第10話 寒月

 戌の刻を過ぎて城下は今夜も息をひそめている。最近は辻斬りの出没はないが、人々は日暮前には家に戻り、戸を厳重に閉ざした。まだ、恐怖は深く尾を引いている。泥棒すら夜は仕事をしなかった。

 武家屋敷の並ぶ比較的広い通りも、死の谷のように静まり返っている。今、その道を1挺の駕籠が静々と進んでいく。高貴な者が乗る黒塗りの駕籠で、周囲を警護の武士が4人、油断なく固めている。なのに、足音を忍ばせ、駕籠のきしむ音すら気にかけて進んでいる。まるで夜逃げでもするように。

 まったく何をビクビクしているんだ。情けない。先頭で提灯を持つ山瀬新六は、胸の中で舌打ちした。たとえ、賊に襲われたとしても、この腕で成敗してくれるものを。だが、その勇ましい言葉も震えているのだ。新六は、まだ人を斬ったことがなかった。つきまとう不安を無理やり言葉の太刀で斬り捨てた。来るなら来てみろと。その言葉を新六は、すぐに後悔することになる。

 不意に風を切って2本の矢が飛んできた。護衛2人の胸と肩に突き刺さった。彼らの呻き声を合図にしたかのように、前後の曲がり角から飛び出してきた覆面の刺客が十数人。またたく間に駕籠を取り囲んだ。

「何者だ!?」

 1歳年長の穴吹和介が声を張り上げた。戦力になるのは、矢傷を負っていない山瀬と穴吹の2人だけ。ともに道場では上位の実力者だが、実戦の経験は乏しい。駕籠かきたちは、すでに逃げ去っていた。

駕籠に付けられた提灯が揺れて、黒装束の集団を照らしている。覆面からのぞく目と白刃だけが、雄弁にギラついていた。

「江戸家老、高柳兵庫、お命頂戴する!」「天誅!」

 どの覆面の下の口がそう言ったのか分からない。すぐに問答無用の斬り合いになった。多勢に無勢は隠しようもない。だが、山瀬も穴吹も必死に抵抗した。何の役に立つのかと疑問に思いながら、この日まで続けてきた剣の修行が彼らを援けた。刺客側も無傷ではすまなかった。徐々に数を減らしていった。

 外では命がけの戦闘が繰り広げられているにもかかわらず、駕籠の中からは物音ひとつしなかった。まるで誰も乗っていないかのようだ。

 自分を守ることで手一杯の山瀬と穴吹。どうしても駕籠の守りが手薄になる。

「高柳兵庫、覚悟!」

 ここが手柄の立てどころと刺客の1人が刀を槍のように構えて突進した。そのとき、駕籠が内側から開いた。刺客の足はピタリと止まった。駕籠から降りてきた男が放つ空気に威圧されたのだ。男の着ているのは、上級武士が正装で着る裃ではなかった。浪人が着るような着古しの着流し。そんな風体の侍が、なぜ、この駕籠に乗っている。

「人違いだ。わしは高柳兵庫殿ではない。赤羽道場の赤羽精一郎と申す。それでも斬るか?」

 刺客は迷わなかった。誰だろうと味方でなければ斬るまで。改めて目の前の相手に突き進んだが、最期に見えたのは、精一郎の刀が鞘から抜かれるところだった。

「赤羽先生、大丈夫ですか?」

 山瀬が呼びかけたが、どうみても自分の方が大丈夫ではなさそうだ。

「おまえたちは怪我人の手当をしていろ。あとはわしがやる」

 山瀬と穴吹は、迷わず矢を受けた仲間のもとに下がった。精一郎に対する絶大なる信頼感。2人とも、かつて赤羽道場で修業したことがあるのだ。それに、彼らは、それまでにちゃんと仕事をしていた。数十人はいた刺客の数が残すところ5人になっていた。

 精一郎は、ゆっくりと駕籠を離れた。5人の刺客が円陣を組んで、その精一郎を囲む。

 この構え、どこかで見たことがある。

 このまま5人一斉に斬りかかられたら、精一郎といえども対処のしようがない。ならば、攻撃は最大の防御。精一郎は、いきなり5人のうちの1人に向かって走り出した。おそらく円陣の中で1番弱い点に向かって。精一郎が向かってくるのを見た刺客は動揺した。反射的に迎え撃とうと前に飛び出した。円陣が崩れた。刺客の振り下ろした刀が空を斬った瞬間、精一郎の刀が胴を払っていた。

 斬られた刺客が前のめりに倒れたときには、精一郎はすでに方向を鋭角に変えて、次なる標的に走っていた。1番近くにいた敵のところへ。このときすでに敵は心も剣も乱れていた。応戦する間も与えず、精一郎は袈裟斬りにした。

 1対1では適わないと察した2人の刺客が同時に斬り込んだ。だが、その1人の喉元に飛んできた刀が突き刺さった。直前に斬り捨てた男の刀を奪った精一郎が投げつけたのだ。

 仲間と2人で斬り込んだと思っていた男は、自分しかいないことにようやく気がついた。そのときには、もう遅かった。

 それは一瞬の出来事だった。目の前で4人の仲間が斬り倒されるのを目撃した男は、残っているのは自分ひとりだということを知った。逃げ出すこと以外のことは頭になかった。

 逃げ出す男を追いかけた精一郎は、背中から一太刀浴びせた。峰打ちだった。倒れた男を引きずり起こし、武家屋敷の白壁に押しつけて、喉に刀を突きつけた。

「どこの手の者だ?」

 男は歯を食いしばって抵抗した。

「言え」

 刀が喉の皮膚を破って血がこぼれた。

「黙っていれば、このまま続けて、おまえは死ぬだけだ」

 刀が更に喉に食い込んだ。傷の痛みと死の恐怖に男は屈した。今この瞬間の苦しみから逃れることができるなら、あとのことはどうでもよかった。それほどの恩義は、あの人になかった。

「言う! 言うから刀を離してくれ」

 精一郎は刀を喉から離した。その悲鳴に嘘はないと思った。

「実は……」

 男が真実を告げようとしたそのとき、精一郎は、背後から殺気の塊が迫っていることを察知した。振り向く暇も、男を守る暇もなかった。その塊を避けることで精一杯だった。体勢を整え直した精一郎が目にしたのは、長い槍に刺し貫かれている刺客の姿だった。槍のもう一方の端にいるのは、仙石厳鬼。厳鬼が腕に力をこめると、刺客の骸は宙に放り上げられ、ゴミのように地面に投げ捨てられた。

「口も軽けりゃ体も軽いわ」

 厳鬼は楽しそうに笑っていた。

「赤羽寒月流、赤羽精一郎か。久しぶりに歯ごたえのある相手だ」

「そちらは名乗らぬのか?」

「仙石厳鬼。ま、知ったところで意味はない。どうせ、すぐ死ぬのだからな」

 厳鬼の槍が精一郎の胸元に迫る。危うく退いて避けた。間合いは十分とっていたはずなのに。まるで槍自体が伸びてきたみたいだ。

 精一郎が驚いている間にも、槍は次から次に繰り出された。それらを紙一重でかわしながら精一郎は気づいた。槍が伸びているのではない。厳鬼の出足が速いのだ。その速さは人間離れしていた。精一郎は、これほどの速さを持っている人間と対戦した記憶がなかった。ただひとりを除いては。これは勝てないかもしれないぞ。だが、やられるにしろ、奴の中の獣を引きずり出してから死にたいものだ、と精一郎は思った。剣術家の性というのだろうか。

 厳鬼の槍は、ひと突きごとに速度を増している。目で追うのもやっとになりつつある。着物が破れ、顔や腕に深い傷痕が刻まれる。

「さすがだな。急所は、なかなか突かせない」

 厳鬼がそう称えるのは余裕の表れだろう。対する精一郎に答える余裕はなかった。ひとつ突きを払い、かわすたびに呼吸が荒くなる。体勢を整え直す間もなく次の突きが繰り出されてくるのだ。じりじりと押されている。今に壁に押し込まれて逃げ場を失ってしまう。その前に一か八か勝負に出なくては。

「ほ~、無駄なあがきは諦めて死ぬことにしたのかな?」

 槍の動きがパタリと止まった。

 精一郎は、肩の腱でも切れたようにダラリと両手を下げていた。刀の先も当然、地面に向けられている。静かに両の目も閉じた。これから起こる運命を受け入れたような表情だ。

「そういう覚悟ならひと思いに終わらせてやろう」

 渾身の力をこめて厳鬼の槍が突き出された。目指すは精一郎の心の臓。

 目は閉じていたが、精一郎には厳鬼の姿がはっきり見えていた。槍を繰り出す気配から槍先が届く間合い。劣勢の立ち合いの中でそれを計っていたのだ。開眼したとき、槍は胸を貫く寸前だった。体を捻って、紙一重でかわした精一郎は、その槍を脇の下に捕まえ、刀を投げた。投げた刀は槍に沿ってまっすぐ飛んでいく。そのまま厳鬼の胸に命中すると確信していた。だが、とらえたと思った瞬間、厳鬼の姿は消えていた。消えたと思ったら、目の前にいた。脇腹に激痛が走った。なぜだ? 槍以外の武器は持っていなかったのに。

「刀を捨てるときは武士が死ぬ時だ」

 精一郎の耳元で生臭い息が囁いた。

こいつだって槍から手を離したはずだが……。精一郎は、脇腹から引き抜かれた刃物の正体を知って戦慄した。それは毛に覆われた指先から伸びている鋭利な爪だった。

力なく膝を屈した精一郎の顔を獣の手が小突いて、仰向けに倒した。牙の並んだ口から垂れる舌が見下ろしている。

「久しぶりに楽しませてもらった」獣の手には槍が戻っていた。「眠れ!」

「待て! おまえの相手は俺だ」

 振り下ろされようとした槍が途中で止まった。声の方を振り返るより早く、鼻が相手の臭いを嗅ぎ当てていた。

「おまえが例の迷い犬か」

「もう迷ってはいない」

 すでに抜刀した犬千代が立っていた。

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