第12話 雷迅

 武器蔵があるのは海原城内だ。犬千代にとっては初めて足を踏み入れる場所。そこは今、混乱のただ中にあった。巣を破壊された蟻のようにいい歳をした侍たちが右往左往している。

 武器蔵は文字通り破られていた。鉄の扉の鍵は施錠されたまま、土蔵の壁に大きな穴が開けられていた。火薬の臭いはしない。何者かが巨大な力で打ち破ったのだ。犬千代は瓦礫の山の中に嗅ぎ覚えのある臭いをみつけた。仙石厳鬼と同じ種類の臭い。腕を斬り落としてやったあの男とも同じ臭いだ。それはまた、自分の体に染みついた臭いでもあった。

 山瀬新六は、地面に鼻を近づけて臭いを嗅いでいる犬千代を不思議な目で見ていた。

「どうかしましたか?」

「いや、何でも……」

 犬千代は目をそらし、言葉を濁した。

「山瀬! そんなところで何をしてる?」

 声をかけてきたのは直属の上司だった。

「赤羽道場の方を案内して……」

 振り返った時には、犬千代の姿は消えていた。

「土蔵破りを追跡するぞ。おまえも加われ」

「は!」

 釈然としない思いを残しながらも、山瀬は上司のあとを追った。


 犬千代は、ひとり月下の道を走っていた。臭いの痕跡は、まだ続いている。奴らは重くて大量の武器類を運んでいる。追いつけるはずだ。追いついてどうするかは、そのとき考える。


 山瀬は、藩が組織した追っ手に組み入れられた。土蔵破りがどちらに逃走したかは定かでないが、手当たり次第に人海戦術で捜すしかない。

 山瀬が城の門を出ようとしたとき、駆けつけてきた赤羽精一郎とばったり出会った。そばに文と道庵がついている。精一郎は、道庵が手当をしたとみえて、着物に残った血痕さえなければ、手傷を負っているようには見えなかった。

「犬千代はどうしました?」

 文の言葉であの若者が犬千代という名前だと山瀬は知った。

「それが姿を消してしまいまして」

「また?」

 文がタメ息をついた。

「なにやら嗅ぎ回っていたのですが」

「何を嗅ぎ回っていた?」

 精一郎の問いに山瀬は少し困った顔をした。

「嗅ぎ回るといっても、文字通りクンクン嗅いでいたのですが……犬のように」

 精一郎も道庵も納得した顔をしているところをみると、あの犬千代という男は、普段から犬みたいな癖があるのだろう。山瀬は思った。それで犬千代なんて呼ばれているのか。だが、そればかりでもないのかもしれない。なぜなら、精一郎が、こう叫んだからだ。

「どこかで猟犬を探そう」


 犬千代の目は地面に微かな轍と足跡を見つけていた。誰かに掃かれてかき消されている。おそらく一味の中に痕跡を消す係がいるのだろう。だが、完璧ではなかった。それでも普通の人間ならば月明かりでこれを発見することは不可能だっただろう。

 潮の匂いがする。波の音も聞こえる。海が近い。

 犬千代は、ついに一味に追いついた。浜で何艘もの船に盗んできた武器を載せている。犬千代は、身を低く伏せ、音もなく彼らに接近した。

「急げ。もうすぐ潮が満ちるぞ」手下に命令する声がした。「海賊の巣が波に沈んでしまう」

 “海賊の巣”という言葉には聞き覚えがあった。かつて、このあたりを縄張りにしていた海賊が略奪した金品を隠すのに使った洞窟があると。その入り口は、干潮の時だけ姿を現し、満潮になると海の下に沈んでしまう。一攫千金を狙って“海賊の巣”を探しに出た者も数多くいた。だが、誰ひとり帰って来ない。おそらく海賊に殺されてしまったのだと言われていた。漁師たちがたき火を囲んで話しているのを、幼い犬千代は闇に隠れながら聞いていたのだ。漁師たちが酔いつぶれて眠ってしまったら、こっそり忍んでいって食べ物を盗んでやろうと思いながら。

 舟への積み込みは終わろうとしている。舟が海に出られたらやっかいなことになる。やるしかない。犬千代は刀を抜いて、砂を蹴って走り出した。

何かが近づいてくるのに気づいた時には、すでに3人が斬られていた。武器泥棒たちは何が起こっているのかも分からず混乱に陥った。月明かりの下で影が駆け抜けるたびにうめき声をあげて仲間たちが倒れていく。次は自分の番だという恐怖に悲鳴を上げて逃げ出す者が続出した。

 動き出してから初めて犬千代は足を止めた。残った敵はごくわずかだ。もう急ぐ必要はない。だが、あの臭いの主がいないのが気になる。その時、風を切る音が聞こえ、巨大な影が犬千代の頭上から落下してきた。

 大地を揺るがすような轟音と立ち昇る砂煙。転がって難を逃れた犬千代が振り向くと、それは牛1頭分ありそうな巨大な岩だった。こんなものを投げつけられるのは、ただの人間ではない。

「厳鬼を殺ったのは、おまえか!?」

 山のような大男が犬千代を睨んで立っていた。こんな大きな人間を犬千代は見たことがなかった。

「厳鬼というのは、あの槍の男か?」

 あの男と同じ臭いがする。

「厳鬼の仇は、この雷迅がとる」

 砂を蹴立てて雷迅が向かってきた。巨体からは想像できない速さだった。犬千代も負けずに走り出した。2つの影が交錯する瞬間には、ふたりとも獣の体になっていた。

 雷迅が繰り出す張り手を間一髪で犬千代はかわした。かわしたのに風圧がしたたかに犬千代の顔を打った。同時に犬千代の太刀が雷迅の胴を払った。ずっしりとした手応えがあった。だが、犬千代の手に残った妙な違和感は何だ?

 すれ違ったところで2人は風から獣に戻った。背後に敵が倒れる気配はない。

嫌な予感を感じて振り返った犬千代の目が驚きで見開かれた。雷迅が笑っている。腹には、確かに犬千代の刀がつくった傷口が開いているというのに。笑っている。

「効かないな~」

 分厚い脂肪の壁が雷迅の体を守っているのだ。

 ならば肉の壁を削ぎ落すまで。犬千代は再び走り出した。張り手をかわし、右から左から上から下から敵の体に斬りつけた。だが、左胸を狙っても、乳房の脂肪が厚くて心の臓まで届かない。喉元も首に巻きついた大蛇のような二重顎に護られている。

「こんなかすり傷、いくらつけたって痛くもかゆくもないぞ」

 雷迅の顔から薄ら笑いを消し去ることさえできない。初めのころにつけた傷は早くもふさがりかけているように見える。なんという回復力。

 顔だ。顔を狙うしかない。犬千代は走った。今度は正面から突っ込まず、右へ走り、左へ跳んで、三角跳びで高く舞い上がった。雷迅の目を突き刺すために。

 切っ先はグサリと突き刺さった。だが、それは雷迅の目にではなく、丸太のような腕だった。くわえ込んだように刀が抜けない。犬千代が空中で引き抜こうともがいているところに、もう一方の分厚い掌が飛んできた。犬千代は、吹っ飛ばされ、砂浜に叩きつけられた。幸い張り手の勢いで刀も抜けた。犬千代は、まだ刀を手離していない。

「俺の男前の顔を傷つけようとしたな」

腕から刀を引き抜いた雷迅は、傷口をなめた。投げ捨てた刀は砂に刺さった。「今度は、こっちから行かせてもらうぞ」

 ようやく立ち上がった犬千代に雷迅が突進した。それを犬千代は横に跳んでかわした。そのまま直進した雷迅は、太い松の木に激突し、幹を粉砕された巨木は地響きを立てて倒れた。

「ちょろちょろするんじゃねえ!」

 再び雷迅が向かってくる。まるで暴れ牛のように、いや、暴れ牛は跳んだりしない。雷迅は文字通り跳びかかった。宙に浮かんだ巨体が月の光を隠し、犬千代の上に闇を招いた。犬千代は、今度は斜めに跳んで避けた。毛むくじゃらの巨大な両の拳が、0.5 秒前まで犬千代がいた地面にめり込んだ。砂浜に巨大な穴ができていた。犬千代が攻撃を避けるたびに、巨木が倒れ、地面に穴が開き、岩が砕けた。今は、こうやって敵が疲れるのを待つしかない。

「いつまで逃げ続けるつもりだ。俺を疲れさせようとしてるんなら無駄なことだ」

 確かに雷迅の呼吸に乱れはない。逆に犬千代の呼吸の方が乱れ始めている。

不規則な雷迅の動きを読んで避けることは、思った以上に体力を消耗する。持久戦」で不利なのは、むしろ犬千代の方だった。

 やつがもう1度高く飛んでくれれば……。

来い。来い。来た!

 犬千代の願いが叶ったかのように雷迅が巨体を宙におどらせて舞い上がった。

巨大な肉槌を後ろにさがってかわした犬千代。砂浜に新たな穴ができた次の瞬間、犬千代は前に出た。雷迅の体を踏み台にして駆け上がった。このまま宙に舞って頭上から攻撃する。脳天には肉はついていない。無防備なはずだ。だが……。

 天空に駆け上がろうとする犬千代の足首を雷迅の手がつかんでいだ。そのままボロ衣でも振り回すように大地に打ちすえた。衝撃で呼吸が止まり、砂埃が舞い上がった。砂にめり込んだ犬千代の上に雷迅の巨体が落ちてきた。

「グエッ……」

 硬くて巨大な尻が胃袋の上に落ちて胃液が逆流した。腹の上で雷迅がデカい顔で笑っている。

「捕まえた~」

 身動きができない。刀は? 刀はどこにいった?

 犬千代の手を離れた刀は、砂の上に突き刺さっている。手を伸ばしても届かない。

「さて、おまえをぺちゃんこにしてやろうかな」子どものように無邪気な笑い声をあげて、雷神は跳び上がった。「よっこいしょ!」落ちていくのは、まっすぐ犬千代の上。「ずど~ん!」犬千代の口から血ヘドが飛んだ。

「ぺちゃんこ~、ぺちゃんこ~。よっこしょ!」

 雷迅は楽しんでいるのだ。ひと思いに殺さず、なるべく長いこと苦しませたい。それが厳鬼に対する弔いとでも思っているのか。

「ずど~ん!」

 苦しい息の下で犬千代はすがるものを探した。砂の上には石ころひとつ棒切れひとつない。不覚にも手放してしまった刀は手の届かないところに……。いや、待て。さっきより手近にあるような気が。砂だ。刺さっている足場の砂が崩れて、こっちの方に傾いている。犬千代は必死に砂を掻いた。刀が倒れるかもしれない。その間にも雷迅は、歌いながら犬千代の上で飛び跳ねている。内臓が破裂するのも時間の問題だ。砂を掻く爪に力がこもる。あと少し……。あと少し時間があれば……。

「な~んか、飽きてきたな~。これで最後にするか~。よっこしよ!」

 雷迅の太い足が砂を蹴った。今までにないくらい高く跳ねた。そのとき、犬千代のひと掻きで砂が崩れ、刀が倒れて転がった。爪に引っ掛けて浮かして柄を握った。

「ずど~ん!」

 雷迅の笑い声が降ってくる。

 たっぷり笑え、胸の中で叫んで犬千代は刀を投げた。刀は雷神の口に吸い込まれた。雷が落ちたような轟音と地響き。月を隠すほどの砂煙。すべてが治まったとき、人間の体に戻った犬千代は立ち上がった。最後の力を振り絞って、間一髪、降ってくる雷迅の体を避けたのだ。雷迅の体は砂にめり込んで、うつぶせに倒れていた。口から飛び込んだ犬千代の刀の切っ先が首の後ろから突き出ていた。

 体の外側も内側も、まだ痛い。でも、まだ生きている。

「おいおい。せっかく見つけてきた仲間を2人とも殺しちまったのか」

 別の声が聞こえた。声の主は波打ち際の岩の上に腰を下して、犬千代をながめていた。身の丈よりも長い刀を肩に担いで。霧山一魔だった。

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