第16話 対峙

 師匠を追いかけていてはダメだ。師匠にならなくては。そうでなければ先に行けない。犬千代の心の中で水面が澄んでいく。もう小さな波も立たない。赤羽精一郎の姿がくっきりと映っている。精一郎の動きは犬千代の動き、犬千代の息遣いは精一郎の息遣いだった。ふたつは連動し、考える前に体が動いた。

「まいった!」

 精一郎の声が響き、犬千代は道場にいることを思い出した。犬千代の刀の切っ先が精一郎の喉元を捉えていた。犬千代は、あわてて刀を収めて引き下がった。

「よくぞ体得した。この短い時間で」

 精一郎の顔も声も笑っていた。


 杉崎小四郎は、あっさり口を割った。天井から吊るして、番犬組の隊士が木刀を構えただけで、泣きながら許しを請うた。

「黒幕は武石半兵衛だ! 奴は海原藩を武力で乗っ取って、討幕派の拠点にするつもりでいる。俺は騙されたんだ。こんな大事になるとは思っていなかった」

 天一郎は、憐れな者を見るような目で小四郎を見下していた。

「すぐに御家老にお知らせしろ」天一郎の指示で隊士の1人が走った。「俺は、隊を率いて武石邸に乗り込む」

「この男はいかがいたしましょう?」

 木刀を持った隊士が天一郎の背中に問いかけた。

 その背中を小四郎のすがるような目が見つめている。

「もう少しいたぶってやれ。まだ何か吐くかもしれん」

「正直に言ったじゃないか!」

 小四郎の絶望の声を聞きながら、天一郎は武石邸に向かった。


「お待ちしていました」

 精一郎に続いて犬千代が道場から出てくると、文が待ち構えていた。袴を履いて、稽古のときの恰好をしている。

 水鏡の特訓で、思った以上に体は披露していた。本当なら誰とも口を利きたくないところだが、文の眼差しが真剣すぎた。

「何か?」

 犬千代には文が何をしたいのか分からない。

「道場でお話しを」

 ふたりのやり取りは精一郎の耳にも届いていたが、顔を半分振り向かせただけで、そのまま行ってしまった。

 犬千代の横を通って、文が先に道場に入った。犬千代が遅れて入っていくと、正座して襷をかけていた。膝の横には、道場の壁に掛けてある木刀が2本置かれている。

「私とお立ち合いください」

 犬千代の目を見据えて、いつもより低い声。こんな文には初めて会う。

「稽古をつけろと?」

「いいえ。真剣勝負です」

 本気だと犬千代には分かった。

「父上から寒月流の奥義を伝授されたのでしょう?」

「はい」

「これでも寒月流の跡取りです。奥義をおめおめと他人の手に渡しておくわけにはまいりません」

「私が奥義を授かったことが不満だと?」

「いいえ。それは師匠の決めたこと、弟子である私に不満はありません。ただ、私にも意地があります。あなたが奥義を受け継ぐにたる人物であるかどうか、この手で確かめずにはおれません」

「私は文さんと立ち合いたくはありません」

「それは、私を女だと侮っているのですね」

「そうではない」

「なら、お立ち合いください」

 犬千代は返す言葉を知らなかった。今の文を説得する言葉を。

「あなたにその気がなくても、私の方から仕掛けさせていただきます」

 木刀を手に立ち上がると、文は、そのうちの1本を犬千代に投げた。犬千代は木刀をつかんだ。すでに文は木刀を構えている。犬千代は、まだ構えない。

「女と侮って私に打ち込まないなら、あなたは所詮、それだけの男です」

 文は気合いとともに打ち込んできた。犬千代は体をひねって避けた。勢い余って文は何歩か行き過ぎた。避けなければ確実に額を割られていた。

 文は、すでに振り返って木刀を構えている。こうやって文が疲れるまで、彼女の木刀をかわし続けることも可能だった。だが、犬千代は木刀を構えた。文の思いから逃げることは許されない。

 正眼に木刀を構えたまま、ふたりは睨み合った。木刀を握った文の手が小刻みに揺れる。どう打ち込もうか迷っている。文は気がついた。犬千代が自分と同じ動きをしている。

「ふざけているのですか?」

「ふざけてはいません」

 その真面目くさった言い方がカチンときた。言い終わらないうちに文は打ち込んだ。

 同時に犬千代も打ち込んできた。木刀と木刀がぶつかって文の手が痺れた。力比べでは適わないと思って後ろにさがった。犬千代もさがっていた。犬千代は文の動きを細かい部分まで真似している。文には、それが余裕の表れに見えた。その証拠に犬千代は微かに微笑んでいる。真剣な戦いの最中なのに。その余裕を剥ぎ取ってやる。文は、精一郎から教わったありとあらゆる技術を使って攻撃を仕掛けた。その全てが同じ方法で受け止められた。まるで鏡の中の自分と戦っているようだ。

 犬千代は楽しかった。最初から文の考えていることが手に取るように分かった。ひとつになれた。文のやろうとしていることは二手三手、いや、四手五手先まで読めた。

 犬千代の小手が決まって、文の木刀が床の上で乾いた音を立てた。

「まいりました」

 文は膝をついて頭を下げた。

「何もかも読めていたのですね?」

「それが寒月流奥義・水鏡です」

 水鏡。その名前を聞いて、文は全てが呑み込めた。

「この道場の跡目はあなたに譲ります」

「いや、それは……」

「私よりも犬千代様の方がそれにふさわしい」犬千代を見上げる瞳には涙がにじんでいる。「だから、私を一番弟子にしてください」

 文は頭を下げて床に額をつけた。

「それはできません」

「なぜですか?」

「こんな堅苦しい関係はごめんです。昔の文さんの方が好きだ」

「昔の?」

「文さんの子分として、あとを追いかけていた頃のように」

「そんなことありましたか?」

「木の棒を投げて『取ってこい』と命じられて、私は喜んで……」

「忘れました」

 文の顔は真っ赤になった。

「ともかく今日みたいに堅苦しいのはごめんです」


 番犬組が踏み込んだとき、武石邸はもぬけの殻だった。

「誰もいません」

 配下の報告が返ってくるたびに天一郎の表情が苦々しく変わった。

「手がかりになるものはないのか?」

 そのとき、呼子の音が甲高く響いた。

「誰かいたぞ!」

 何人かの隊士が駆け出していく。

「逃がすな!」

 天一郎も、呼子の聞こえた方向へ走り出していた。

 ほとんどの隊士が、すでにその何者かを追いかけていた。何者かは土足で畳の上を走り、襖を蹴破って、屋敷の奥へ奥へと逃げていく。だが、ついに行き止まりの部屋に追い詰められた。目を血走らせ、抜き身の刀を手に、荒い息をついている。着ている物から判断するに下級武士か。番犬組の隊士たちは、油断なく身構え、男を包囲した。8対1では勝負は目に見えている。

「名を名乗れ。武石半兵衛の手の者か」

 天一郎は刀も抜かずに問いただした。

「おまえらに名乗る名前などない!」

 男は、追いつめられた獣のようだった。

「おまえの名などどうでもよい。武石はどうした? おまえをおいて逃げ出したか?」

「俺は大義のために志願して残ったのだ」

「志願した? 何のために?」

「藩の犬を道連れにする」

 そのとき、天一郎はキナ臭い臭いを感じた。男の後ろにある木箱の中からだ。

「いかん! 逃げろ!」

 だが、遅かった。天一郎が踵を返して部屋から飛び出そうとした瞬間、大音響が轟いて、耳も目も使えなくなった。

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