第11話 千本槍

 「なら、こっちも初めから手加減なしでいかせてもらうか」

 槍の石突きの部分を握った厳鬼は、自分の頭上で槍を振り回し始めた。槍のつくる風が犬千代の髪の毛もなびかせる。風の真下で残っていた人らしい部分が消えていく。槍風が吹き飛ばしてでもいるように。風が治まったとき、そこには着物を着た狼がいた。2本足で立ち、油断なく槍を構えた狼が。

「グルルル」

 犬千代は姿勢を低くして身構えた。刀を握る手の甲を獣の毛が伸びていく。それが手首から二の腕へと駆け上がる。それでもまだ、犬千代は人間だった。

 すでに地面に落ちた提灯を燃やしていた火は燃え尽きていた。夜空を覆っていた黒雲を風が剥ぎ取り、あとは満ちるしかない月の明かりが、2匹の異形のものを照らし出している。

「天狼流千本槍」

 唸り声の中に人の声が混じった。厳鬼は矢継ぎ早に槍を繰り出す。その速さは、精一郎を相手にしていたときの比ではない。深傷を負って動けずにいる精一郎の目には、まるで千本の槍を同時に操っているように見えた。

だが、驚いたのは、そのことではない。犬千代が、その千本の槍をことごとく打ち払っているのだ。犬千代の刀も厳鬼の槍と並ぶ速さで動いていた。厳鬼が千本の槍を操るなら、犬千代もまた、千本の剣を操っているように見えた。

槍を跳ね返すたびに、犬千代の体から徐々に人の部分が消えていった。ついには紛れもなく獣と化していた。

「俺は、まだここにいるぞ」獣の鎧の中で犬千代は叫んだ。同時に「文をあとにおいてきてよかった」ともつぶやいた。この姿を見せることをまだ怖れていた。そんな犬千代の耳に「目の前の敵に集中しろ」と獣の唸り声が響いた。

 精一郎は、傷のことも半ば忘れて、2匹の戦いに見とれていた。ここまで犬千代の防備は鉄壁だ。厳鬼の槍は犬千代の体にかすり傷ひとつ負わせることができない。ただ、攻めているのは一方的に厳鬼の方だ。このまま続けても、犬千代は、負けはしないが勝つこともできない。いや、勝機はある。槍を突き出すためには、まず引かなくてはならないのだ。そのときに……。できるのか? 常人にはできまい。だが、今の犬千代になら。問題は、そのことに犬千代が気づいているのかどうか。

厳鬼の槍は真横に降ってくる豪雨だった。一向にやむ気配はない。どうする? このまま続けていてもらちが明かないぞ。犬千代の心に焦りが生まれた。「ここは俺に任せて。おまえは休んでいろ」獣がしゃしゃり出る。「信用してもいいのか?」「自分を信じろ。俺を、ってことだがな」「手綱を離したら戻ってこないんじゃないだろうな」「一度かわした主従の契りは生涯続く。それが狼というものだ」疑いの心が消えた。「ならば行け!」

 厳鬼は、そのとき、犬千代が初めて笑うのを見た。微かな、唇の端のほんの小さな笑みだったが、それは、理由も分からず、彼をぞっとさせた。

刀で払いのけながら犬千代の目は、千本の槍の雨を見据えていた。突然、時間がゆっくりと動き出した。すべての槍が箸でつかめそうなほどのろのろと向かってくる。犬千代の動きも年老いた亀のようにのろいのだが、最早、槍は千本もない。500本が100本になり、50、10、8、6……と数を減らしていく。5本……4本……3本……2本。そして、ついに1本になった!

「何!?」

 厳鬼の口から驚きの声が漏れた。高速で突きだした槍を犬千代の手がつかんだのだ。引き剥がそうと厳鬼は槍を引っ張った。その瞬間を犬千代は待っていた。犬千代が手を離す。わずかに厳鬼がバランスを崩した。厳鬼のもとに戻る槍を追って、犬千代はスタートを切った。「まずい」厳鬼が思ったときには、犬千代はすでに風となって懐に入っていた。槍先は犬千代のはるか背後にある。厳鬼の生命を守るものは牙と爪だけ。厳鬼は槍を捨てて、鋭い爪で迎え撃った。その一撃を犬千代が掻い潜ったとき、勝負は決していた。

犬千代は、深呼吸を繰り返して興奮を鎮めていた。頭に昇った血が引き潮のように引いていく。体中の毛が毛穴の中に戻っていく。牙も爪も、どこかに消えた。足下には、ただの人間に戻った仙石厳鬼の骸が横たわっている。

「寺の修行は役に立ったようだな」

 すぐうしろから精一郎の声がした。いつからそこに立っていたのだろう? 犬千代が人間に戻るのを静かに待っていたのに違いない。

「はい」振り返った犬千代の顔に疲れたような笑みが浮かんでいた。「それより、お怪我の方は?」

「なに、大事はない」着物に赤い染みの広がった脇腹を押さえながら、精一郎が苦笑した。「文は、どうした?」

「私だけ先に来ました。今頃は山を下りたころかと」

「そうか。きっと怒っておるぞ。ひとりにされて。あいつはあの山が大嫌いだからな」

 精一郎だけ笑った。笑った顔がすぐに痛みで引きつった。

 そのとき、犬千代の表情に再び緊張が走った。刀の柄を握る手に力がこもった。

「どうした?」

 精一郎にも緊張が伝染する。だが、理由はすぐに分かった。

「赤羽先生~!」

 提灯を掲げて駆けてくる2人の武士がいる。山瀬新六と穴吹和介だ。

「無事でしたか、先生」

 息があがりきっている山瀬が何とか声を出した。

「ああ、こいつのおかげでな」

 精一郎が犬千代の方に眼差しを向けた。犬千代は、どうしていいか分からず、目を伏せた。

「それより大変です」

 穴吹の切羽詰まった表情が、これで一件落着ではないと告げていた。

「何があった?」

「藩の武器蔵が襲われました!」

「何?」

「鉄砲、弾薬、すべて奪われました!」

「しまった! こっちは囮だったのか」精一郎は天を仰いだ。「奴ら、戦を始める気なのか。いかん。武器蔵へ急ぐぞ」

 駆け出そうとした精一郎がよろけた。犬千代があわてて支えた。山瀬も穴吹も、このとき、初めて精一郎が深傷を負っていることに気がついた。

「先生の手当を頼みます」犬千代は、精一郎の体を穴吹に預け、山瀬に言った。「武器蔵に案内してください」

 犬千代には会ったばかりだ。素性も知らない。戸惑って山瀬は精一郎の顔をうかがった。

「頼む」

 精一郎の短い言葉と眼差しで十分だった。

「こちらです」

 山瀬のあとを追って、犬千代は駆け出した。

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