第17話 籠城

 犬千代と文が道場から出てきた直後、その音は聞こえた。空気を揺るがす震動と地響き。遅れて半鐘がけたたましく鳴りだした。

「近いぞ!」

 精一郎は裸足で庭に駆け降りてきた。

「武石さまの御屋敷が火事だそうです」

 外に様子を見にいった姉やが誰かに聞いてきた。

「武石の屋敷だと」

 精一郎が刀をつかんで駆け出した。犬千代と文もあとを追った。ふたりとも精一郎にならって刀を腰に差している。

 3人が到着すると、武石邸は燃え上がっている最中だった。藩の火消しが隣接する建物を壊して延焼を防いでいる。火の粉が舞い落ちるなか、背中に「番犬」と染め抜きの入った法被(はっぴ)を着た男たちが仲間の手当をしている。怪我人は、重い火傷を負い、苦しげにうめいている。

「何があった?」

 誰に問うでもなく精一郎が声を張り上げた。

「赤羽精一郎さまですね」利発そうな番犬組隊士が寄ってきた。「武石半兵衛に謀反の嫌疑があり」

「半兵衛に?」

 さほど驚いていない自分に精一郎は驚いた。どこかで予期していたのかも知れない。

「武石半兵衛は取り逃がしましたが、一味の1人が屋敷を爆破させて……」

 隊士は言いにくそうに言葉を切った。

「兄は? 赤羽天一郎はどこですか?」

 我慢できずに文が割り込んだ。

「爆破に巻き込まれて、消息が分かりません」

 文が息を呑み込む音が誰の耳にも聞こえた。

「精一郎さま、御指示をお願いいたします」

 隊士が精一郎に頭を下げた。

「何を言っている? わしは一介の道場主だぞ」

「ですが、局長は、自分に何かあったときは精一郎さまの指示をあおげと」

 精一郎は天を仰いだ。しばし黙考したのち、おもむろに口を開いた。

「怪我人の手当を急げ」

「はい!」

「それから、武石たちの行方は分からないのか?」

 それに関する情報はないと隊士の苦しげな顔が告げていた。

「申し上げます」若い隊士が飛んできた。「武石一味が大平寺に立てこもっているということです。討伐隊がすでに向かっています」

「なら、番犬組も、怪我人以外、ただちに大平寺に向かう」

 精一郎の声をその場にいる隊士全員が直立して聞いていた。立ち上がれない者を除いて。

 精一郎に率いられて出発する番犬組の最後尾に犬千代はついていった。ふと文の姿が見えないことに気づいて、振り返った。文は、まだ燃え続ける武石邸の瓦礫の山を見詰めていた。そっとしておいてやろう。犬千代は行こうとしたそのとき、振り向いた文と目があった。悲しみも不安も振り捨てた目だった。まっすぐ犬千代の方にやってきて、追い抜きながら「いきましょう」とだけ告げた。

 

 大平寺は、白滝山という小高い山の頂に建立された海原藩城主下泉家代々の菩提寺だ。広大な境内を高くて厚い土塀が囲む。一説には、海原城に何かあったとき、代わりの城として使う目的で建立されたと言われている。

 精一郎たちが到着したときには、藩の兵力がぐるりと山を包囲していた。城代家老の喜多蔵人(きた・くらんど)が陣頭指揮をとっている。

「御家老、番犬組、ただいま到着いたしました」

「おお。赤羽殿ではないか。これは心強い」

 精一郎と蔵人は、何度か酒を酌み交わしたこともある旧知の仲だ。精一郎に藩の剣術指南にならないかと声をかけたのも蔵人だった。

「状況はいかがですか?」

「周囲は完全に固めた。蟻のはい出るすきもあるまい」

「では、もう勝ったも同然と」

「いや、ここは天然の山城のようなものじゃ。それに下手に攻めると歴代藩主の墓所を傷つけることになる」

「亡き殿様たちを人質にとられているようなものですな」

「籠城するには、これ以上の場所はない。武石半兵衛も、そのあたりを分かって、ここに立て籠もったのだろうな」

「おそらく」

「そなたなら、どう攻める」

 戦局は膠着状態にあった。包囲軍は、どう攻めるか苦慮していたし、籠城側にも打つ手はなかった。ときどき山の上から銃声が聞こえてくる。立て籠もった討幕軍が撃っているのだろう。それ以外に動きはない。黄昏が深くなり、篝火が闇を焦がして燃えていた。

 犬千代は、静かに隊を離れて闇の中に消えようとしていた。

「どこに行くのです?」

 突き刺すような目で文が睨んでいた。

「気になることがあって……」

「気になること?」

 それは初め、胸にきざした微かな疑問だった。微かだが消えない疑問。喉に刺さった抜けない魚の刺のように犬千代を苛立たせ、今ではうるさい胸騒ぎの種となっていた。その疑問に答えを出さないと、とても悪いことが起きるのではないかという胸騒ぎ。

「私の考えずぎかもしれません。確かめてきます」

 犬千代はひとりで行こうとした。

「ダメです。あなたはいつもひとりで勝手に行ってしまう。悪い癖です」

 犬千代は、文から目をそらすことができなかった。その視線を断ち切るのは難しそうだ。

「私も行きます。何かあったとき、伝令役くらいにはなれますから」

「でも、天一郎さんのことは……」

 文は天一郎の心配でそれどころではないのではないのか?

「私がいくら心配しても兄は見つかりません。今は、できることをするだけです」

「分かりました」文は折れない人だった。分かっているはずだった。「どうぞ」

「何?」

 犬千代は、膝をついて背中を差し出している。

「文さんの足では私についてこれませんから」

「それは……そうですね」

 ためらいながら文は犬千代におぶさった。犬千代は文を乗せて走り出した。

 犬千代は文の想像以上に速かった。目の前の景色が風のように流れていく。

「速すぎませんか」

「平気です」

 昔、まだ子どもだった犬千代を馬の代わりにして、またがって遊んだことがあった。あの頃は、つぶれそうな小さな背中だった。そして、髪の毛から香るこの匂い……。文が犬千代の肩に強くしがみついたのは、振り落とされたくないからだけではなかった。


 白滝山の麓にある古井戸からひとりの若い坊主がはい出してきた。

「大将のところへ……お話ししたいことが……」

 坊主は、すぐに喜多蔵人のところに連れていかれた。

「大平寺から逃げてまいりました。寺の僧侶たちはみな、庫裡(くり)に閉じ込められております」

「そなたはどうやって逃げてきた?」

 蔵人が興味津々に尋ねた。

「寺の秘密ですが、境内の井戸から抜け道が麓までつづいております。そこを通って逃げてまいりました」

「あの噂は本当であったか?」

 蔵人も聞いたことがあった。かつて、世継ぎ争いに敗れ、出家させられて大平寺に追いやられた下泉家の先祖が、夜な夜な女に会いにいくために掘らせた抜け道があると。

「その抜け道を使えば、気づかれずに兵を送り込めるか?」

「はい。私が道案内いたしましょう」

 このやり取りを精一郎は、蔵人の隣で聞いていた。

「その役目は、番犬組にお任せください」

 藩の他の隊は白滝山を包囲するのに動員されている。すぐに動けるのは番犬組だけだ。

「よくぞ言ってくれた」

 蔵人も同じことを考えていたところだった。


 犬千代は漆黒の海を臨む浜辺に着いた。あのとき、藩の武器を奪った奴らは、この浜辺から武器を積み出そうとしていた。“海賊の巣”に隠すために。なのに、今、奴らは山の中の寺に籠城している。初めから大平寺に籠城する計画だったのなら、なぜ、武器を海に隠そうとした。籠城した寺と武器の隠し場所が遠すぎる。それにもっと気になることが犬千代にはあった。白滝山には一魔の臭いがしないのだ。

「何のためにこんなところに来たのです?」

 犬千代の背中から降りた文があたりを見回している。見回したところで、どこもかしこも同じ色の闇にべったり塗り立てられているのだが。

「来た!」

 犬千代は波音が聞こえる彼方を指差した。水平線のあたりにゆらゆらと揺れる炎が見えた。それが2つに増え、4つに増え、やがて十を越える群れになった。

「何なの?」

 文は犬千代の袂を握っていた。

 炎は徐々に大きくなっていく。大きくなるごとに数も増していく。舟だ。文にも分かった。大船団がこの浜に近づいているのだ。

「こっちへ」

 犬千代は、文の手を引いて、打ち捨てられた舟の陰に身を潜めた。舟は近づいている。今では櫓を漕ぐ音すら聞こえている。ふたりとも息を潜めて、小さくなっていた。闇の中で微かに息づくふたつの鼓動。

 舟は次々に浜に着いた。乗っていたのは武装した兵士たちだ。鎧を身に着け、槍や鉄砲を担いでいる。海原藩の兵士ではないことは明らかだ。だが、盗賊や海賊の類でもない。この数、この統制。訓練された兵隊だ。今や、兵士たちの数は千人規模にふくれ上がっていた。

「大筒!?」

 たいまつの明かりの照らされた鉄の塊を見て、文の口から思わず声が漏れた。

「戦を始める気だわ。武石半兵衛の援軍かしら?」

 今度は意識的に声を潜めて、犬千代の耳元で囁いた。

「黙って」

 犬千代の手が文の口をふさいだ。この臭いは……。

 上陸した軍団を迎えに現れたのは、霧山一魔と数人の武士。

「海の向うからよく来てくれた。これで我らの勝利も決まったようなもの」武石半兵衛の右腕と称される笠岡又衛門が代表して礼を言っている。「我が藩としても、海原藩が討幕方に転じてくれれば、こんなに心強いことはござらぬ」

「我が藩って何? 武石たちとどこかの藩が協力してるってこと?」文はしゃべらずにはいられなかった。「自分が藩を牛耳るためによその藩と手を組んだってことじゃない。なんて奴なの」

 文が怒りをたぎらせている横で、犬千代は風向きだけを気にしていた。幸いここは風下だ。犬千代たちの臭いは一魔のところには届かない。

「進軍!」

 号令が聞こえて、軍団は移動を開始した。

「大平寺に向かうんだわ。父上たちが挟み撃ちにされてしまう」

 顔を見なくても犬千代には文の不安が伝わる。

「いや、方角が違う。奴らが向かっていった方向にあるのは……」

 ふたりとも同時に同じ結論に達した。

「お城だわ!」文の指が犬千代の肩に食い込んだ。「どうしよう? あいつらお城を落とすつもりよ」

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