第13話 龍砦の舞
「俺の名前は霧山一魔。おまえの名前も聞いておこう」
霧山一魔と名乗った男は、刀を肩に担いだまま岩から飛び降り、犬千代の方に歩み寄ってきた。最初に思ったよりずっと小さかった。子どもに毛が生えた程度、という表現を犬千代は思い浮かべた。
「赤羽道場の犬千代」
「犬千代ね~。これはまたお似合いの名前だ。牙を抜かれた狼には」
「おまえはあいつらの仲間なのか?」
槍の男からも、いま倒した大男からも、この男と同じ臭いがする。
「そうだ」一魔は、そう言って雷迅の亡骸を一瞥した。「そうだった、と言うべきかな」
「なぜ、こんなことをする」
「なぜ? 愚問だな。主人の命令だからに決まっておる」
「主人? 主人とは誰だ?」
「それは言えん」
「主人の命令ならどんなことでもするのか?」
「もちろん。主人のために生き、主人のために死ぬ。それが我ら人狼の定めではないか」
「定め?」
「おまえは群れを知らんのか?」
「群れ?」
「そんなことも知らんとは。我らは群れからはぐれては生きていけぬ。どうやら、こやつ本物のはぐれ犬らしい」
犬千代の胸の中がざわついた。彼は、今まで自分と同じ臭いがする者にあったことがない。そんな人間は自分ひとりだと思っていた。だが、世の中には、自分と同じ臭いのする者が他にも大勢いるらしい。そして、彼らには群れがあり、定めがある。
「おまえに主人はいないわけだ」
「いない」
「なら、何のために我らと戦う?」
「俺の知り合いを襲ったからだ」
「だが、おまえの主人ではあるまい。そんな者のために、なぜ命を賭けて戦う?」
「悪いのか? 俺は戦いたいときに戦う。俺の主人は俺だ」
「小さいことを言う。俺の主人は俺に約束してくれた。俺のような者でも大手を振ってあるける世の中をつくると。だから、俺は主人のために戦うと決めたのだ。命を救ってもらった恩もあるがな」一魔は声を出さずに笑った。「どうだ。我らの仲間にならんか。おまえも人狼らしく生きろ」
「仲間になったら人を斬ることになるのか?」
「新しい世の中をつくるためだ」
「襲ってもこない相手を殺す気はない」
「なぜだ? たかが人間だ」
「いやだからいやだ」
「分からず屋め」一魔の眼差しが初めて敵を見る眼差しになった。「どうしても我らの邪魔をすると言うなら、おまえも斬る」
「なら、俺も、おまえを斬る」
犬千代は再び刀を抜いた。体勢を低くすると口から唸り声が漏れた。
「手負いのくせに勇ましいことだ。今のおまえを斬ったところで何の自慢にもならん」一魔は刀を抜かない。「今日のところは見逃してやる。帰れ」
「遠慮は無用」
犬千代の目は本気だった。毛穴から獣の毛がはい出しつつある。
「そういうことなら、ひと思いに楽にしてやろう」
一魔が刀を抜いた。不思議なことに鞘に収まっていたときよりも何倍も長く見えた。その長い刀を片手で振り回している。鋼の刀身が、まるで大蛇のように、いや、龍のようにウネウネと身をくねらせてる。一魔の周りでとぐろを巻いて天に昇っていくように見えた。それが巻き起こす風が犬千代の体毛をそよがせた。
「秘技・龍砦(りゅうさい)の舞。破れるものなら破ってみるがよい」
一魔は自信満々でせせら笑っている。獣化の気配すら見せない。
犬千代は動くことができなかった。一魔は剣がつくる竜巻の中心にいる。斬り込んでも、犬千代の刀は弾き返されてしまうだろう。いや、それどころではない。その刃は、刀を防いだと同時に犬千代に襲いかかってくる。まさに攻防一体の剣。犬千代は、何度もイメージの中で斬り込んだ。だが、それらは全て犬千代が切り刻まれるところで終わった。何度やっても同じことだった。勝つイメージができない。
犬千代の額が汗でびっしょり濡れていた。一魔は汗ひとつかいていない。あんなに高速で長い刀を振り回しているのに。
退くべきか。犬千代の胸に忍び込んだ思い。それは徐々に大きく重くなっていく。しかし……。
「どうした? 逃げたっていいんだぞ」
心の中を見透かすように一魔が笑う。
「黙れ」
言い返したが、その言葉に力はなかった。
「そっちが来ないなら、こっちから行こう」
一魔の剣の、龍の動きが一段と速くなった。犬千代の刀を握る手に力がこもった。姿勢を低くして、風に向かって低く唸り声を上げた。それくらいしかできなかった。来る! そして……。
だが、一魔が犬千代に向かって一歩踏み出したそのとき、1発の銃声がこだました。一魔の足下で砂煙が上がった。銃弾の飛んできた方角に目をやると、銃を構えた藩兵と、それを囲む10人ほどの兵が見えた。
「ち、こいつに気を取られて気づかなかったか」
一魔は己の不覚に舌打ちをした。
「取り押さえよ!」
指揮の声が聞こえて、刀を抜いた兵たちが押し寄せてくる。
「命拾いしたな」一魔が犬千代の目を見て笑った。「今度、会うときまでに強くなってろよ。じゃないと面白くない」
一魔は、砂を蹴って、走り去った。
犬千代は、その場にしゃがみ込んでいた。負けた。完敗だ。
犬千代の横を通り過ぎて、兵たちは一魔を追っていく。そんななか、ただひとり、犬千代の前で立ち止まった男がいる。
「犬千代か?」
兵たちに命令していた男の声だ。どこか聞き覚えがある。それにこの臭い。犬千代は顔を上げた。
「やっぱりそうか。久しぶりだな」
赤羽天一郎だった。
「大きくなったなあ。見違えたぞ」
「天一郎さまがなぜここに?」
「話せば長い。俺は父上に勘当されてから諸国を武者修行して回っていたんだ。それからいろいろあって、さる方の仲介で江戸家老の高柳兵庫様に紹介されてな。今では、高柳様直属の番犬組の局長さ」
天一郎は、犬千代が知っていた十代の頃の快活さを失っていなかった。その快活さの裏に犬千代をいじめる陰険さも同居していたのだが。
「あの頃は辛い思いをさせた。若気の至りだ。すまなかった」
頭を下げる天一郎に、犬千代は、思わず両手をついて土下座をした。
「こちらこそ。あのようなことを」
たぎる獣の血。唸り声。飛び散る鮮血。天一郎の悲鳴。血の臭い。
何をしたのか記憶にないが、犬千代は天一郎にとんでもないことをしていた。
「気にするな、俺のせいだ」
天一郎の目はあくまでも優しい。天一郎は、あのとき何が起こったか知っているのか?
「ワンワン」
犬の鳴き声が風に乗って運ばれてきた。
「犬千代~!」
猟犬を追いかけて走ってくるのは文だ。あとから、道庵に支えられながら精一郎も追ってくる。
「また、懐かしいのが来た」
天一郎は少し困ったような顔をした。
犬千代は、天一郎と並んで立って、文たちを待った。
「また、ひとりで勝手に飛び出していって。だいたい、あの山の中に私ひとりおいていくって、どういうこと……」
いきなり文の小言が始まった。だが、隣に立っている男の顔に目が移って、ぱたりと止まった。
「兄上……」
「相変わらず口うるさいな、文は」
「父上、兄上です! 兄上ですよ!」
遅れて着いた精一郎の表情が、天一郎の姿を見て固まった。
「父上、ご無沙汰しております」
「……元気そうだな」
父と息子の再会は、感動的とは言いかねた。
「今は、高柳様直属の番犬隊局長をさせていただいております」
「そうか……」
「えらい出世だな」
道庵が父親の代わりに感嘆の声を上げた。
「ふたりとも、なに黙り込んでるの。久しぶりに家族が揃ったんじゃないの。うちで祝杯でもあげて、お祝いしまようよ」
文は、父と兄の背中を押して歩き出した。精一郎も天一郎も、しぶしぶ押されていく。嫌がりはしない。犬千代は、黙ってそれを見ていた。文の心底うれしそうな顔を。
「どうした。おまえもついていけよ」
道庵に言われなければ、いつまでもそこに立っていそうだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます