第7話 3匹の獣
気がつくと、文の顔が目の前にあった。険しい眼差しが見下ろしていた。一瞬、浮かんだ笑みをあわてて引き締めて怒った顔をつくったことを犬千代は知らない。反射的に逃げ出そうとしたが、傷口の痛みも目覚めて体が動かなかった。いや、動こうと思えば動けたのかもしれない。
道庵の療養所の一室だった。
「やっと捕まえた」
文の言葉にどう答えていいか分からなかった。
「捕まりました」
「道庵さまから報せがあったとき、私も父上のそばにいたのです。家にいろ、と言われましたが、わがままを言ってついてきました」
「すっかり大人になられた」
「犬千代もね。でも、一目で分かりました。こそこそしているところがあの頃とそっくり」
「それは気づきませんでした」
「私が襲われているのを助けてくれたのは犬千代でしょう?」
「そうです」
「あのとき、なぜ、黙って立ち去ったのです?」
「黙って出ていったのを怒っているのではないかと思って」
「そんなに執念深い女じゃないつもりですけど」文は、怒りを表すように一瞬そっぽを向いた。「で、なんであのとき出ていったのです?」
「分かりません。よく憶えていないのです」
「分からない、って」
「ただ、私がそばにいてはいけない、と思ったのです」
「何、わけの分からないことを」
「すいません」
犬千代は布団をかぶった。
「また逃げる気ね」
精一郎と道庵は、別室で1本の手首を見下ろしていた。道庵を襲った刺客が落としていったものだ。斬り落とした直後は獣の手だったのに、今は人間の手に戻っていた。
「すると敵は妖怪変化だというのですか?」
精一郎は、獣と犬千代の死闘の一部始終を聞いていた。
「西洋にこんな化け物がいると聞いたことがある。そやつらは普段は人間の姿形をしているのだが、満月の夜になると狼に変化するのだ」
「昨夜は満月ではなかったが」
「ああ。だが、その同類なのかもな」
「海の向うから来たと?」
「いや、南蛮人には見えなかった。この国にだって、我々の知らぬ一族がいるのかもしれん」
「犬千代もその同類なのでしょうか?」
「あの男は獣になったりはしなかったぞ」
それを聞いても精一郎の心のざわめきは治まらなかった。
「ただ、傷の治りが早い」道庵の不安そうな眼差しは何を語っているのか?「
人間離れしておる」
精一郎が犬千代と文がいる部屋を訪れたとき、犬千代は、まだ布団の下に隠れていた。
「いつまでそうしているつもりですか?」
「いましばらく」
「まるで子どもを起こそうとしている母親だな」
精一郎に笑われて、文は顔を背けた。赤くなったところを見せたくなくて。
「文、少しはずしてくれ」
「また、私をのけ者ですか?」
もう従えない、という目で父親を睨みつけた。
「男同志の話があるのだ」
「何ですか、それ?」
男同志、便利な言葉だ。
「女には言えん」
「いやらしい!」
文は席を立って部屋を出た。納得していないということを示すために、音を立てて障子を閉め、足音を響かせて廊下を歩いていった。
「申し訳ありません」
「そのままそのまま」
精一郎が止めるのも聞かず、布団の上に正座した。
「道庵殿をよく守ってくれた」
「いいえ、道庵さまの短筒のおかげです」
「あんなものだけでは守れんさ」
精一郎は、ついさっき道庵と交わした会話を思い出していた。
「犬千代があの化け物と同類だったらどうする?」
精一郎は答えられなかった。俺は犬千代を怖れているのか?
「ま、人だって聖人君子もいれば、極悪人もいるがな」
沈黙を破ったのは道庵だった。
「ですな」
そう言えた瞬間、何かから解放された気がした。
「敵を前に本気にならなかったのか?」
「あいつにも言われましたが、本気とは何か分かりません」
「だが、おまえは自分にタガをはめている。それはわしにも分かる」
「怖いのです。タガはずしたら自分がどうなってしまうのか……」
「だが、はずさなければ敵を倒せない」
「はい」
「心を鍛えるしかないな」
「どうすればいいのでしょう?」
「わしにも分からん」
精一郎の答えは、犬千代を奈落の底に突き落とした。
「鬼(おに)影山(かげやま)に石(せき)燕寺(えんじ)という山寺がある。荒れ果てて、お化けが出るというので近づく者もいなかった。それを応挙(おうきょ)という坊主が買い取って住職をしておる。会いに行け」
「その方が導いてくれると?」
「変わった方でな。どうやってお化けを退治したのかきいたら、『退治などせん。仲良くなっただけだ』と言った。つまらんことにこだわらん。あの御仁なら道を示してくれるやもしれん」
国境の峠道を3人の男が歩いていく。先頭に立っている男は、小柄なのに身の丈よりも長い刀を腰に差している。鞘の先は地面すれすれを移動しているが、決して土に触れることはない。そのあとから2人が並んで歩いていく。1人は中背の筋肉質の男、肩に赤い槍を担いでいる。もう1人は、顔も体も丸くふくれた、見るからに力士くずれ。はだけた浴衣の胸から白くて女のような胸の肉がのぞいている。どちらも先頭の男から3歩さがってついてくる。歩幅を考えれば、もっと戦闘との距離が詰まってもいいのだが、さっきから近づきもしなければ離れもしない。ぴったり距離をおいてついてくる。
「追ってが来たな」
先頭を行く男の歩みがわずかに緩んだ。
「5、60人か」
「盛大な御見送りだな」
「ちょっと待ってやるか」
先頭の男の言葉で3人が立ち止まった。初めていま来た道を振り返る。だが、追いかけてくる人影も見えないし、足音も聞こえない。仏法僧の鳴き声が聞こえるだけだ。
「やっとお出ましだ」
槍を担いだ男が、大あくびに続いて口にした直後、大地を叩くような足音が聞こえてきた。乾いた道の向うに砂煙が上がり、侍の集団が押し寄せてきた。
「霧(きり)山一魔(やまかずま)逃がさんぞ! 我ら戸田道場一門が、師匠・戸田鉄斎の仇を討つ!」
リーダー格と思われる侍が甲高い声を上げた。
「別に逃げる気はないが」
1番小柄な男が、顎を掻きながら連れの2人と目を合わせた。
「ここはわしに任せてくれんか」力士くずれが前に出た。「ちょうど腹ごなしをしたかったところだ」
「ま、いいだろう」
あっさり許可を与えたのは霧山一魔だった。
「少しは俺にも残しておけよ」
槍の男は、やや不服そうだ。
「ふざけるな」
追っ手たちは、そのやり取りを歯噛みしながら睨みつけていた。血の気が多い5人が堪えきれずに斬りかかった。だが、一太刀も当たらない。石を投げればはずしようもないような巨体が、鰻か何かのように刀と刀の間を擦(す)り抜けていく。それくらい力士くずれの動きは敏捷だった。焦りと怒りと恐れが追っ手たちの心と体を支配していく。
「おのれ!」
ひとりで斬り込んだ男の太刀が空を切った次の瞬間、力士くずれの分厚い掌がその顔面にめり込んだ。グシャッという野菜か何かがつぶれるような音がした。力士くずれの手が顔から離れると、そこには血まみれで人相も分からない肉の塊。力士くずれは、崩れ落ちる男の襟首をつかんで、すでに絶命した男の着物で返り血を拭った。
もはやひとりで斬り込む勇気のある者はいなかった。2人、3人と同時に向かっていったが、結果は同じことだった。
気がつけば、その場に立っているのは、霧山一魔と仲間の2人だけ。血の海に人相も定かでない5、60人の侍の骸が浮かんでいた。
「雷迅(らいじん)のやつ、とうとうひとりで平らげやがった」槍持ちがあきれたようにつぶやいた。「こっちの分も残しておいてくれればいいものを」
「すまんな、厳(がん)鬼(き)。ついつい夢中になって」
「おまえは夢中になると周りが見えなくなる。悪い癖だ」
「そういう厳鬼だって」
2人の言い争いは、まだまだ続きそうだった。
「よさんか」止めたのは霧山一魔の声だ。「海原藩に行けば、いくらでも人を斬れる」
その一声で3人は再び海原藩への道を急ぎ始めた。
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