第6話 獣剣
藤村道庵が赤羽道場を訪ねてきた。文の往診に来たのである。いつもはひとりで来るのに、今回はおかしな従者を連れてきた。頭巾をすっぽりかぶって顔を見せようとしない。声も出さず、小さくなって部屋の隅に控えている。
「痣はまだ残っておるが、全快と言っても差しつかえないだろう。普通のお嬢さんならまだ寝込んでいるところだがの」
着物を下した文の背中を触診して、道庵は御墨付を与えた。その診察の間中、従者は後ろを向いて文の肌を見ないようにしていた。
「御付の方、おとなしいんですね」
文が従者の背中に意味深な視線を走らせる。
「子どもの頃から顔に腫物がありましてな。ああやって隠しておるのです」
「でも、お口は利けるんでしょう?」
「なにぶん女に慣れておりません。恥ずかしがりの臆病者です」
「天狗様といい、近頃は恥ずかしがりの殿方が多いこと」
「は?」
道庵には、その言葉の意味がはかりかねた。
診察が終わる頃合いを見計らっていたのだろうか? 精一郎が顔を見せた。
「道庵先生、帰りにわしの部屋でお茶でも1杯」
男だけの部屋に入ると、精一郎も道庵も、それまでの笑みを脱ぎ捨てた。腕組をして難しい顔で向かい合っている。犬千代は、まだ頭巾をかぶったまま、影のように控えている。
「まさか、こいつを連れてくるとは思いませんでした」
精一郎は少し戸惑った声をしている。
「連れて歩かなければ用心棒にはならんだろう」
「それはそうですが」
「本当にわしの命が狙われていると思うか?」
「おそらくは」
「ふ~む」という道庵の唸り声をきっかけに、また、みんなで黙り込んだ。
「おぬしはどうするんだ?」沈黙を破ったのも道庵だった。「開国派につくのか? 攘夷派か?」
「まだ決めておりません」
「慎重だの。優柔不断とも言うが」
道庵がチクリと刺した。
「異国と戦をしたらどうなります?」
「孫子の兵法に曰く、敵を知り己を知らば百戦あやうからず。今、我々は敵の何を知っておる」
「ほとんど何も」
「なら百戦あやうしだ。おまけに自分のことも分かっておらん」
「そうですな……」
精一郎は意味もなく天井の木目を見上げた。それから、目を閉じて、ずっと上を見ていた。そして、おもむろに目を開いて語り出した。
「若い頃、隣の藩で役人をしていました。沖合で難破して異国船に救われた漁師がいて、異国まで連れていかれたそうです。確か、その国の名はアメリカ……」
「その話なら聞いたことがある」
「その漁師、アメリカとやらでしばらく暮らして帰ってきたのですが、その時の取り調べに同席しました」
「それは面白い」
道庵が膝を乗り出した。
「その男の語る話が突拍子もない話ばかりで、きっと異国に流されたせいで気がふれたのだろう、と言っていました」
「どんな話をしていた?」
「アメリカでは身分というものがなくて、なにものにも縛られないのだとか。それに国の殿様をみんなで選ぶのだと。本当でしょうか?」
「本当らしいぞ」
「へ~」
それは影のように存在を消していた犬千代の喉から転げ出た声だった。
「それが本当だとすれば、すごい国だ」
遠くを見るような目で精一郎がつぶやいた。
「だがな。異国の人間も優れているばかりではない。シナなぞは、アヘンと兵力で無理やり屈服させられた。ずる賢くて乱暴なところもあるんだ」
「いずれ、この国も同じでしょう」
「まあな。だが、そんな連中が攻め込んできたら、おぬしはどうする?」
精一郎は一瞬、口をつぐんだ。
「戦うしかありませんかな」
「では、攘夷派につくと?」
「しかし、あの連中のやり方にも賛同できかねます。話の合わないやつは問答無用に叩っ斬るというやり方も」
「結局、堂々巡りじゃな」
「そういうことです」
精一郎と道庵、ふたりで苦笑した。
不意に精一郎が手をあげて、道庵の口を閉ざした。
「お茶を持ってまいりました」
文が襖を開けて入ってきた。
「何のお話をしていらしたんですか?」
まず、道庵に、それから精一郎に茶を出して、文が尋ねた。
「なに、男同志のくだらん与太話ですよ」
道庵が代表して答えた。
「こちらの方もですか?」
文は最後に犬千代の方へ盆にのせた茶碗を持ってきた。
犬千代は更に頭を下げて、顔が見えないようにした。文は、顔を低くして、頭巾の中をのぞき込もうとしている。のぞかせまいと、もじもじ身をよじる犬千代。それを穴が開くほどじっと見つめている文。
「熱いのでお気をつけて」
と言ったと同時に茶碗が倒れて、犬千代の膝を濡らした。わざとだった。
「ま、大変!」
あわてたふりをして文は布巾で膝を拭いた。犬千代は無言でその手を押しとどめた。ふたりの間の小さくて静かな攻防。
「文、もういいから!」
精一郎の声は思いのほか厳しくて、文の手が即座に止まった。
「行きなさい」
「は~い」
しぶしぶと文は部屋を出ていった。
足音が廊下の彼方に小さくなって消えたのを確認して、犬千代は、畳の上を転げまわって熱がった。今まで我慢していたのだ。
「さて、そろそろおいとまするか」
犬千代が落ち着いたのを見届けて、道庵は立ち上がった。
「お帰りですか?」
精一郎としては、もう少し話し相手になってほしかったのだ。
「そろそろ日も暮れる。夜道は危ないのだろう」
犬千代は、また影のようになって道庵のあとについていった。
杖をつく道庵のあとに薬箱を背負って体を小さくした犬千代が続く。それは、どう見ても当たり前の主人と使用人のふたりに見えた。黄昏はひたひたと忍び寄る。細い道に他に人影はなかった。
「どうやら出番のようだ」
道庵がゆっくりと歩みを止めた。振り向くこともなく後ろの犬千代に囁いた。犬千代は言われなくても分かっていた。道をふさぐように大きな影がたたずんでいる。笠の下で表情は見えないが、たぶん笑っている。これから始まる狩りが待ちきれずに。
犬千代は薬箱を降ろして道庵の前に出た。丸腰で。
「ほらよ」
道庵がついていた杖を犬千代に放った。受け取った瞬間、杖は犬千代の手でふたつに分かれ、残照に光った。仕込み杖だったのだ。
「懐かしい臭いがする」笠の下から地をはうような声が響いてきた。「そいつの飼い犬か?」
「そっちこそ誰の飼い犬だ?」
刀を構えながら犬千代は姿勢を低く低くしていった。笠の下から刺客の顔がのぞけそうなくらい。
「知ってもしかたあるまい」相手は笠の下から見下している。「どうせ、おまえは死ぬ」
抜いた刀は風になり、犬千代に向かって吹き下った。犬千代も風になって舞い上がった。黄昏の中でふたつの刀が火花を咲かしては散らした。ふたつの影がひとつになり、別れ、またひとつになるのを道庵は目を凝らして見つめるだけだった。どちらが優位で、どちらが押されているいるのかも分からない。それは黄昏が濃くなったせいではなかった。ふたりの動きが人の能力を超えて速いからだ。
何度目かの火花が散って、犬千代と敵は、また距離をとった。ふたりとも肩で息をしていた。
「久しぶりに倒し甲斐のある相手だ」
敵は笠を脱いで捨てた。笠は遥か闇の奥に消えていった。
「本気にならせてもらおう」
敵は量の拳に力をこめた。胸の筋肉が別の生き物のように蠢いて、着ているものが裂けた。毛穴という毛穴から邪悪な何かが噴き出してくる。それは黒々とした毛だった。みるみる人から獣に変じた男は、月と星を隠した分厚い雲に向かって吠えた。それを聞いて、ねぐらへ向かうカラスたちが怯えて騒ぎ立てた。
獣となった男は、再び風となって犬千代に吹きつけた。さっきよりも速くて、強くて、凶暴だった。もはや風ではない。嵐だ。犬千代の刀は、荒波に翻弄される小舟だった。繰り出される刃を受け止めて跳ね返すのが精一杯だ。いや、跳ね返すことはおろか、受け止めることもろくにできていない。獣の刀を押し返すたびに、体の傷が増えていった。腕に、拳に、胸に。徐々にその傷は深くなっていく。
「グッ!」
噛みしめた歯の奥から思わず声が漏れた。肩の肉を持っていかれた。今度の一撃は喉に来るだろう。もう防ぎ切れない。
「どうした?」獣の声が嘲るように笑っている。だが、そのどこかに苛立ちが混ざっている。「なぜ、本気を出さない」
本気だと? 俺は本気だ。犬千代は胸の中でつぶやいた。だが、本当は分かっていた。本気になるのが怖いのだ。本気になって、自分を見失ってしまうのが。物心ついたときからずっとそうだった。それが身にも心にも染みついてしまっているのだ。
「本気になる気がないなら」獣の声が突き離すように響いた。「ここで死ね!」
雄叫びとともに剣と一体となって獣が突進してきた。犬千代には全て、時間が止まっているように見えていた。獣のぎらつく瞳も、剥き出しになった牙も、冷たく光る刀身も。なのに指1本、顔の筋肉ひとつ動かない。死ぬときはこういうものか。つぶやく自分の内なる声が聞こえた。
時間は確実に、ゆっくりと犬千代の死へ向かって動いていた。それは手にすくいきれない水のように止めることはできないのだ。だが、1発の銃声がその流れを止めた。
飛んできた銃弾が獣の胸に食い込んでいた。獣は予想外の一撃が飛来した方向に目を向けた。道庵が短筒を手に立っていた。その銃口から立ち昇る火薬の臭いをはっきり嗅いだ。
「飛び道具か。だが、この程度の傷……」
獣の恫喝は最後まで続かなかった。なぜなら、下から斬り上げた犬千代の剣が、獣の右手首を宙に飛ばしていたからだ。
「おのれ! 憶えていろ!」
怒りと悲鳴と哀しみをないまぜにした絶叫を残して、獣は闇に消えた。
「そんなものを持っていたんですか……」
歩み寄ってきた道庵に犬千代は囁いた。苦しそうな息で何とか笑おうとしていた。
「これでも元は武士だからな。ま、ちゃんとした武士は、こんなもの使わんか」
道庵の返事は犬千代の耳には届かなかった。闇の向うに遠く微かになって、周りの景色も遠くなって、犬千代は意識を失った。
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