎の男は、裸足のまま、庭を駆け抜けて、屋敷の外に飛び出していった。
文が戻ってくると、雨戸の陰からのぞいている精一郎と目があった。精一郎の方が先に目をそらした。
「あの方はどなたですか?」
「ちょっと稽古をな……」
「どなたですか?」
精一郎が道場の奥に逃げ込みたがっているのは明らかだった。
「どなたですか?」
「天狗だ」
「はあ?」
「源義経に稽古をつけてやった鞍馬山の天狗を知って0るだろう?」
「それが何か?」
「あれは、その兄弟子で裏山にすんでる天狗様なのだ。秘伝を教えてくれるというので、こっそり御指導いただいておった」
「あれが天狗なんですか? それにしては、こそこそ逃げていきましたけど」
「恥ずかしがり屋の天狗様なのだ」
「へえ~」
精一郎には本当のことを言う気がない、ということだけはハッキリ分かった。
文は、もう何も聞かないことにした。でも、これだけは告げておきたかった。
「今度、天狗様が来た時は、文にも挨拶していけ、とお伝えください!」
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