第14話 兄妹

 その夜、赤羽家には、久々の笑い声が響いていた。いや、子細に見れば、笑っているのは文ひとり。男たちの間には、未だに気まずい沈黙が居座っている。文も、それを分かっているから、たいして面白くもない話で大袈裟に笑っていた。

「兄上の番犬組って変な名前」

「藩に刃向う者があれば、吠えたてて追い返すのが仕事だ。それでも刃向えば、噛みついて噛み殺す」

 知らぬ間に天一郎は酒に強くなっていた。いくら飲んでも酔うことを知らない。

「そんな藩のために大切なことをしている人が勘当中っていうのは、どうなんでしょう」

 文は横目で精一郎をチラリと見た。精一郎は黙って酒を飲んでいる。

「そもそも兄上は何で勘当されたの?」

 幼い文は、そのあたりの事情をよく知らなかった。いくら尋ねても精一郎は教えてくれない。

「俺が馬鹿だったのだ」天一郎は昔を思い出したのか苦い顔をする。「犬千代が俺を越えていくのが怖かった。見えないところでいじめていた。犬千代に野犬をけしかけて、逆に大怪我をしてしまった」

 野犬をけしかけたという話を文は初めて聞いた。嫌な話だったが……。

「子どもだったのよ。仕方ありません」

 文は犬千代の顔をのぞき込んだ。うつむいていて何を考えているのかうかがい知れない。

「すまぬ!」天一郎が犬千代の前に両手をついて頭を下げた。「許してくれとは言わん。今でも自分を許してはおらん。ただ、償う機会を与えてくれ」

「私は何も」犬千代は顔を上げた。初めて天一郎の顔を正面から見た。「許すもなにも、天一郎さまのことを恨んではおりませんから」

「よかった」文の顔が晴れ晴れと輝いた。「犬千代本人が恨んでないと言ってるんですから、勘当の理由も、もうありませんよね」

 精一郎は、腕を組んで難しい顔をしている。

「ね、父上」

「うむ」

 ようやくうなずいた。

「よかった! 兄上、おめでとうございます」文は兄の手を両手でつかんで上下に振った。「今日から赤羽道場の跡取りも兄上のものですわ」

「それは違う」

 精一郎の言葉は、犬千代にも意外だった。

「跡取りは文と決めた。1度決めたことは簡単には変えられない」

「そんな!」

 食ってかかる文を止めたのは天一郎だった。

「それほど跡取りというのは重たいものなのだ。俺も、おまえが道場を守ってくれると嬉しい」

「でも……」

 その場を明るいムードにしていた文が黙り込んだことで、とたんに部屋の空気が翳った。

「それより兵庫様の駕籠を襲った賊のことで気になることがある」

 話題を変えたのは精一郎だった。

「と申されますと?」

 天一郎の目つきが鋭くなった。

「賊と斬り合っているときに気がついたのだが、あの太刀筋には見覚えがある。それも1人や2人ではなく、全員がそうだった」

「どこの流派です?」

「杉崎道場だ」

「杉崎道場が賊の一味だということですか?」

 杉崎道場の暴漢たちに襲われたときの傷痕を、文は思わず触った。

「貴重な情報です。早速、探ってみましょう」

 再び沈黙が宴に降りた。

「ところで犬千代は番犬組に入る気はないか?」

 今度、話題を変えたのは天一郎だった。

「犬千代の腕がぜひ番犬組には必要だ」

「本当ですか? すごいじゃない、犬千代」

 喜んだのは文ひとりだった。対照的に犬千代の顔には困惑が広がった。

「私のようなものが……」

「なにしろ賊を1人で倒したのは犬千代だからな。犬千代が加わってくれれば、我らとしても百人力だ」

 犬千代の中で、まだ一魔の言葉が尾を引いていた。「我らは群れからはぐれては生きていけぬ」。犬千代は群れというものを知らない。幼い頃、赤羽道場で過ごした日々は、微かに「群れ」を感じるときではあった。だが、あの頃の犬千代は、本当は孤独だった。「群れ」の一員ではない自分をいやというほど感じていた。孤独から逃れるために必死で文の背中を追いかけていたのだ。番犬組に入れば、初めて「群れ」が手に入るのかもしれない。犬千代の胸は騒いだ。だが、……。

「ですが……」

 犬千代の口は重い。

「どうして入ればいいのに」

 文の勧めでも気持ちは変わらない。

「その前に少し時間がほしいのです」

「時間?」

 天一郎の眉が小さく上がった。

「あの霧山一魔という男。戦っていたら勝てませんでした。剣の腕が違うのです。私には修行が必要です」

「修行か。どんな修行をする気だ?」

 天一郎の瞳には好奇心が宿っていた。

「それに関しては、わしに任せてもらおう」

 顎をかきながら精一郎がボソリとつぶやいた。


 武石邸では、半兵衛と霧山一魔がふたりきりで向かい合っていた。

「あのふたり斬られたのか?」

 半兵衛の声には苛立ちの色があった。

「相手の腕を見誤りました」

「その狼、それほど強いのか?」

「今はまだ。私が戦って負ける相手ではありません」

 半兵衛は知っていた。一魔は大言壮語をする男ではないと。この男がいうからには「負ける相手」ではないのだ。

「だが、百人力、千人力の男を2人失った」

「その分、私が働きます」

 半兵衛にとって心強い言葉だった。

「それより藩の武器を取り戻されてしまいました」

「まあ、よい。藩の武器をごっそり奪おうというのは、欲をかきすぎた。最初の計画に戻るまでよ」

 武器蔵の武器がどうしても必要だったわけではない。ただ、戦う前に敵の武器を少しでも減らせるなら、それに越したことはないと思っただけだ。

「あの武器は、とりあえず大穴の開いたままの蔵に戻された。前の5倍の藩兵で守っているそうだ」

「敵の手に渡すくらいなら……」

「そうだな。おまえに任せよう」

 一魔は、頭を下げると、足音もさせずに部屋を出ていった。


 閉ざされた道場の扉を前に兄妹は並んで立っていた。精一郎と犬千代が中にこもって、早や半時。中からは何の物音もしない。

「父上は寒月流の奥義を犬千代に授ける気なのかな?」

 兄の問いが妹の胸に重い。自分だって同じ思いはあるものの、兄の苦渋に比べれば。

「兄上にもいずれ」

「俺はもう、寒月流への未練はない」

「本当に?」

「諸国を巡って様々な道場に通った。世の中には、もっと優れた流派が沢山あるのだ。俺は、いずれ天一流を創るつもりだ」

「そのときは私と手合せを」

「いいだろう。寒月流の正統継承者殿」

「そうだわ。犬千代の代わりに私を番犬組に入れて下さい」

「うむ」

「必ずお役に立てます」

「そうだな。考えておこう」

 天一郎は言ったが、その気がないのだと文には分かった。

「地震?」

 そのとき、足下から突き上げるような震動を感じた。

「いや、違うな」

 天一郎にも、それが何だか分からなかった。ただ、地震とは違う。

「局長、大変です!」

 土足で廊下を走ってきたのは、番犬組の隊士だった。

「お城の武器蔵が襲われました」

「何だと? また、武器を盗まれたのか?」

「いいえ、武器には一切手をつけず、蔵に火を放ったそうです」

「くそ!」

 天一郎は、文の方を振り向くこともなく駆け出していった。

 残された文は、道場の扉に目をやった。依然として中からは物音ひとつ聞こえなかった。

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