第15話 水鏡

 天一郎が駆けつけたとき、火の勢いは治まっていなかった。蔵の中に残っている火薬類に引火するのか、ときおり爆発音がする。

「どうなっている?」

 顔を煤で黒くして呆然としている藩士に問いただした。

「とても手がつけられません。中の火薬が爆発して、そばに近寄れませんし、他の建物に燃え移らないようにするので手一杯です」

「誰が火を点けた?」

「よく分かりません。生き残った警備の者が言うには、突然、長い刀を持った小男が現れて、あっという間に全員やられて、そいつが蔵に火を放ったと」

 犬千代と戦っていた霧山一魔という奴だ。何ていう奴だ。天一郎の胸に戦慄が走った。奪えないなら燃やしてしまえというわけか。奴ひとりのために海原藩は、莫大な損失を被った。新たに武器弾薬を購入するのに、どれだけの費用がかかることだろう。貧乏藩にとっては致命的ともいえる痛手だ。動乱の世が近いというのに。

 急がねば。奴らが次の行動に移る前に。手がかりは杉崎道場だけだ。


 犬千代と精一郎は、薄暗い道場の中で静かに穏やかに向き合っていた。ただ、その手に持っているのは竹刀でも木刀でもない。抜き身の真剣だ。

「いいか。これから見せるのは、赤羽寒月流唯一無二の奥義だ。わしもここまでたどり着くのに30年の歳月を要した。それを今からおまえに授ける」

 犬千代の喉を飲みこんだ唾が下りていった。

「口で説明するより見た方が早い。かかってまいれ」

 犬千代は剣を正眼に構えた。

「道場の稽古ではない。斬り合うときのようにやるのだ」

 いつになく精一郎の声は厳しい。

 犬千代は重心を低くして刀身を肩に担いだ。独り生きてきた中で身についた構え。敵が剣を振るうより速く懐に飛び込んで一撃で片をつける。名前などない。幼い頃に赤羽道場で学んだ基礎に経験で肉付けされた我流だった。

 犬千代は驚いた。精一郎が、犬千代と全く同じ構えをしている。まるで鏡に映したようだ。

「赤羽寒月流奥義・水鏡(すいきょう)」

 精一郎は何を考えているのか? このまま踏み込めば何が待っているのか?

犬千代は、間合いを計りながら慎重に横に動いた。精一郎もまた、同じように移動する。足の運び、歩幅も全く同じ。自分を相手にしているようで気味が悪いくらいだ。

 時だけが経過していく。犬千代の耳に聞こえるのは己の呼吸する音だけ。いや、違う。犬千代は気がついた。自分の呼吸音だけだと思っていたが、そうではない。ふたつの呼吸音が重なっている。精一郎が、犬千代の呼吸にぴったり自分の呼吸を合わせているのだ。今、別々の体の中で、2人の肺と心臓が同調して動いていた。まるで2人の神経が見えない糸でつながっているように。

 2人の額の汗が同時に床に落ちた瞬間、犬千代は前に踏み込んだ。精一郎の胴を払った。と思った。

 カチン! 冷たい金属の響きが聞こえて犬千代は気づいた。犬千代の刀をもうひとりの犬千代の刀が受け止めている。鏡に斬りつけたようだ。だが、それは一瞬の幻で、もうひとりの自分はすぐに精一郎に戻った。自分と全く同じ構えで固まっている。

 互いに刀を収めて、最初の位置に戻った。

「今のが水鏡だ。相手の姿を映す水鏡のように、相手の動きを我が身に映し、相手に成りきり、相手の動きを読む。そして、越える」

「超える?」

「勝負は二手三手四手の先の読み合い。相手の体を映し、心を映せば、相手の動きを読めるし、読めれば先を越せる」

「私にできるでしょうか?」

「おまえは誰よりも速く動ける。問題は、相手と同化できるかどうか。それができれば、おまえの水鏡は無敵となる」

「はい」

 犬千代は大きくうなずいた。それは自信ではなく決意の表れだった。


 夜更けに杉崎道場の門を激しく叩く者がいる。開門しなければ叩き破って押し入るほどの激しさで。

「どこの者だ?」耳をふさぎながら門番が横の木戸から声をかけると、「藩命である。すぐに開けろ」と怒鳴り返された。仕方なく門を開けると、番犬組の隊士を引き連れた赤羽天一郎が立っていた。

「屋敷内をあらためさせてもらう」

「お待ちください! いったい何のために?」

 門番の制止など、急流にもてあそばれる木の葉のように何の役にも立たない。番犬組は問答無用で乗り込んできた。

「何だ? 何だ?」「どうした?」

 門弟たちも駆けつける。その手には、それぞれ物騒な刀が握られていた。

「藩命である。邪魔する奴は謀反人として斬る」

 天一郎が出てきた門弟たちを睨み渡した。

「どういうことだ?」「わけを説明しろ!」

 杉崎道場門弟と番犬組、一触即発の睨み合いだ。

「何を騒いでいる?」

 杉崎小四郎が姿を現した。

「これは小四郎殿。藩命により屋敷内をあらためさせていただく」

「誰かと思えば、赤羽道場の天一郎殿ではないか。たしか勘当されたと聞いたが、いつ舞い戻ってまいった?」

「それはおぬしとは関係ござらぬ。失礼」

 天一郎が先陣を切って屋敷の中へ踏み込んだ。他の隊士もあとに続く。

「させるか!」

 血気にはやった門弟たちが刀を抜いて立ちふさがった。

「無礼者!」

 その1人を天一郎が一刀両断に斬り捨てた。他の門弟たちは刀を構えたまま固まった。

「藩命の邪魔をしたので謀反人として斬り捨てた。他にもこうなりたい者がおれば遠慮なくかかってまいれ」

 門弟たちは小四郎の顔色をうかがっている。小四郎の命令さえあれば、中の何人かは斬り死にする覚悟があるとみえる。

 だが、肝心の小四郎には、その度胸はなかった。何をどうすべきかも分からず、頭の中は真っ白なままだった。その小四郎の喉元に天一郎の刃が突きつけられた。

「小四郎殿には中を案内していただこう」

 命じられるままに小四郎は番犬組の先頭に立って歩き出した。隊士たちは、ひと部屋ひと部屋、中をあらためていく。だが、何も見つからない。謀反の証拠となるような物は何も。そのたびに小四郎の顔に余裕の色が広がっていく。天一郎は内心焦っていた。それを隠して探索を続けた。

 最後に残ったのは、1番奥の部屋。

「父が病で伏せっておるのだ。この部屋は勘弁してくれ」

 小四郎は部屋を開けるのに抵抗した。ならば、尚のこと調べなくては。

「お見舞いしなくてはなるまい」

 天一郎は構わず襖を開けた。

 こんなものを見つけるとは予想だにしていなかった。

「父上……」

 小四郎は蒼くなって震えている。

 目の前で小四郎の父であり海原藩剣術指南役でもある杉崎重郎左衛門が切腹して果てていたのだ。

 血に汚れた遺書らしきものを見つけて、天一郎は広げて読んだ。

「小四郎、門弟の罪は許してほしい、と書いてある。どういうことだ?」

 小四郎は、その場に腰から崩れて呆然としている。

「おまえたちは何をしたのだ?」

 おそらく小四郎の耳には天一郎の声は届いていない。

「連れていけ! 屯所でたっぷりと訊き出してやる」


 犬千代は、精一郎の動きを懸命に追いかけていた。己を水鏡にして、精一郎の一挙手一投足を映し取るために。だが、心まで読むのは難しい。二手三手先を読めても、四手目で裏切られて魚は逃げてしまう。そのたびに犬千代の鏡に微かな苛立ちが落ちる。それがつくった小さな波紋は、やがて鏡全体に広がって、精一郎の姿を隠してしまう。心を鎮めなくては。穏やかな水面にしなくては。だが、思えば思うほど、焦りの雫が落ちて、水面を乱す。


 武石邸に1人の使者が訪れた。使者は、この屋敷まで走り続けて来たのだろう。乱れた呼吸で、蒼ざめた顔で半兵衛の耳に何事か囁いた。

「いかがなされました?」

「杉崎小四郎が捕まったぞうだ」一魔の問いに顔色ひとつ変えずに藩兵衛は答えた。「今頃、厳しく拷問されていることだろう」

「では、吐くのも時間の問題ですな」

「だろうな。だが、丁度よかった。手間がはぶけて」

 半兵衛の口元に不敵な笑みが広がった。その笑みは、すぐに一魔の口元にも伝わっていった。

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