第9話 霊夢堂
石燕寺に入って以来毎日、犬千代は、座禅を組み、滝に打たれていた。応挙は「心を無にしろ」と言う。目をつぶり、心を空にしようとすればするほど、城下においてきたものが入り込む。道庵を守るために戦った敵。目の前で獣に変じたあの男が「なぜ本気を出さない」と繰り返す。満月の夜の天一郎の絶叫と血の記憶。そして、幼い日の文と今の文。
「この修業が何の役に立つのでしょう?」
とうとう犬千代は訊いてしまった。
「わしにも分からん」応挙の顔は無責任そのものだった。「修行というのは、たいていこんなもんじゃ」
「そんな……」
犬千代は、瞬間、ここに来させた精一郎を恨んだ。
「だが、自分が何を捨てきれないか分かったであろう?」
そう言う応挙の目は、もう無責任な坊主の目ではなかった。
「はい……」
「おまえは何を怖れておる」
本堂の板の間に正座しながら犬千代は口をつぐんだ。隙間風が頬に触れて、去っていく。
「自分が恐ろしいのです。自分の中の獣が。何をしでかすのか分からないので」
「おまえは、その獣を追い出したいのか?」
「もちろんです」
そのためにこの寺にやってきた。
「それはできん」
犬千代には無慈悲な宣告に聞こえた。
「人の本性とは、なかなか変わらんものよ。だがな、追い出すことはできんが、おとなしくさせることはできる。飼い慣らすのじゃ」
「意味が解りません」
「誰だって心の中に獣を飼っておるのじゃ」
「は?」
犬千代にとっては意外すぎる言葉だった。それは自分だけだと思ってきた。
「わしだって獣を飼っている。そいつはわしに女の尻をなでろとそそのかすのじゃ」
「それは……」
自分の言う意味とは全く違う。怒りが犬千代の眉間に顔を出した。
「そう怒るな。世の中に聖人君子などおらんのじゃ。みんな、大なり小なり心の中に鬼や獣を隠している。その鬼や獣と上手く付き合っていけるのが、君子なり善人なりと呼ばれる。おまえにだってできる」
「そうでしょうか?」
「この山には不思議な力があってな。だからこそ、この寺の開祖は、こんな不便なところに寺を建てたんじゃ。そして、その力の1番強いところに御堂を建てた。霊夢堂(れいむどう)という」
「霊夢堂?」
「そこにこもると内なる鬼や獣と対面できる。やつらを屈服させ、自分が主人だと教え込めれば、悪鬼も仁王になるし、狼も忠犬になる」
犬千代の方がピクリと動いた。応挙は、それを見て見ぬふりをした。
「だが、もし、それができなければ」応挙は、鼻と鼻が接するくらい犬千代に顔を近づけた。「やつらに食われる」
犬千代の目が食いつくように応挙の目を見返した。
「どうじゃ、こもってみる気はあるか? その霊夢堂に」
「あります」
城下の夜は死に絶えていた。辻斬りを怖れて、日が沈むと外を歩く者はいない。門を固く閉ざし、息を殺して日が上るのを待っている。
藤村道庵は、赤羽道場で精一郎と酒を酌み交わしている。往診の帰りに立ち寄ったところ、「もう日も暮れるから今夜はうちに泊まっていかれよ」と精一郎に言われたのだ。
「近頃は、めっきり静かですな。なぜでしょう?」
精一郎が道庵に酌をした。
「犬千代があやつの手を斬り落としたからでは?」
道庵が刺客に襲われて以来、辻斬りはパタリと途絶えていた。
「それだけでしょうか? 刺客はあやつだけではないでしょうに」
「確かに。それに、あやつも腕1本なくしたくらいでへこたれるとは思えん」
「すでに目的は果たしたのかも」
「というと?」
「幕府寄りの重臣たちは震えあがって小さくなっておる。表立って、攘夷派に逆らえる者はいない」
「それで十分だと」
「さよう」
「だが、大物がまだ残っておるぞ」
精一郎の眉が上がった。
「江戸家老の高柳兵庫殿が近く戻ってくると聞いた」
「高柳殿が」
高柳兵庫は、開明派で幕府の要人とも近しいと聞く。攘夷派と相容れることはないだろう。
「あの方が戻ってきたら、刺客とその仲間はほおっておかないでしょうな」
精一郎は、手酌で満たした杯を一息に干した。
「おそらく」
道庵も同様だ。
「あの方を失うのは、この藩にとって損失だ」
「まったく」
今夜の酒は苦い。ふたりとも全く酔えなかった。
「ところで犬千代はどうしておるのです?」
「鬼影山に修行に出しました」
「あのお化け寺へ」
ふたりは黙って、しばし見つめ合った。考えていることは同じだった。
「文! 文はいるか?」
「はい」
すぐに襖が開いて、文が顔を出した。さっきから父たちの会話を襖越しに聞いていたのだ。そのことを精一郎も知っていた。
「朝になったら石燕寺へ犬千代を迎えに行ってくれ」
「わかりました」
一言答えて文は襖を閉めた。
「ほ~」
精一郎は、閉まった襖をしばらく不思議なものでも見るように見つめていた。
「どうかしたか?」
「あっさり引き受けおった」精一郎の鼻が小さく笑った。「あの寺をあんなに嫌っていたのに」
それは八角形の建物だった。
「これが霊夢堂じゃ。ここにこもれば、己の中の鬼と対面することになる」
蝋燭の灯りで固く閉ざされた扉を照らしながら応挙が教えた。
「和尚様も中に入ったのですか?」
何を感じているのか、犬千代の腕に鳥肌が立っている。
「ああ。もう2度と入りたくはないがの」
応挙は思い出したように身震いして見せた。
「ここからはひとりで行くのじゃ」
応挙は、扉の閂はずし、燭台を犬千代に手渡した。
「今と変わらぬおぬしで帰ってこいよ」
扉が開くと、凍りついたような闇が息をひそめていた。何か邪悪な生き物のように蠢いている。犬千代が1歩足を踏み入れると、灯りに追われて、ざわざわと堂の隅へ逃げていく。中央に何かを囲むように8本の燭台が立っている。犬千代は、そのすべてに火を灯した。丁度、人ひとりが座れるほどの光の座が出現した。招かれたように犬千代は、そこにあぐらをかいて座る。目を閉じて、呼吸を整えていると、やつはすぐに現れた。
目を開けると、それは大きな狼だった。
「俺を受け入れろ。代わりに力を授けよう。人間など容易くひれ伏させることができる」
狼の声は堂の天井から、耳の奥から聞こえた。
「そんなものに興味はない」
「嘘をつくな。おまえは力を欲している」
犬千代は狼の目から視線をそらせない。
「力は欲しい。だが、おまえの思いのままになるのはいやだ」
「何を怖れている? 獣になることをか?」
「そうだ」
「臆病者が。おまえの中には猛々しい獣が閉じ込められている。放してやれ。そうなれば、もう誰もおまえを止められない」
「代わりに俺は何を失う?」
「弱さ、迷い、怖れ」
「それは……優しさというものではないのか?」
「人と交わりすぎたな」
蔑むような目で狼が睨んだ。
「そいつが怖れているのは、もっとうじうじしたものよ」
別の声が聞こえた。犬千代がよく知っている声なのに、まったく違う。
狼のうしろの闇から出てきたのは5歳の文だった。それが近づいてくるにしたがって、10歳の文になり、今の文になった。
「こいつが怖れているのは私に嫌われること」文の目も犬千代を蔑んでいた。「
そうでしょう? 醜い獣の姿になれば私に嫌われる。それが怖いのよ。だらしないはなし」
犬千代は黙って唇を噛んだ。
「嫌われたからといって何だというんだ。こんな小娘、力ずくでいうことをきかせてしまえ」
狼と文が目と目を見交わした。
「おまえがその気になれば、この女は逆らえない」
狼が笑った。
「思いのまま」
文が笑った。
「いやだ。そんなことはできない」
犬千代は、文から目をそむけた。
「だが、それをおまえは望んでいる」
狼の声が頭の中で囁く。
「私もそれを望んでいる」
文の声が囁く。
「見ろ、もう本性が出ているぞ」
狼の声で気づいた。両腕から獣の赤茶けた毛が伸びている。
「まあ、怖い」
文の声に思わず顔を上げた。怖がっているそぶりをしながら口元が笑っている。
「女は力でいうことをきかせてほしいんだ」
狼がそそのかす。
犬千代は立ち上がっていた。腕も脚も、体の見える部分は全て獣毛でおおわれている。犬千代は一歩一歩、文に近づいた。文の瞳に初めて恐怖が宿った。あとずさる文を犬千代は追った。
「いや」
文は怯えていた。恐怖に見開いた瞳から今にも涙がこぼれそうだ。
「痛がっているのは今のうちだけだ。そのうち逆らわなくなる」
獣の両手が細い首をつかんだ。唸り声が聞こえる。これは俺の声なのか? 犬千代には、もう分からなかった。もう、どうでもよかった。
文の顔が苦悶に歪んでいる。犬千代は、それを悦びの目で見ていた。
「首筋を噛め。それが支配の儀式。彼女は服従を誓う。永遠におまえの奴隷だ」
犬千代の牙が文の白い肌へと吸い寄せられる。
「私をあなたのしもべに」
文の甘い囁きが犬千代の耳をくすぐった。喉の渇きが彼女の血を欲している。だが……だが……。
「違う!」犬千代は文の体を突き離した。「こんなものが欲しいんじゃない!」
文は不思議そうな目で見上げている。
「俺は支配なんかしない。今のままの文といたいんだ」
「今のままだと」狼の声が耳の中で吠えた。「今のままのこの娘が本当のおまえといたがるものか。怖れ、蔑み、憎むに決まっておるわ」
「それならそれでいい。まるで人形のような文になるよりは」
「だが、俺は、それでは我慢できん。おまえが嫌がるなら、俺があの娘を食らう」
「させるか!」
犬千代は狼に飛びかかった。2匹の狼が上になり下になり、転げ回った。互いの牙が肉を裂き、流れる血が床に赤い川を描いていく。唸り声と恫喝の声が交錯し、どっちがどっちの声かも分からない。
「俺の中で俺の血となり肉となれ!」
上になった狼が、勝利の遠吠えを上げて、とどめの牙を打ち下ろした。
だが、牙は急所まで届かなかった。下から突き上げられた拳が、大きく開いた口の中で飛び込んで喉の奥に突き刺さったからだ。それは紛れもなく人間の拳だった。
あえぎ苦しむ狼を犬千代は自分の尻の下に捻じ伏せた。
「俺は、おまえをそのまま受け入れる。俺とともに生きろ。だが、その牙と爪を誰に向けるかは、俺が決める」
「よかろう。その優しさが弱さでないことを祈ろう」
狼は消えた。犬千代も抜け殻となって、その場に倒れ込んだ。体のどこからも出血はしていなかったし、傷ひとつなかった。なのに体からすべての血が流れ出してしまったかのようだ。八角形の天井が見下ろしている。8本の蝋燭はすべて燃え尽きていた。扉の隙間から朝の気配が忍び込んでいた。
重い扉を押し開けて犬千代は外に出た。たぶんよろけていたのだろう。応挙がすぐに支えにきてくれた。
「どうだ? 犬千代はまだそこにいるのか?」
目の底をのぞき込むように応挙が尋ねてきた。
「いますよ、ここに」
かすれた声で犬千代が答えると、安心したようにうなずいた。
「長い夜でした」
「一晩だけだと思っているのか?」
「え?」
「おぬしが霊夢堂に入ってから三日三晩たった」
犬千代は、思わず霊夢堂を振り返った。開け放たれた扉の中には、8本の燭台が立っているだけだった。それが神々しい仏像かなにかのように見えた。
「とりあえず飯でも食え。それから風呂に入って着替えろ」応挙の声が犬千代に前を向かせた。「迎えがきておる。赤羽道場のお嬢さんだ」
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